Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
江古田文学 27巻2号 2007
下原敏彦・下原康子 著『ドストエフスキーを読みつづけてD文学研究会 2011 所収


ケアの達人 「わたしのアリョーシャ」論  

下原 康子

はじめに

『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャはわたしにとって長い間「謎」であった。ドストエフスキーは序文や本文の中でもしつこいくらいアリョーシャが「主人公」であることを読者に吹き込んでいる。しかし、わたしにはドミートリーやイワンの迫力の方が勝っているように思われた。とはいえ、ドストエフスキーが最後の小説で「わたしの主人公」とした人物である。やっぱり気になる。わたしにとってのアリョーシャとはいかなる人物か、今改めて考えてみようと思い立ったとき、浮かんできたのが「ケア」ということばである。次の4点に注目して、亀山邦夫訳で再読してみた。
@現代のキリスト A ケアのお手本 Bケアの能力 Cケアの実践

1.「現代のキリスト」 ムイシュキンからアリョーシャへ

ドストエフスキーの世界は満天の星空のようだ。星座単位で眺めてもいいし、個々の星に目をこらしてもいい。いつまでも見飽きることがない。星たちは一等星から六等星にいたるまで名前を持ち、それぞれの星座の中に独自の場所を与えられ、隣り合う星とは違った色調の輝きを放っている。その中にあって特別にマークされた二つの星が目にとまる。異なる星座の星だが同じしるしがある。青みを帯びたやわらかな光を放ち、あきらかに一等星であるにもかかわらず、ともすると周囲の星の輝きで目立たなくされている。この二つの星とは『白痴』のムイシュキンと『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャである。「キリストより美しい、深い、好感がもてる、理性的な、雄々しい、完全なものはなにもない。真理がキリストの外にあるとしても、わたしは真理とともにあるより、キリストとともにあることを望む」このドストエフスキーの信念を「現代のキリスト」として再現させた人物がムイシュキンとアリョーシャであるといわれている。

ところで、「現代のキリスト」の二人はあまり似ていない。空から舞い降りたかのようなムイシュキンに対して、アリョーシャはカラマーゾフという大地にルーツを持っている。てんかんを病みどこか弱々しいムイシュキンに対して、アリョーシャは、「薔薇色の頬と澄んだまなざしをもつ、はちきれそうに健康な青年」である。自らも病人のムイシュキンに「病人」のナスターシャやラゴージンが救えるはずもない。彼らと共に破滅するしか術がない。それでも読者は最後の「破滅」の場面に心打たれ、ムイシュキンが肯定的な「美しい人」であると感じる。しかし、現実的なお手本にはなりえない人物である。一方、心身ともに健康な青年であるアリョーシャには期待できそうだが、この青年、感情を表に出すことがほとんどなく、口数も少ない。少々わかりにくい変わった人物のようだ。

2.アリョーシャを「ケアのお手本」に 

ドストエフスキーが「現代のキリスト」として描いたアリョーシャだが、このたびわたしは彼を現代社会における「ケアの達人」に見立ててお手本にしたいという大それたアイディアを持ったのである。まずはわたしが「ケア」と「お手本」にこだわった理由に触れておきたい。現在わたしはがん専門病院の中に開設された患者向けの医学情報図書室で働いている。資料の収集・整理・提供が主な仕事だが、コーヒーサービスをきっかけに深刻な打ち明け話に接する機会がある。心ならずも「ケア」を担う側に立ってみてひどくとまどった。「人間」を求められている場面でロボットと化している自分がいたからだ。それどころか、これまでの人生でもずっとロボットであったような気さえしたのである。苦しみのただなかにある人に対峙するにはどのように考え、どうふるまえばいいのか。魂の奥底から発せられることばにどう答えればいいのか。「人間」であるために本当に必要なものは何か。それを教えてくれる「お手本」をアリョーシャに期待したのである。

「ゾシマ長老はアリョーシャをケアのボランティアとして俗界に送り込んだ」というのがわたしの解釈である。「ケアの時代」と言われる現代においてケアの実践家ほど切実に求められている人材はない。しかし、ふさわしい才能がどのようなものかはっきりしないことに加えて、多種多様な偽者が幅をきかせ、よいお手本が見つけられない状況が蔓延している。

広井良典(『ケア学 越境するケアへ』医学書院)によれば、「ケアされる」相手に対して何かを「する」ことだけが「ケア」ではない。深い意味でのケアの本質は「聴くこと」「そばにいること」「その人に時間をあげること」にこそある。そして、その時間は単なる「カレンダー的時間」ではなく、人と人との関わりにおいて、<より深い何ものか>に触れる「深層の時間」だという。わたしにはまるでアリョーシャの実践を解説しているかのように読めた。

それにしても、アリョーシャをわたしの「主人公」に、また「お手本」にするためにはかなりハードルをさげる必要があった。「現代のキリスト」はひとまずカッコに入れた。かわりに「ケア」ということばを登場させた。凡庸になった代わりに実用向きにはなった。考えてみると「ケア」の本質は「癒し」であり、「ケア」は「癒し」を実践的側面から言い換えたともとれる。となれば、実践家であるアリョーシャは「ケア」の担い手のはずである。「癒し」は真似ることはできないが「ケア」の実践ならば「お手本」にできるのではないかと考えた。以下、アリョーシャの「ケア」の能力と実践の場をみてみよう。

3.ケアの能力 @ 変人−憑依

変人であることがケアの能力というのは奇妙に聞こえるが、アリョーシャにおいてははずせない点である。

「序文」によれば、アリョーシャは「たぶん実践家であっても、あいまいでつかみどころのない実践家」であり、「変人と言ってもよいくらい変わり者」だという。ドストエフスキーにあっては「主人公」になれるのはいつも「変人」である。「常識人」は脇役が相場だが、ポリフォニー的にはジャーナリズムの役割を担っている点が注目に値する。(西欧派の地主ミウーソフ、野心家の神学生ラキーチン、好感度抜群の官吏ペルホーチンなどがこの部類に入る)。

「変人はかならずしも部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、何か急な風の吹きまわしでしばしその変人から切り離されている」この一見奇妙な「変人理解」がドストエフスキー文学の核心に近いものとして存在しているように思われる。ムイシュキンは明らかに「変人」だがそれには病気が一役買っている。

ではアリョーシャのどこが「変人」なのだろう。亀山郁夫氏は「解題」の中でアリョーシャのまれにみる能力として他者との「同化力」「他者に同一化する感応力」を上げている。その力は言い換えれば「他者に憑依する力」「乗りうつる力」でもあり、さらに言い換えれば「神がかり」であり「変人」たる所以といえる。この「神がかり」が読者の躓きの石となることを恐れてか、作者は「彼は狂信者でも神秘家でもない。それどころか、ほかのだれよりもリアリストである」と書いている。たとえ「変人」がベースにあったとしても、アリョーシャが誰からも愛されるアイドル的存在であることにかわりはない。しかし、多彩なプラスαを秘めた「謎」の多い人物という印象はどこまでもつきまとう。

4.ケアの能力 A 傾聴

アリョーシャの卓越した「ケア」の素質の一つは「傾聴」の能力にある。登場人物の多くがアリョーシャと関わり、彼を聞き手に選んでいる。(少ない例外の一人がスメルジャコフである)ドミートリーの「告白」、イワンの「大審問官」はアリョーシャに向けて語られた。ゾシマ長老最後の談話はアリョーシャへの遺言であった。グルーシェンカは「一本の葱」の話をし、カテリーナはドミートリーに対する屈折した思いを打ち明けた。あの父親フョードルでさえアリョーシャと話すときには心をなごませた。ホフラコーワとリーザ母子にとってアリョーシャはおかかえカウンセラーであった。彼はまた少年たちやリーザのスクール・カウンセラー役も担った。現代において「傾聴」はますます求められ、珍重される役割の一つとなっている。考えてみれば不思議なことだが、人は話すだけで心の負担が軽くなったと感じるものだ。また、話しているうちに混乱していた考えが整理されていき、自分なりの判断や納得に向かっていく。

わたしの「傾聴ボランティア」としての役割は存分に話してもらうことで、それ以上でもそれ以下でもない。ところが、体験してみるとこの「存分に話してもらうこと」がなかなかに難しいことを実感する。というのは、一生懸命聴こうとすればするほど「相手に話してもらうこと」よりも「聴いている自分」「考える自分」を意識し「賢い一言」をあれこれ検討しはじめるからである。当然のことながら口をはさみたくなってくる。そこで持ちこたえられず「姑息な知識」や「おためごかし」を披瀝すると、後に続くのはお定まりの後悔と自己嫌悪である。

亀山氏はアリョーシャの「オウム返し」を指摘し、それが「憑依の力、ないし、シンクロする一つの資質とみるべきなのか、あるいは逆に、他者にたいする決定的な想像力の欠落とみるべきか」決めかねているという。「憑依の力」は了解不能な領域なのでなんとも言えないが、「ケア」の観点から言えば「オウム返し」は相手への共感の気持ちを表すために使われる会話技術の一つである。しぐさや顔の表情を伴って効果を発揮するものだ。会話技術が貧困なわたしにとっては重宝な方法ではある。もちろん、アリョーシャの「ケア」は「傾聴」だけでは終わらない。彼は実践の人である。「アリョーシャの愛の性質はつねに実践的だった。受身で愛するということが彼にはできず、いったん愛したとなると、ただちに相手を助けにかかるのだった」そういうアリョーシャにあっては「傾聴」が実践へ至る近道であったのだろうか。

5.ケアの能力 B 顔

アリョーシャの活躍は地味すぎて出番が多いわりには目立たない。強烈で広長舌ぞろいの人物の中ではかすみがちである。彼の「傾聴」という卓越した特技は他の追随を許さないが、ことばで成り立つ文学の世界では分が悪い。その点、映画・演劇の方が有利かと思われるが「美しい人」を演じるのはこの上なく難しいだろう。セリフが少ない分、<顔>が強調されるからだ。なぜ、ムイシュキンとアリョーシャばかりが熱烈に「おまえが必要だ」「あんたのような人を待っていたの」とむしょうに愛されひっぱりだこになるのか、その疑問は今回の再読でも解消しきれなかった。「ケアの達人」たる核心的理由の一つがそこにありそうな予感がするのだが。かろうじてヒントらしき箇所をいくつかみつけた。そこに共通しているのが<顔>である。

(一)アリョーシャが四歳のときに亡くなった母は「神がかり」の女性だった。まだ幼かったアリョーシャだが、「斜めにさしこんでくる光とともに、この母のことをその<顔だち>や愛撫をまるで目の前で生きて立っているかのようにはっきり記憶していた」
(二)ゾシマ長老「アレクセイ、わたしがおまえをあの人(ドミトリー)のもとに遣わしたのは、弟としておまえの<顔>があの人の助けになると思ったからなのですよ。(略)わたしはこれまで心のなかで何度もおまえを祝福してきましたが、これはおまえの<顔>ゆえなのです」。ゾシマ長老はアリョーシャの<顔>がゾシマにとってある人の記憶、ひとつの予言のようなものであると言って、若くして亡くなった兄マイケルの思い出を語る。
(三)エピローグの「カラマーゾフ万歳」の場面ではアリョーシャが「みなさん、ぼくはこうしてぼくを見ている一人ひとりの<顔>を、たとえ三十年たっても思いだします」と話す。
(四)(書かれた箇所を確認できなかったのだが)アリョーシャがカテリーナの<顔>に恐怖を感じた、という記述がある。『白痴』ではムイシュキンがナスターシャの<顔>をしきりに恐れていた。

どうやら<顔>は記憶と関係があるらしい。木下豊房氏の「思い出は人間を救う−ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について−」(ドストエフスキー広場No.16)を読んで「顔=思い出」で呼び覚まされた「なつかしさ」には「癒し」や「ケア」の効果があることに思い至った。一方、恐怖を感じる<顔>は何を示唆しているのだろう。人間一人ひとりの実存の実感を<顔>というリアリティーで表現しようとしたのだろうか。<顔>の謎は依然として残る。

6.ケアの実践 @三角関係の仲裁役

これよりアリョーシャの「ケア」の実践を取り上げてみよう。

最初の事例は「ケア」の実践としては失敗かもしれない。しかしそれなりに示唆に富むものである。子どものように純粋で小細工のないアリョーシャの態度が魅力的で、緊張をはらんだ中にもほのぼのとさせられる。わたしの好きな場面だ。ホフラコーワ夫人からカテリーナはイワンが好きなくせに「錯乱」のためにドミートリーへのみせかけの愛で自分を苦しめていると聞かされたアリョーシャは急に目の前がぱっと明るくなる。曖昧模糊としていた三角関係を解決する糸口を発見したと思い込み、いっきょに解決へと動き出す。そうだ、すぐにでもドミートリーを呼び出しカテリーナとイワンの手を一つに結ばせようとあせりまくる。

しかし、あまりに早急、あまりに単刀直入なアリョーシャの仲裁は大失敗に終わる。カテリーナの「錯乱」は溶けず、イワンも本心を見せず去っていく。アリョーシャは恋愛問題について何も理解できない自分がでしゃばって「二人の手を結ばせようとした」ことをたまらなく恥じ「すべて精心誠意でやったことだけれど、こんどはもっと賢くならなければ」と反省する。

「あなたは何も悪いことなんかなさっていません、天使みたいに立派にふるまったじゃないですか」とめずらしくピントのあったホフラコーワ夫人が熱心になぐさめる。仲裁は失敗したかにみえる。しかしイワンとカテリーナはアリョーシャのドジによって何かに気づかされ新たな予感と希望を心に宿したのではないか。その証拠にイワンはアリョーシャの考えを勘違いと否定しながらも、その表情は「今まで見たこともないどこか若々しいひたむきさ、抑えようもない強くおおらかな気持ちが浮かんでいた」し、またイワンに去られたカテリーナはひとしきりヒステリーを起こしたあとでアリョーシャにスネギリョフのところに二百ルーブリを届けてくれるように頼む。アリョーシャのドジは少なくとも二人の心を和らげる効果はあった。みせかけの展開の裏側では決定的な破局に至っておらず、二人の別れには希望の気配が残った。

7.ケアの実践 Aスネギリョフに憑依する

「禍転じて福となす」を地でいったような事例である。アリョーシャの「ケア」の才能が遺憾なく発揮されている。自分の指に突然噛み付いた幼い少年がスネギリョフの息子だと直感したアリョーシャは、目的が定まり見通しを得て晴れ晴れとした気持ちでスネギリョフの家に向かった。しかし、スネギリョフはアリョーシャが手渡した二百ルーブリを一度は受け取りながらも、最後の瞬間にくしゃくしゃにして地面に投げ捨ててしまう。目的は不首尾に終わったかに見える。またしてもドジを踏んだのだろうか。

しかし、アリョーシャは「ぼくはたしかにあそこでミスをおかしました。でもそのミスが吉とでたのです」と婚約者のリーザに語る。この件に関しては確かな手ごたえを感じているらしい。まるでスネギリョフに憑依したかのように、あのときスネギリョフが「ああするしかなかった」心の動きを手にとるよう説明してみせる。その上で、今後の展開について「願ってもないくらいよい感じ」になると「予言」するのである。その「予言」は読者にも信じられるものとして伝わる。

アリョーシャの報告を感嘆しながら聞いていたリーザが「あれこれ穿鑿するわたしたちの考え方にあの人にたいする軽蔑のようなものがまじってはいないかしら」と目が醒めるような質問を発する。アリョーシャの胸にも兆した疑問だったが「ぼくたち自身があの人と同じなのにどこに軽蔑が入り込む余地があるんです?」としっかり答える。そして続けて語る。

「リーザ、長老さまがあるときこんなことを言ったことがあるんです。人に対してはいつも子どものように面倒をみてあげなくてはいけない、またある人に対しては病院の患者のようにって・・・」「ゾシマ長老はアリョーシャをケアのボランティアとして俗界に送り込んだ」というわたしの解釈の根拠とするのがこの部分である。

8.ケアの実践 Bリーザへのカウンセリング

亀山訳の小悪魔少女リーザはさらにパワーアップして魅力的になっている。「第二の物語」ではアリョーシャの運命を翻弄するヒロインになるはずであったが「第一の物語」の中でも、彼女がアリョーシャのもっとも困難でやっかいなクライエントの一人であることは間違いない。

彼女はアリョーシャが語るスネギリョフの話に鋭いつっこみを入れながらも神妙に耳を傾け、「病院の患者さんみたいに、みんなの面倒をいっしょにみてあげましょうね」などと殊勝なことをいう。ところが、引き裂かれた心の片方ではイワンのことを思っているのだ。アリョーシャにラブレターを送る一方でイワンに「壁にはりつけにされた子どもの真向かいでパイナップルのコンポートを食べてみたい」などと挑発的な手紙を書き送っている。イワンから返事がこないとみるや、「今日中に渡して。そうじゃないと毒を飲むわ」とアリョーシャを脅して二通目の手紙を託す。がくがく震えるその様子は尋常ではない。心配するアリョーシャを締め出した後に、ドアの隙間に指をはさみドアを閉めて指をつぶすという自虐的な行為に及ぶのである。「わたしってなんていやらしい・・・いやらしい・・・」とつぶやくその姿はリストカットに走る少女たちを連想させる。

ところで、手紙をあずかったアリョーシャはどうしたか。(母親のホフラコーワ夫人なら開封して読み、すぐにアリョーシャを呼びつけただろう。現代のカウンセラーなら精神科医に紹介しただろう)アリョーシャはといえば、手紙を開こうともせず、そのままイワンにおずおずと差し出すのである。そのときのイワンは「せん妄症」をきたしはじめている。彼はリーザの筆跡を見てとり「小悪魔が!もう色目を使いやがって」と毒々しく笑って破り捨てる。アリョーシャは悲しげに熱をこめて弁護する。「子どもを侮辱するんですね!彼女は病気なんです!ひょっとしたら、彼女は気がくるいかけているかもしれないんです・・だからさっきの手紙だって、兄さんに渡さざるをえなかった・・・ぼくは、逆に、兄さんから何かを聞きたかったんです・・・彼女を救ってくれる何かを」

アリョーシャはリーザのことを恋人であると同時に面倒をみてあげなくてはいけない「病人」として捉えている。ドストエフスキー(≒アリョーシャ)の「変人理解」はそのまま「病人理解」にも置き換えられる。「病人こそが全体の核心をはらんでいる」のだ。このことばの意味するところに「ケア」の真髄が存在するのではないか、わたしはそう感じている。アリョーシャの伴侶には『罪と罰』のソーニャのような女性がお似合いと考える読者もいるかもしれない。しかし、アリョーシャにはリーザのように危なっかしくて目が離せない病人がふさわしいのだ。

9.ケアの実践 C教師

アリョーシャがもっとも「ケア」の本領を発揮したのは子どもたちに対してだろう。子どもたちへ与えた影響の大きさを考えると、「スクール・カウンセラー」よりも「教師」が適役かもしれない。アリョーシャは彼独特のやり方、「乳臭い優しさぬきで、けっしてわざとらしくなく、偶然にみせかけて」少年たちをイリューシャと仲直りさせる。それまで敵だった少年たちの友情は死に逝くイリューシャに大きなやすらぎをもたらした。しかし、イリューシャがもっとも待ち望んでいるコーリャはなかなか姿を見せない。

コーリャは、十三年後の「第二の小説」においてアリョーシャに次ぐ主人公になるはずであった。十三歳の彼は知能の高い早熟な少年で、すでにその年でカリスマ性を身につけ、仲間のなかでは専制君主のようにふるまっている。一方で「人類全体のために死にたい」と叫ぶ「殉教者的博愛主義者」であり、ラキーチン仕込みの未熟な「社会主義者」でもある。ガチョウの首切り事件、イリューシャに対する冷酷で軽蔑的な態度と身勝手で心ない「手品」、母親へのおもいやりの欠如、度外れのプライド、ラキーチンとイワンの影響、などなど、「第二の小説」ではさぞかし危なっかしい運命が用意されているに違いない、と思わせられる。「きみは将来、とても不幸な人になります」アリョーシャは思わず「予言」を口走ってしまう。

とはいえ、アリョーシャとコーリャの邂逅は不安を孕みながらも、全体の印象としては明るく微笑ましい。コーリャは「あれこれ想像していた」アリョーシャが自分に対して一人前の男に対するように話かけてくれるのが嬉しくて、思いっきり背伸びをする。そこがいかにも子どもらしくて可愛い。コーリャの十三後を現代にワープさせたら、彼はどのような大人になっているだろうか。為政者か学者か。効率の悪い「ケア」の実践をあざ笑い、人類の諸問題をIT技術あるいはバイオテクノロジーで一挙に解決しようとするかもしれない。たとえそうなったとしても、イリューシャの石のそばで「カラマーゾフ万歳」を叫んだことを思い起こす、そういう一瞬があるに違いない。

おわりに

アリョーシャはドストエフスキーが最後に人類にプレゼントした「宝石」である。まだ磨かれる余地をたくさん残した原石である。今回、わたしは彼を「ケアの達人」に見立ててみたが、成功したかどうかはこころもとない。しかし、「お手本」にはできなくても、わたし自身はアリョーシャから多くを教わった。そして、これまで以上に彼が好きになった。あの世のドストエフスキーに感謝の気持を伝えたい。


アリョーシャはだれか「ケアの達人 私のアリョーシャ論」その後