ドストエフスキィとてんかん/病い


<抜粋>

古川哲雄 著『天才の病態生理 片頭痛・てんかん・天才
医学評論社 2008



ドストエフスキィのてんかん
宗教家の天啓『ペテルブルグの夢―詩と散文―』


2.てんかん:ドストエフスキィのてんかん(P.43-51)

ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキィ(1821-81)にてんかんがあったことはよく知られている。発作は彼の父が農奴に惨殺された18 歳頃より始まったといわれているが、ほかにもさまざまな説がある。発作は最初3か月に1回ぐらいであったが、次第に多くなったという。 1867年2月15日、彼は2度目の妻アンナと結婚して2人で旅に出た。ベルリンを経てドレスデン、さらにバーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーヴに滞在したが、 その間アンナは実に詳しい日記をつけていて、そこには夫フョードルのてんかん発作の様子が逐一記載されている。 (『アンナの日記』木下豊房訳)

1867年
4月17日午前1時45分
5月30日午前4時45分
6月5日午前3時15分
6月26日午前5時10分
8月3日午前5時25分
8月13日午前3時15分
9月10日午前5時10分
9月24日午前4時35分
10月8日午前2時10分
10月18日午前3時
12月9日午前4時30分
12月15日午前7時10分

記載されている発作は以上の12 回、月に1 回以上のかなりの頻度で、いずれも睡眠中に起こっている。ドストエフスキィは明け方近くまで仕事をする夜型の人間で、発作はたいてい入眠直後である。

「彼は不意に叫び声を発した。私はとび起きて、彼のもとへ行った。 叫びは間もなくやんだけれど、衝撃がすごくて、片手全体が鈎のように強く屈曲し、両足も同様だった。」

などと発作の様子が記載されている。発作の前日には前兆があるようで、発作か卒中がおこりはしないかと、彼は一日中、心配していた。眠気がし、頭が重く、歩くのがおっくうで、手、とくに爪がむずがゆい、というのは珍しい前兆の症状である。発作のあとのうつ状態の記載は多い。

「彼はいつも発作のあとには、ひどく気持が沈み、気むずかしくて、まるで誰かの葬式に参列しているかのようである」
「フェージャは発作のあとではいつも苦しむ──とても陰気で気短かになり、何かにつけ腹をたて、つまらないことに神経をとがらせる」
「この頃は発作のあとの意識障害がひどくて、4, 5 日間は正常にもどれない」
「発作後のフェージャは数日間陰気な気分で過ごすので、そんな時私は彼をいらだたせないように、私はつとめて彼を一人にさせておく」

などとあり、アンナの心遣いが読みとれる。しかし彼はまったく治療は受けていないようで、「私がてんかんの件で医者に問合わせを出していることを知ったら、フェージャが腹をたてるであろうことはわかっていた」とも書かれている。「こうした発作に彼がみまわれる時、私は彼が気の毒でならない! ああ、彼が全治できるものなら、私はすべてを投げ出しても惜しくない」 とある。

アンナ夫人が彼の病気を非常に心配していることは至る所に出てくる。 彼自身も、発作が続けば「精神病院行きは避けられないだろう」と言っているが、医師の診察を受けようとはしていない。もちろんこの時代は治療薬としてブロム剤が使われ始めた頃で、抗てんかん薬のフェノバルビタールはまだ用いられていない。しかも彼は、ルーレット賭博に没頭しており、そのため生活は赤貧そのもの、このような状態も彼の病気によかったはずはない。ドストエフスキィ自身もアンナへの手紙の中で、自分の発作の状態について何度も詳しく述べている。 (書簡 谷耕平訳)

「わたしは、13日の夜強度の発作に襲われた。 未だに頭脳がはっきりせず、手足が抜けるようにがっかりしている。 (1872年6月14 日)」
「発作の後がすっかり治りきらないすぐ後であったせいだとおもう。今日はどこへも出かけないつもりだ。しらせの手紙を書いているのだが、指がよくいうことをきかないばかりでなく、ともすれば舌がもつ れ勝ちだ。 (1874年4月25日)」

多くは発作後の状態の記載であるが、これらは医学的にも貴重である。

「一番の原因は、てんかん発作の後がすっかり治りきっていない点に在るのではないかとおもう。 ─―てんかんの発作が起こらなければいいと、ひどく心配している。 アーニア、大方きみは今度の発作もいつものと同じだと思っているだろう。だがわたしにはよくわかるのだ。 いま一度発作があったら──わたしは参ってしまうだろう(1873年8月13 日)」

「今日朝六時ごろ発作からさめると、ふらふらときみの部屋へ入っていったんだ。 とプロホブナが広間の方から、奥さんはいらっしゃらないんですよ、というんだよ。 どこへ行ったんだ?─―というとね、―─田舎の別荘へいらっしゃったんです、という──そんなはずがあるもんか、ここにいるにきまっている、いつ田舎へなんか行ったんだ?ときいたよ。プロホブナが、あなたも3日前に田舎からいらしゃったばかりです、といっていくら信じさせようとしても、容易にそれが信じられないようなしまつさ。まったくあの時は、なかなか正気に返れなくて困ったよ。(1877 年7 月7 日)」

この記載は発作後の夢幻状態である。

「今日は発作から5 日目で、気が滅入って、カがなく、注意が散漫だ。(1877年7月11 日)」

彼の場合、発作後6 日目頃からほぼ正常にもどるようで、
「今日は発作を起こしてから6日目だ。で頭がいくぶんすっきりした(なかなかすっかりとはゆかないが(1874年7 月1 日)」

「その前夜、かっきり真夜中、睡眠中に発作が起こって、それがひどくからだに障ったので、昨日はもう返事を書かなかった。いや文字通り書けなかったのだ。現に今も、歩いたり、話をしたりはしているが、ペンをとるのが実におっくうで、頭痛がし、頭が混乱していて、気もちが重い。しかしきみ、こうなんだ─―発作は床の中で起こったし、痕跡がないので、誰も気がつかないのだよ。もっとも、猛烈なものではなかったとおもうがね。おかげで、先ず当分は助かったとおもっている。(1874年6月28日)」

一度発作が起こるとしばらくは起こらないことは、彼自身も気づいている。

「なんだか馬鹿にからだの調子が変だ。 しばらく発作がなかったが、もう起きる時分ではないかとおそれている。 (1878年6月29 日)」
「昨夜からふるえがはじまったので、発作が来るのではないかと大いにおそれている。 (1879年8月11日)」
「 発作が来はしないかとしょっちゅうびくびくしている。(同年8 月16日)」
「 発作が起こらなければいいがと案じている。 (1880 年6 月7 日)」

などとあり、発作がいつ来るか、恐怖におののいている。治療についてはまったく述べられていない。この他にも発作の記述は多く、彼がどれほど苦しんだかがよく分かる。

彼の小説にはてんかん患者が登場する。『白痴』(1868) は、「この小説の中心思想は本当に美しい人間を画くことです」と1868年1 月1 日の姪のソフィア・イワーノワ宛ての手紙にあり、彼女に献じられたものであるが、その中では、主人公ムイシュキン公爵について次のように述べられている。

彼のてんかんに近い精神状態には一つの段階がある。(ただし、それは意識のさめているときに発作がおこった場合のことである)それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直感や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。そのあいだ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。しかし、この瞬間、この後輝は、発作がはじまる最後の一秒(一秒である、けっしてそれより長くはない)の予感にすぎない。この一秒が堪えがたいものであった。彼はすでに健康なからだに返ってから、この最後の瞬間のことを回想して、よく自問自答するのであった。すなわち、この尊い自己直感、自己意識、つまり《尊い志純な生活》の明光もひらめきも、要するに一種の病気であり、ノーマルな肉体組織の破壊にすぎないのだ。とすれば、これがけっして尊い志純な生活どころではなく、かえって最も低劣な生活とならなければならぬ。こうも考えたけれど、彼はやはり最後には、きわめて逆説的な結論に達せざるをえなかった。「いったいこの感覚がなにかの病気ならどうしたというのだ?」彼はとうとうこんなふうに断定をくだした。「この感覚がアブノーマルな緊張であろうとなんであろうと、すこしもかまうことはない。もし、結果そのものが、感覚のその一刹那が、健全なとき思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして志純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことはおろか、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、志純な生の調和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、すこしも問題にならない!(米川正夫 訳)

この後にもドストエフスキィの詳しい描写が続く。「あの癲癇もちのマホメットが引つくり返した水瓶から、まだ水の流れ出さぬ先に、マホメットはすべてのアルラー(アラビヤの神)の棲家を見盡したというが、多分これがその瞬間なのだろう。」 ごうした一刹那の感じは、自己意識の異常な緊張である──もしそれを一語で言い現わす必要があったならば、―─自己意識であると同様に、最高の程度に於ける直裁端的な自己直観である。 そうして、 「ああ、この一瞬間のためには一生涯を投げ出しても惜しくない!」 (米川正夫 訳)。

『悪霊』は、彼が外国旅行中の1870年ドレスデンで書き始め、 1871年から72年にかけて「ロシア報知」に連載したものである。その中で、キリーロフが語っている。

ある数秒間がある、それは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるのだよ。これは地上のものじゃない。といって、何も天上のものだと言うのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐え切れないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず『しかり、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終わるごとに、『しかり、そは正し、そは善し』と言った。これは・・・感激というのではなくて、なんというか、おのずからなる喜びなんだね。人は何を赦すこともしない、というのはもう赦すべきものが何もないからだ。人は愛するのでもない、おお、それはもう愛以上だ!何より恐ろしいのは、それがすざまじいばかりに明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。もし、五秒以上もつづいたら、魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。(江川卓 訳)

これらの記載は自分自身の体験がなければ書けないものであろう。ロシアの女流数学者ソーニヤ・コヴァレフスカヤ (1850-91)は、奇妙なめぐり合わせからドストエフスキィと知り合ったが、彼女の自伝的小説『ラエフスキ家の姉妹(ロシアでの生活)』(1890)には、ドストエフスキィが自分の持病のてんかん発作について語る部分がある。

「天が地上に下りて来て、私を運んで行ったような気がしたのです。“神さまはある”と叫ぶとともに、私は正気を失ったのです。あなた方のような健康な人たちは、発作の起ころうとする瞬間に私が感ずるような天福はとても想像できません。マホメットはコーランの中で自分は天国にいたと言っています。愚人やわからず屋は彼を嘘つきだとか詐欺師だとか呼びます。決してそうじゃない。マホメットはうそを吐きません。彼は私のようにてんかんを病んでいたのです。その発作が何秒つづくか、それとも何か月つづくか言えないが、どんな幸福な生活をくれたってそれと取り代えっこはしません」(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ 自伝と追想』野上弥生子訳 岩波文庫 1933)

ドストエフスキィのてんかんについてはいくつもの医学論文が出されているが、筆者は側頭葉てんかんによる精神運動発作で、国際分類では複雑部分発作が主体であろうと考えている。


4.天才 宗教家の天啓 使徒パウロ (P.86-90)

使徒パウロ(ユダヤ名はサウロ)(ca. 2 BC-67) については、『新約聖書』「使徒言行録」第9 章に述べられている。

サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わ たしを追害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる」。 同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起きあがって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 この後、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

これがパウロの回心である。このようなことは信じられないという人もいるであろうが、ウィリアム・ジェイムズ(1902)はアメリカの信仰復興運動者チャールズ・フイニイ(Charles G. Finney)の次の回想を引用している。

突然に神の栄光が、ほとんど信じられないほど不思議に私の上にそして周りに輝いた。 ・・・・・言葉に言い表せないような光が私の魂の中に輝いた。その光は私を地面にひれ伏させるばかりであった。・・・・・この 光は八方に光を発する太陽の輝きのようであった。 光があまりにも強くて目で見ることができなかった。・・・・・私はこの時自分自身の経験で、ダマスコへの途上でパウロをひれ伏させたあの光がどんなものであったかを知ることができたと思う。それは確かに私にはながくは耐えられない光であった。(Lecture X)

イスラム教の開祖マホメットはアラビアのメッカの名門クライシュ族の 一門ハーシム家の出身であるが、はやく父母に死別した。40歳のとき、 言葉には表せない特別な天の殊遇によってすべてを悟ったと妻のハディージャに話Lたという(Carlyle,1841,pp .55-56)。 その詳細については、前述のようにドストエフスキィが『白痴』(1868) の中で書いているが、 ドストエフスキィ自身もあるとき天啓に打たれたことを、『ペテルブルグの夢―詩と散文―』(1861) の中に詳しく書いている。

今でもおぽえているが、あるとき、冬も一月のタ方、わたしはヴィボルグ区から、わが家へ急いでいた。その頃わたしは非常に若かった。ネヴァ河に近づいた時、わたしはちょっと足を止め、河に沿って、凍ったもやに薄れた遠方に、刺すような視線を投げた。 それは、 霞んだ天涯に燃え尽きんとしているタ焼けの最後の緋の色に、とつぜんあざやかに染めあげられた。市街には夜がおおいかかって、雪が凍ったためにふくれあがったネヴァの広々とした河面は、落日の反映とともに、見渡すかぎり、幾億兆の針のような霜の火花に燃え立った。寒さは零下二十度からになってきた・・・・・凍った蒸気が、疲れた馬からも、駆けちがう人々からも立ち昇った。圧縮された空気は、どんなに小さな音にもふるえた。 そして、両側の河岸に並んだ家々の屋根からは、さながら巨人のように、煙の柱が幾筋も、立ちのぼって、さむざむとした空を、途中でもつれたり解けたりしながら、上へ上へと動いて行く。 で、新しい建物が古い建物の上に立ち重なり、新しい市街が空中に築かれて行くかと思われた・・・・・で、けっきょく、この世界ぜんたいが、そこに住む人々と、その住みかすべてを引っくるめて、弱者も強者も、貧者のあばら屋も、金殿玉楼も、このたそがれ時には、魔法めいたファンタスチックな夢に似通ってくるのであった。その夢もやはり順番が来ると、たちまち消えうせて、まるで湯気のように、暗青色の空に蒸発してしまうだろう。とつぜん、何かしらふしぎな思想が、わたしの心の中にうごめきはじめた。わたしはぴくりとした。そ の瞬間、わたしの心は、泉のごとくほとばしる血にまみれたような気がした。 それは不意に煮えたぎった、力づよい、しかもそれまで知らなかった感触のなすわざなのである。わたしはその瞬間、今まで、心の中にうごめいていたばかりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それはさながら何か新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世界を洞観したかのようであった。その世界はただ何かぼんやりしたうわさによって、何か神秘的なしるしによって、かすかに知っていたものである。ほかならぬその時以来、わたしの存在がはじまったもの と考える・・・・・。(米川正夫 訳)

これほど詳しい記載はあまりないだけに貴重である。