ドストエフスキーとてんかん/病い
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.149付録(2015.4)


ドストエフスキーにおけるてんかん



Ivan Iniesta  下原 康子 訳

論題:Epilepsy in Dostoevsky
著者:Ivan Iniesta
所属:The Walton Centre NHS Foundation Trust & Liverpool University, Lover Lane, Fazakerley, Liverpool, UK
雑誌名:Progress in Brain Research 205:277-293,2013



要 約


フョードル ・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年モスクワで誕生、1881年ペテルブルグにて死去)は、作家としての生涯にわたりてんかんに苦しんだ。この著述の目的は、彼の小説、書簡、および彼の同時代人の証言などにもとづき、後世の神経科医の目を通してドストエフスキーのてんかんを理解することである。

ムーリン(「主婦」1847)から スメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」1880)まで、ドストエフスキーは6人のてんかん者を描いた。自身は青年期のはじめに病気の最初の徴候があったが、てんかんと診断されたのはそれから10年後であった。1863年、彼は有名な神経科医ランベルグとトルソーの診察を受けるために外国に渡った。

ドストエフスキーはシベリアでの体験を経て、自身の病気を文学作品の中で知的に利用する方法を見出したということができる。(とりわけ、エクスタシー前兆と夢様状態の体験において)。 ドストエフスキーの症例は後世の神経科医に、てんかんの自然経過について(前頭葉あるいは側頭葉に関係すると思われる焦点発作に関する)洞察を提供しインスピレーションを与えた。さらに、この並みはずれた作家の業績は、ありふれた神経障害が時として人生における好機にもなりえることを示した。

キーワード

Dostoevsky, epilepsy, Dostoevsky syndrome, Dostoevskys epilepsy, history of neurology, literature, medical humanities, on the good use of disease


1.緒 言

ドストエフスキーはイワン・ツルゲーネフへの手紙の中で、著名な神経科医の診察を受けるために外国へ行くことを伝えている。

小生は重いてんかんを病んでいまして、それが次第に募っていくので、絶望に陥っているくらいです。どうかすると発作のあとで、二週間も三週間も、ご想像もできないような憂愁に襲われるのです!実際のところ、小生はできるだけ近いうちにベルリンとパリに向けて出発します。それはただただてんかんの専門医の診察を受けるためなのです(パリではトルソー、ベルリンではランベルグ)ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので、彼らに対してまったく信頼を失ったほどです。(書簡 1863年6月17日 )[書簡の引用は米川正夫訳]

実際に外国で診察を受けたどうかは現在でも不明だが、ドストエフスキーは、以前、シベリアから兄のミハイルに宛てた手紙の中で、結婚式の直後に起こった発作を知らせ、ロシアに帰って医師を探したいと伝えていた。

結婚式の帰途、ぼくはバルナウールである親しい知人のとこに泊まりました。その時、ぼくは不幸に襲われたのです。まったく思いがけなくてんかんの発作が起こって、妻を死ぬほど驚かせ、ぼくを憂愁と落胆でいっぱいにしてしまいました。医師(学生でしっかりした人)は、今までの医師の診察のすべてに反対して、ぼくのはほんとうのてんかんであって、その発作の時いつかは咽頭痙攣で窒息し、ほかならぬそのために死ぬということを、覚悟していなければならぬといいました。ぼく自身も紳士としての誓いを立てて、もっとくわしいことを聞かしてもらいました。概して、彼は新月のころを警戒するようにいいました(今新月が近づいていますから、ぼくは発作を期待している次第です)そこで、兄さん、察してください。ぼくの頭の中でどんな絶望的な考えが去来しているか。しかし、そんなことをいったってなんにもなりはしません!これがほんとうのてんかんだということは、まだ確かではないのですから。ぼくは結婚する時、以前の医者たちのいうことを信じていたのです。彼らは単に神経性の発作に過ぎないから、生活状態が変わったら癒ると、きっぱりいったのですからね。もし、ほんとうのてんかんだとたしかに知っていたら、ぼくは結婚などしなかったでしょう。ぼくの平穏のために、また、ほんとうの医師の診察を受けて処置を講ずるために、ぼくは一日も早く退官して、ロシアに帰らなければなりません。(書簡 1857年3月9日)

興味深いことに、ランベルグも、1850年代の中ごろに、神経学と月の満ち欠けとの間に関連があると考えていた。月(特に新月および満月の間)とてんかん発作の関連は古代人にも知られていた。この見解にはあちこちから疑いが上がったが、厳密な観察によりその正確さが証明されたという(Romberg, 1853)。


2.ドストエフスキーの病歴

フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキーは1821年10月30日、モスクワのマリヤ貧民施療院右別棟でこの病院の医師の2番目の息子として誕生した。ドストエフスキーのてんかん発作は生涯にわたって起こったと思われるが、初めててんかんと診断されたのは33才、オムスク要塞監獄を経て、中央アジア・セミパラチンスクのシベリア第七歩兵大隊国境警備隊に配属されたころのことだった。1857年12月16日、シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフ はドストエフスキー少尉補の診断書を作成している。

年齢35才、体格普通。1850年初てんかん発作 (Epilepsia)。症状は、叫声、意識消失、四肢顔面のけいれん、泡噴出、いびきのような息づかい、速くて弱い脈拍、発作時間15分。その後、発作状態は全般的な衰えをみせて意識回復。1853年に再発。以後毎月末発症。現在ドストエフスキー氏は、脳の器質性の障害が引き起こす極度の疲労と顔面神経痛にみまわれ、全身の衰弱に陥っている。ドストエフスキー氏はここ4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める。(新潮社版 ドストエフスキー全集 別巻:年譜[L.グロスマン] 1980 P.146)

しかしながら、ドストエフスキーのてんかんは1950年代より早い時期、1830年代終わりから1840年代にかけて、もう少し穏やかなかたちで起こっていたことを示唆する同時代人の証言がある。

ドストエフスキーは1881年1月26日午後8時38分に息を引き取ったが、その年の2月24日、『新時代』第1793号に「F.M.ドストエフスキーの病気」と題するS.D.ヤノフスキーのA.N.マイコフ宛手紙が載った。

故フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはペテルブルグにいる時分から、ペトラシェフスキー事件に問われる3年前、あるいは3年以上も前からてんかんに苦しんでいました。無論シベリア流刑以前です。問題はこの疾患の重いものはepilepsiaと称するもので、フョードル・ミハイロヴィチに現れた1846年、47年、48年の症状は軽度であったことです。ところが、はたの者は気づかなくても本人は誠に不安で、自分で意識して、平常卒中風と称していました。(新潮社版 ドストエフスキー全集 別巻:年譜[L.グロスマン] 1980 P.146)

てんかんと思われる発作の最初の記録はドストエフスキーの友人で陸軍士官学校仲間でありルームメイトでもあったグリゴローヴィッチによるものだ。

たまたま二人で散歩に出かけたとき、かれが発作に見舞われたことが何度かあった。あるとき、かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作にに襲われてしまった。それがあまりにひどかったので、わたしは通りがかりの人の助けをかりて、かれを近所の食料品店まで運んでいかなければならなかった。そこでやっと意識を回復させることができたのだが、こういう発作の起こったあとは、たいていかれは憂鬱そうになり、それが二日か三日はつづくのであった。(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

医師ステファン・ヤノーフスキイの証言も残っている。彼は早い時期に起こった発作の証言者の一人というだけでなく、ドストエフスキーにとっては最初の医師であり、終生、親交を保った友人でもあった。(Sekirin、1997)ドストエフスキー自身が自分のてんかんに確信を持つようになったのは1857年に兄ミハイルへ書いた手紙によれば、シベリア流刑(1849-1859)の10年の間であったと思われる。(Frank and Goldstein, 1987)

家族の病歴について触れると、息子のアレクセイは1878年、3才の時にてんかん発作重延状態で死亡している。仲のよかった兄ミハイルは1864年7月、肝臓あるいは胆嚢の病で死亡した。同じ年の4月には、最初の妻マリヤが肺結核で死亡している。1866年『賭博者』を急いで書き上げるために速記者のアンナを雇った。彼女は1867年に2人目の妻となった。彼女はドストエフスキーのてんかん発作を見ても脅えなかったばかりか、夫の病気を理解し見守り観察さえした。

てんかんの発作は長いときは4ヶ月の間隔で起こりました。毎週起こることもありました。ひどい時には週に2回も。数時間後に別の発作が続いて起きることもありました。発作が起こると夫は人間のものとも思われないような叫び声をあげました。私は書斎に駆け上がり部屋の中央に横たわる夫の体を起こそうとするのでした。その顔は痙攣でゆがみ、身体中が震えていました。私は背後から夫の体を抱きかかえて階下に下りたものでした。発作は夜に起こることが多かったため、夫は万一意識を取り戻した時に備えて、広く低いソファで眠ることにしていました。夫の病気を治すことはできませんでした。私ができたのは、シャツのボタンを緩めて、頭を私の手で支えることだけだったのです。(Sekirin、1997)

最高傑作『カラマーゾフの兄弟』を書いて1年後(1881)にドストエフスキーは死去した。死因はてんかんではなく肺の病気(ことによると結核)に起因する深刻な喀血であった。『作家の日記』によれば、彼はいくつかのヨーロッパの鉱泉で治療を受けていた。 (Frank and Goldstein, 1987)

3.ドストエフスキーをめぐる医師たち:19世紀における医学・神経学

1863年、ロシアの神経生理学者イワン・セチェノフ(1829−1905)が『脳の反射』を出版した。それは、てんかん学に必須とされる神経学の知識がイギリス、ドイツ、フランスに広がり始めたころだった。一方、1862年に「ジャクソンてんかん」に名を残すジョン・ヒューリングス・ジャクソン(当時27歳)がロンドンのクイーンズ・スクエア病院の助手となった。この病院は1860年にJames Ramskill と Charles Edouard Brown-Sequard によって設立された神経疾患を専門とする最初の国立機関であった。

1862年、ドストエフスキーが初めて外国に行った年の夏、後世の神経学および心理学に多大な影響を及ぼしたジャン・マルタン・シャルコー(当時36歳)がピネルによって精神科の病院のメッカとなったパリのサルペトリエール病院の医長(後に最初の教授)に就任していた。(フロイトもシャルコーの教えを受けた)1850〜60年代におけるてんかん性の発作の治療の主流は、Wilks と Locock によって導入された臭化[ブロム]カリであった。(Hutchinson and Jackson, 1861)

1863年6月17日付のツルゲーネフへの手紙は、このような医学界の文脈を踏まえて書かれている。ドストエフスキーが診察を受けたいと選んだ医者は、当時、神経科医として有名であったベルリンのランベルグとパリのトルソーであった。(Catteau, 1998; Frank and Goldstein, 1987)

ドストエフスキーは1863〜1871年にわたる海外旅行と4年間の長期滞在の間にフランス、イタリア、ドイツ、スイスに滞在した。その間、上記の医師たちの診察を受けたかどうかは不明だが、生涯にわたって数人の医師との親交があった。医学書を借りたヤノーフスキイ、シベリアのオムスク要塞監獄時代(1850ー1855)のトロイツキー、その後のセミパラチンスク時代のエルマコフとBlagonravov。Blagonravovからは、後に『カラマーゾフの兄弟』の医学的な描写に関してアドバイスを受けた。(Frank, 2002)

ドストエフスキーの小説に登場する医師は神経疾患の唯一の効果的な治療として臭化[ブロム]カリを使用している。この薬がドストエフスキーに適していたか、また彼自身が受け入れたかはわからないが、臭化[ブロム]カリの副作用に関しては、当時から多くの医師が懸念を持っていたのも確かである。実際のところ、『地下室の手記』(1864)の冒頭にあるように、ドストエフスキーと医師および医学との関係は必ずしも良好とはいえず、しばしば矛盾もしていた。

ぼくは病んだ人間だ・・・ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。もっとも病気のことなど、ぼくにはこれっぱかりもわかっちゃいないし、どこが悪いのかも正確には知らない。医学や医者は尊敬しているが、現に医者に診てもらっているわけではなく、これまでもついぞそんなためしがない。そこへもってきて、もう一つ、ぼくは極端なくらい迷信家ときている。まあ、早い話が、医学なんぞを尊敬する程度の迷信家ということだ。(『地下室の手記』江川卓訳 新潮文庫 1969) 

4.ドストエフスキーの小説の中のてんかん

4-1『主婦』1847

『主婦』の中にてんかん描写の最初の顕著な例が見られる。ムーリン〈高齢の家主〉のてんかん発作は烈しいものであった。この初期の中篇小説における描写は、てんかんが小説のプロットに大きな役割を果たすことになる後の大作『白痴』の20年前に書かれた。てんかんについての知識がまだそれほどでもないにもかかわらず描写は正確である。

銃の発射の音が響き渡り、ほとんど、人間のものとも思えぬ気うとい叫びが聞こえた。煙が散ってしまった時、オルディノフは恐ろしい光景にぞっとした。全身をわなわなと振るわせながら、彼は老人の上に身をかがめた。ムーリンは床に倒れていたのである。痙攣に全身をひくひくさせ、顔は苦痛にひん曲がって、歪んだ唇には泡が見えていた。不幸な老人はいとも烈しいてんかんの発作におそわれたのである。(米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集 第1巻』河出書房新社 1969 )

4-2『虐げられし人々』1861

現実とフィクションを区別することによって、病気を主観と客観からながめることができる。ドストエフスキーの友人A.G. Shileの以下の証言は、てんかんが出現する2番目の小説に関連している。

私は、シベリアからもどったドストエフスキーをエカテリーナ運河のアパートに訪ねた。その時の彼は深い瞑想状態にあった。顔は青白く、私の見分けがつかなかった。目には奇妙な感じが宿っていた。10分も経たないうちに彼はてんかん発作を起こした。顔は痛々しくゆがみ面ざしがすっかり変化していた。口には泡が見え、私は恐怖を感じたが、離れる気になれなかった。何かもっと悪い状態になるような気がしたからだ。私は主婦に後の世話を頼んだ。(Sekirin、1997)

このドストエフスキーの現実のてんかん発作と比較ができるのは『虐げられし人々』のネルリの発作である。たとえ、それが物語中の出来事によって誘発されて起こったものであったとしても。

もう朝の3時であった。わたしが自分の住居の扉をたたく間もなく、人のうめき声が聞こえて、あわただしく扉が開かれ始めた。それはネルリがやすみもしないで、閾際で番をしながら、わたしの帰るのを待っていたような具合であった。蝋燭が一本ともっていた。わたしはネルリの顔を見てはっと思った。その面ざしがまるで変わって、目は熱病にでもかかったもののように燃えて、まるでわたしの見分けがつかないかと疑われるばかり、妙なけうとい表情をしていた。彼女はひどい熱であった。

「ネルリ、どうしたの、病気かい」とわたしは身をかがめて、片手に彼女を抱きながらたずねた。

彼女は何ものかを恐れるかのように、わなわなと身を慄わせながら、ひしとわたしに寄り添って、早口にとぎれとぎれになにやら話し出した。それはさながら、すこしでもわたしにその話をしようと思って待ち侘びていたもののようであった。けれど、彼女の言葉はとりとめがなく、奇妙であった。わたしは何一つ合点がいかなかった。彼女は熱に浮かされていたのである。(米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集 第7巻』)


ドストエフスキーが当時の医学を熟知していたことは、以下の場面でよりいっそう示されている。ここでいう粉末薬が初めてヨーロッパに導入されたのは、この小説が書かれたほんの4年前であった。

わたしのいうことを守って、規則ただしく粉末を飲むことです。わたしの気のついたところでは、あの娘さんは、わがままで、気分にむらが多くって、人を馬鹿にしたようなところさえあります。規則正しく粉末を飲むのが大嫌いで、ついたった今もきっぱり断ったくらいですよ・・・今さしあたり、たった一つの方法は粉末を飲むことです。あの子は薬を飲まなくちゃなりません。わたしはもう一度行って、医者のいうことを聞くのが、つまり、その薬を飲むのが、あの子の義務だってことを、納得のいくように話してみましょう。(米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』P.282)

しかし、この小説が書かれて3年後には、兄のミハイルへの手紙の中でネルリを診た医師の見解を否定し、自分がネルリと同じ病気をかかえていることを公表してもかまわないと書き送っている。 (Frank and Goldstein, 1987)

4-3『白痴』1868

ヒューリングス・ジャクソンが、Goulstonian講義(ロンドン年次講演会)を経て彼の神経系疾患の研究が認められ始めたころ、ドストエフスキーは『白痴』を出版していた。てんかん者が登場する点で顕著な小説であると同時に、てんかん発作のプロセスの描写において比類がない小説である。ドストエフスキーをおいて誰がてんかん発作をこれほどの精度で描きえたであろうか。

それにつづいて、なにかしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいもつづいたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしり出た痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力をもってしても、とめることのできないような叫びであった。つづいて瞬間に意識は消え、真の暗黒が襲ったのである。それは、もう以前から絶えてなかったてんかんの発作がおこったのである。

てんかんの発作というものは、だれしも知っているように、とっさの間に襲うものである。この瞬間にはふいに顔、ことに目つきがものすごく歪む、そして痙攣が顔と全身の筋肉を走って、恐ろしい、想像もできない、なんともかんともいいようのない悲鳴が、胸の底からほとばしり出る。この悲鳴の中には人間らしいところがことごとく消えうせて、そばで見ている者でさえ、これがこの男の叫び声だと考えるのは、どうしても不可能である。少なくとも困難である。・・・痙攣と身もだえのために病人のからだは、十五段とはない階段を下までころがり落ちた。間もなく、五分とたたぬうちに見つけたものがあって、たちまち人々が黒山のように集まった。

頭の辺に流れているおびただしい血が、人々の疑惑を呼んだ。この男が自分でけがしたのか、それとも「だれか悪いやつ」があるのだろうか?しかし、そのうちに、だれ彼のものがてんかんということに思い当たった。・・・彼は間もなく正気づいたが、それでも完全な意識に返ったのは、だいぶたってからのことである。頭部の打撲傷の診断に呼ばれた医者は、傷口に湿布を施して、打撲傷からおこりそうな危険はすこしもないといった。(米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集 第7巻(上)』河出書房新社1969 P.247)

4-4『悪霊』1872
 
ソ連末期のロシア系ユダヤ人、病理学者レオニード・ツィプキン(1926ー1982)はドストエフスキー夫妻がバーデン・バーデンにいたころを小説にした。その中にドストエフスキーが『悪霊』を書いていたころのてんかん発作が描かれている。それは、感情的なストレスで引き起こされた発作で、矛盾に満ちた夢様状態から意識喪失とけいれんに移り、混乱と見当識障害に至るものであった。

フェージャは立ち上がり、妻の顔を自分の方に向けさせて目をみようとしたが、突如、足元で床が揺れ、たしかに妻の頭を両手で押さえたことをちゃんと覚えているのに、目の前にあるのは予想していた彼女の顔ではなく、なんだか奇妙な具合に膨らんでいく白い斑点だった─この斑点はしだいに白さを失い、急激に大きくなり、青みを帯びてきて、やがて紺色、それも濃紺になった─先ほど城塞の踊り場の端で見た空のようだった─たしかにそれは夜空、星の出ている夜空そのものだったが、どういうわけか星たちは太陽のように巨大だった。とはいえ目が眩むわけではないので、星を直視してもまったく大丈夫だが、ひとつひとつの星がまわりに金色の光線を放っていた─彼は地面から離れ、星と星の間を自由に飛びまわっていたが、そのうちのひとつに近づくや巨大な星を取り巻いていた金色の後光が消え、目に飛びこんできたのは石だらけの砂漠のような空間で、あまり何もなくて地平線のようなものさえ見当たらず、石や岩の積まれたところは、かつて存在した町のあやふやな輪郭が見てとれたが、そこには人の頭蓋骨や骨が散らばっており、想像を絶するような不思議な匂いが、この石だらけの死の砂漠からたちのぼっていた─雷雨の後よくあるようなオゾンの匂いで、フェージャはより遠くに、軽やかに、難なく、城塞の踊り場にいたときに見た鳥のように飛んでいたが、どの星に近づいても、かならず同じ光景が目に入ってきた─過去の生命の名残り─過去の文明の名残り─すべて死に絶えていた─巨大な星たちが突然小さくなったと思ったら、黒い空に黄色く煌々と輝く満月が現れた─この月の背後から楯が出てきて、そこには古代教会語の文字で二度「しかり、しかり」と書かれていた─楯は光に照らされ、書かれている文字ともども、東から西をめざして空をめいっぱい駆け抜けたが、それはどう考えても、ロシアに与えられた救世主としての使命をあらわすものだ。フェージャはこの楯のあとを追って飛んだが、あまりに軽やかに飛べるので、自分自身の体の重みを感じなくなり、手の届かない何かとひとつに溶けあって、肉体の一部だけになってしまったように思えた─彼は、妻のベッドと壁のあいだに敷いてあったラグに上半身を少し立てるようにして横たわっていたが、そこまで引きずっていったのはアンナ・グリゴーリエヴナで、夫の体が重いので息を切らせていた─彼女は夫の頭の下に枕を入れた─痙攣はおさまりかけていたが、口から泡を吹いていたので、拭き取った─フェージャはゆっくり目を開け、朦朧とした目つきで妻を見て─「こんなふうだ」となぜかフランス語で言った─(レオニード・ツィプキン著 沼野恭子訳『バーデン・バーデンの夏』新潮社 2008 P.152-153)

『白痴』の執筆中に次の作品の着想はされており、その主人公はてんかん者が考えられていた。しかし、その時期に起きたネチャーエフ事件(狂信的革命家のメンバーの一人だった学生イワノフが殺された事件)に想を得てドストエフスキーは『悪霊』の執筆に着手する。てんかん者の役割は自殺するキリーロフに与えられた。

ある数秒間がある、それは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるのだよ。これは地上のものじゃない。といって、何も天上のものだと言うのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐え切れないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず『しかり、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終わるごとに、『しかり、そは正し、そは善し』と言った。これは・・・感激というのではなくて、なんというか、おのずからなる喜びなんだね。人は何を赦すこともしない、というのはもう赦すべきものが何もないからだ。人は愛するのでもない、おお、それはもう愛以上だ!何より恐ろしいのは、それがすざまじいばかりに明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。もし、五秒以上もつづいたら、魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ。ぼくの考えでは、人間は子どもを生むことをやめるに違いないね。目的が達せられた以上、子どもが何になる?福音書にも、よみがえりのときには子を生まず、天にある御使たちのごとし、と言われている。暗示だな。君の奥さんは子どもを生むんだったね?」 「キリーロフ、それはしょっちゅうなのかい?」 「三日に一度、一週間に一度」 「きみ、てんかんの持病はないのか?」 「ない」 「じゃ、いまにそうなるよ。気をつけたまえ、キリーロフ」(江川卓訳『悪霊』新潮社 1971 )

作家仲間のストラーホフと数学者ソーニャ・コヴァレフスカヤはドストエフスキーから直にてんかん発作に先立つエクスタシー前兆について聞かされた人物である。とりわけ、ストラーホフはシベリア後のドストエフスキーの発作の目撃者であり聞き手であった。彼は小説中のてんかん描写がドストエフスキー自身の体験であることを証言している。

そのときの発作はそう強いものではなかった。それでも、けいれんのために全身が硬直するや、唇の端に泡を吹きだしはじめたのである。彼が意識を回復したのは三十分ほどたってからであった。それから、私は近くにあった彼の家まで送っていったのである。ドストエフスキーは何ども私に語っていたが、発作の前には、恍惚となる瞬間が彼に訪れるのだそうである。彼はこう言っていた。「ほんのわずかの瞬間、ぼくは、正常な状態では起こりえないような幸福、ほかの人々には理解できないような幸福を体験するのです。ぼくは自分のなかにも全世界にも、完全な調和を感じます。それに、その感じはとても強烈で、甘美なものなので、あの快楽の数瞬間のためなら、十年、いやもしかしたら全生涯を捧げてもかまわないくらいです。(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966 p.163-164)

4-5『カラマーゾフの兄弟』1880

世界最高峰の文学ともいわれる『カラマーゾフの兄弟』は、法医学の論文として読める部分がある。父フョードルの殺害を軸にカラマーゾフ3兄弟と実際の下手人である下男のスメルジャコフ(異母兄弟といううわさがある)をめぐって物語が展開する。父と争っていた長兄のドミトリーが有罪となり、スメルジャコフは自殺する。スメルジャコフはてんかんを患っていた。彼は裁判の続行中にイワンに犯行を打ち明け、犯行があった夜に、どうやって人々(その中には3人の医師も含まれていた)に実際はふりであった発作を本物と信じさせることができたかをイワンに詳細に説明した。そのとき、イワンは精神病を発症していた。医師は治療を要する深刻な脳障害と診断したがイワンはそれを否定した。

医師は患者がきわめて危険なせん妄症の発作を起こしており、即座に連れ去る必要があると、法廷に報告した。検事と弁護人の質問に答えて、医師は、患者がおととい診察を受けに来たこと、そのとき急性せん妄症の危険があることを忠告したのに、患者が治療を受けようとしなかったことなどを確認した。「患者は確実に健全な精神状態ではありませんでした。自分から告白しましたが、目覚めている状態でさまざまな幻覚を見たり、もう死んだはずの人に路上で出会ったり、毎晩のように悪魔の訪問を受けたりしていたのです」医師はこう診断を下した。こう証言を終えると高名な医師は退廷した。( 江川卓訳『カラマーゾフの兄弟』(世界文学全集19 集英社 1975)

イワンの幻覚に関しては読者から批判が出たので、ドストエフスキーはBlagonravovという医師の見解を求めた。医師は「せん妄症においてはありえる」と保証した。その手紙の返事にドストエフスキーは次のように書いている。

当地では、小生が神と国民性を宣揚しているために、極力小生を地球の表面から抹殺しようとしています。貴兄が医家として賞賛せられた『カラマーゾフ』の中の一章(幻覚)のために、小生は退歩主義者と極印を打たれ、とうとう「悪魔」まで書くようになった狂信者とののしられました。彼らは無邪気にも、「何だって?ドストエフスキーが悪魔のことまで書きはじめたって?ああ、なんという俗物だろう、ああ、なんて発達の遅れた男だろう!」とみんなが異口同音に叫び出すものと想像しているのです。しかし、どうやらそれはあてはずれのようです。貴兄には、とくに医家として、小生が描いたあの人物の精神病が正確であるというお言葉に、感謝の意を表します。専門家の意見は小生を勇気づけてくれます。それに、ご異存はないことと思いますが、あの人物(イヴァン・カラマーゾフ)は、あの状況にあっては、あれ以外の幻覚を見ることができないのです。小生はあの一章を後日、未来の『日記』の中で、自分で批判的に説明したいと思います。(米川正夫訳『書簡』 1880年12月19日)

『カラマーゾフの兄弟』の中で医師は、スメルジャコフが容疑者か否かに関わらず、事件当夜の彼のてんかん発作が本物であったか、あるいふりだったかの診断が事件解明の鍵になると考えていた。後にこれらはすべて明らかにされる。(Frank and Goldstein, 1987)

この小説で主人公とされているのはフョードルの3番目の息子である。キリストにも似たこの青年は『白痴』のてんかん者ムイシュキンを連想させる。彼の名前はドストエフスキーが愛した息子─1878年に3歳でてんかん重積状態で死亡したアレクセイと同じである。

ドストエフスキーは最後の作品『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、約40年にわたって、てんかんに苦しみ続けた。その経験から病気について深く思索し、4つの小説の中にてんかん者を明示的に描いた。彼はてんかんのメカニズムに関して実験医学の創始者クロード・ベルナールの書から示唆を受けていたと思われる。 最後の作品に至るまで、てんかんの影響は明らかである。

てんかんによって引き起こされた障害にもかかわらず、ドストエフスキーは比類ない作品を書き残した。そこでは、信仰の苦闘、愛情と憎悪、魂の救済と自殺、現実と虚構、世代の衝突などの根源的なテーマが先見的に問われている。(Iniesta、2009)

5.医学文献におけるドストエフスキーのてんかん

ドストエフスキーのてんかんについて最初の遡及研究を行ったStephensonとIsotoffは、登場人物たちにおけるカール・グスタフ・カールスの『プシュケ(1848)』の影響を指摘した。(Stephenson Smith and Isotoff, 1935)。 その後の研究においては小説の描写にそったものが多く発表された。(Catteau, 1989; Iniesta and Lopez Agreda, 2000; Iniesta, 2004; Siegel and Dorn, 2001) 多くは、現代医学の最新知識を用いてドストエフスキーのてんかんを診断しようという試みであった。(Iniesta、2007)

そうした中で、20世紀初頭の注目すべき2人、ステファン・ツヴァイクとジグムント・フロイトが異なる局面から熱い論争を引き起こした。ツヴァイクはドストエフスキーがてんかんという病気を知的に利用し、自らの芸術の原動力に変えたその卓越した方法を賞賛した。(Zweig, 2004) フロイトは、彼の革命的な精神分析理論にそって、ドストエフスキーのてんかん説を否定し、今日では心因性非てんかん性発作と呼ばれる、ヒステリーに起因するとした。(Freud, 2001) ドストエフスキーのてんかんは、まさしくテムキンの指摘のとおり、研究者の議論を促し、インスピレーションを与え続けてきたのだ。(Temkin, 1971)

1907年に、Segalovgがドストエフスキーのてんかんに関する最初の医学的展望を発表した。(Segalov、1907)。フロイトは、ドストエフスキーのように知的な業績の著しい人物がてんかんのような知能の低下を伴う器質的疾患を患っているはずがないと考えた。同時代の科学者もその主張を支持した。とはいえ、フロイトも科学の広い分野で輝かしい才能を見せたヘルマン・フォン・ヘルムホルツがてんかんであったことは認めざるをえなかった。フロイトの主張が科学と芸術に与えた影響は、同郷の作家であるツヴァイクの多少ロマンチックな見解よりも強力で、後の世代の精神分析学者もフロイトを支持した。

そうした流れの中で、Joseph Frank がドストエフスキーの百科事典的な伝記を書いた。彼は“フロイト後遺症”に対し「資料や証拠の不足がフロイト学派に対抗するための障害にはなることはなかった」と述べて反論した。一方でフロイト学派を支持するDominique Arbanは、ドストエフスキーの幼少期を探り、ドストエフスキーの最初のてんかん発作は7歳のときだったという説を支持してその時の詳細を発表した。ある夜、ドストエフスキーは、母の叫び声で目覚め、両親の寝室をのぞき、父が母を叩いている光景を目にした。哀れな母の姿を見てドストエフスキーは発作をおこした、という。しかし、これは精神分析的な創作が疑われ、事実としては受け入れがたい。(Frank, 1990)

神経科医たちは、ドストエフスキーの小説におけるてんかんの描写のみならず、伝記や同時代人の回想、書簡などのデータを収集した。そして、それらを最新医学によって説明するために、てんかん分類にもとづく臨床症候学や脳波記録の参考データを提供した。

1983のVoskuilの論文を受けてGastautは6年前(1978)に発表したドストエフスキーの原発性全般てんかん説を修正し、作家の発作は、非常にめだたない側頭骨の病変が即座に二次的な全般発作を引き起こしたとした (Gastaut, 1984)。Gastautは、1981年に南フランスのソフィア・アンティポリスでドストエフスキーの没後100年を記念して開催されたパリ大学スラブ研究所シンポジウムのときにすでにこの結論を予期していた。(Frank, 1990)

Alajouanineは1963年にドストエフスキーの側頭葉てんかん説を提案していた。(Alajouanine、1963)。21世紀の研究者によりそれは裏づけられた。(Baumann et al, 2005)。それらは、まさしく小説、伝記、同時代人の回想、書簡などのデータを現代の診断基準と比較してドストエフスキーのてんかんを理解しようとする試みであった。しかしながら、未だ原因不明の二次性全般化発作なのか(Iniesta、2004)、あるいは側頭葉起源のてんかんか(Iniesta, 2008)の問題は決着をみていない。

6.ドストエフスキーてんかん(前兆発作を伴う)および 精神前兆あるいは夢様状態

19世紀に、ヒューリングス・ジャクソン は、てんかんに伴う精神発作を報告した。右側頭蝶骨部起源の発作で、その内容は夢様状態、主観意識の増大を伴うスーパーポジティブな感覚、歓喜など多種多様であった (Jackson, 1888)。 約1世紀後、Cirignottaらは、エクスタシー前兆をもつ患者のてんかんをドストエフスキーてんかんと名づけた。患者の症候は『白痴』と『悪霊』で詳細に描かれた内容と似通っていた。(Cirignotta et al, 1980)

ドストエフスキーが小説を書いた当時の医学的環境における診断と治療を、現在のてんかん分類のもと、継続的な精査によって巻き戻してみるのは意義のあることである。今日のてんかんに関する基本的な理解は、ヒューリングス・ジャクソンが1873年に提唱したてんかんの定義に負っている。シャルコーが用いたことにより広まったジャクソンてんかんという名称は、現在のてんかん分類においても、なお、奇妙とみなされるタイプのてんかんを説明するのに用いられている。1878年に ヒューリングス・ジャクソン はDavid Ferrier と共に神経学分野の最初の専門雑誌『Brain』を発行した(Iniesta、2011)。まさしく、ヒューリングス・ジャクソンが、多種多様な症候を含む側頭葉起源のてんかんについて注意を喚起し続けたのは、この雑誌『Brain』においてであった (Jackson, 1888)。そして、後の時代の神経科医によって、側頭葉てんかんとドストエフスキーが繋がったのである。Bancaudらは、「ドストエフスキーと同時代の神経科医であっても、夢様状態、知的前兆、および既視感がおそらく側頭葉起源のてんかんの症候であることを確認できたであろう」という仮説を発表した。(Bancaud et al, 1994)

ドストエフスキーの恍惚感(既視感現象の一種)の多くが大発作の前兆であったことはおおむね認められている。既視感は人によってはミューズに捉えられたかのような心理的経験をもたらす現象である(Slattery、1999)。至福の瞬間が生涯に値するというドストエフスキーの独創的なアイデアは、おそらく、彼の恍惚発作によって体験されたものであろう(Iniesta、2004)。『地下室の手記』(1864)でドストエフスキーは、すでに、夢様状態と既視感を含むそのような経験的な現象を描いていた。

ぼくはじきに正気を取り戻した。すべてが一時に、苦労もなく、さっと思い出された。まるで、もう一度襲いかかってやろうと、ぼくを待ち伏せてでもいたかのようだった。いや、さっきまでの放心状態のあいだでさえ、、記憶のなかには、どうしても忘れられない何か点のようなものがいつも残っていて、それを中心に、夢ともうつつともわからぬぼくの幻覚が重苦しく回転していたのだ。それにしても奇妙なのは、この日ぼくの身におこったいっさいが、いま目覚めてからは、もう遠い遠い過去のように思え、もうそんなこととはとうの昔に縁が切れたように感じられる点だった。(『地下室の手記』江川卓訳 新潮文庫 1969 P.128)

ドストエフスキーのエクスタシー前兆の描写は、より一般的な既視感現象を文学的に誇張して表現したものかもしれない。ドストエフスキー前兆と呼ばれるこの微妙な症候を詳細に説明することは、19世紀における一つの特異なてんかんの事例を提供するにとどまらず、後の科学および文学をインスパイアーする可能性を秘めていたことを示すことでもある。(Iniesta、2010 )

実際に医学的アプローチとは別のところで、2003年にノーベル文学賞を受賞した J.M .クッツェーが 、レオニード・ツィプキンが『バーデンバーデンの夏』で試みたようにドストエフスキーの伝記を題材にした『ペテルブルグの文豪』を書いた。ドストエフスキーに『悪霊』を書かせた死とテロリストの物語を再生し、その中で、緊張性関代性てんかん発作を描いている。

彼は頭を振って集中力を高めようとする。しかし言葉は彼から逃げてしまったらしい。彼は台詞を忘れた俳優のようにフィンランド娘の前に立っている。沈黙が重りのように部屋にかぶさってくる。重りなのか平和なのか、と彼は考える。もしもあらゆるものが静止してしまったら、空の鳥が飛んでいるまま凍ってしまったり、巨大な地球がその軌道上に宙吊りのまま止まってしまったりしたら、そこにどんな静けさがあるというのだろうか?発作が始まりかけている。それを引き戻すために彼ができることは何もない。静けさが終わろうとしていることを思う。静けさが永遠に続くことがないとは何と残念なことか!遠くから彼自身のものに違いない叫びが聞こえる。歯ぎしりの音がする─-その言葉が彼の前できらめいて、それで終わりだ。(『ペテルブルグの文豪』J.M .クッツェー 著 本橋たまき 訳 平凡社 1997)

医師と作家が異なるアプローチでてんかん研究に寄与したことを、テムキンが見事に言い当てている。

ニーチェがいう心のてんかん人と、発射性損傷と夢様状態をもつジャクソンがいうてんかん患者とは、あまりにも対照的である。この対照性は科学的な解説ではなく、病気の解釈ということにもとづく。ゾラ、ニーチェ、ドストエフスキーはてんかんというものを、それぞれ自分の考えによって、社会的な交流および人間的な価値判断という視点から見た。しかし、ジャクソンには、それらの人たちの世界は生物学的過程の指標にすぎなかった。いうまでもなくジャクソンの大成果は、てんかんと最新の神経生理学とを、神経細胞の発射説にもとづいて並列させたことであり、また人間の行動の統御を脳や脊髄の階層的な解剖学にむすびつけた点である。このことを彼は偉大な科学的想像力でなし遂げたが、しかし医師として患者に同情はしたものの、その行為が馬鹿げていても、病的であっても、そして犯罪をおかしても無関心であった。(・・・)たとえばムイシュキンをジャクソンの患者としてみるとか、その考察をドストエフスキーの『白痴』と比較するといった試みは無意味である。矛盾がかちあうばかりでなく、まったく場違いなためである。

それにしても19世紀の終わりには、それぞれの国や職域の間に交流はなかったといっても、ジャクソン、ガワーズ、ザムト、ファルレ、ロンブーゾ、ドストエフスキー、ゾラ、ニーチェその他多くの人たちが、てんかんに関する輝かしい知見を提供してくれた。 (Temkin, 1971) 。(『てんかんの歴史第1巻:古代から十八世紀まで』 Owsei Temkin 著 和田 豊治 訳  中央洋書出版部 1988 P.423-424)

ドストエフスキーのてんかん学への貢献はあきらかである。精神的な現象により特徴づけられる焦点てんかんを参照するにあたって、一般的な既視感からとりわけ稀な恍惚感に至るまで注意深く診察することの重要性を「ドストエフスキーてんかん」という名称が示唆している。

7. ドストエフスキー症候群?:側頭葉てんかんにおける発作間欠時の行動変化

ヒューリングス・ジャクソンに対する個別の、しかしながら互いに補足しあうアプローチによって、ドストエフスキーはわれわれのてんかんの知識に以前では思い及ばなかった影響を及した (Gastaut, 1978)。 20世紀から21世紀の神経科医はドストエフスキーの病歴を医学的知見にもとづき遡及的に研究するだけでなく、小説中の描写をてんかん症候群の行動変化を説明するためにも利用した。

例えば、Waxman と Geschwind は、側頭葉てんかん患者において、回りくどさ、過剰な宗教性、性欲減退、および書字過多を典型的な発作間欠時の症候群として識別した。(Waxman and Geschwind, 1974, 1975)。これらはすべてドストエフスキーに当てはまると考えられた。 しかし、この症候群は後にゲシュビント症候群として知られるようになる一方で、一部の神経科医の間で議論になった。問題とされたのは、この症候群において、多種多様なバリアントを持つ拡張的症候(「Bear & Fedioの調査表」にある)に関する議論の不足であった。それは、異種のてんかん、まさしく側頭葉てんかんの、個人のヴァリエーションに関する問題であった。

ゲシュヴィント症候群は、時にドストエフスキー症候群とも呼ばれる。この名前の由来に敬意を払うためにも、ドストエフスキーについて、エクスタシー前兆の議論にとどまらず、書字過多や性欲減退(ドストエフスキーは旺盛な性生活を送ったとされる)についても議論が必要であろう。それらを検証するための伝記的資料は残されている。

8.てんかんの有益利用:最終コメント

ドストエフスキーは、医師からてんかんの発作を予防するために執筆を控えるようにと繰り返し勧められており、自らも神経の過剰な集中と睡眠不足がてんかんに有害であることについては認めてもいた。しかし、ありがたいことに、同時代の人々および未来の読者のみならず、自身のためにも、ドストエフスキーは文学の治療的な効果を信じ、医師の忠告を受け入れることなく(彼は当時の治療薬の副作用に気づいてもいた)最後まで書き続けた。ドストエフスキーは芸術のためにてんかんという病気を知的に利用したのである。

さらに、原稿の締め切りを延期してもらうための弁解としても病気を利用した。また、1849年ペトラシェフスキー事件で、有名なニコライ1世による偽の死刑宣告劇を経て4年間の獄中生活を送り、その後セミパラチンスクで軍隊勤務を命じられたのだが、そこで労役から自由になるためにもこの病気を利用していた。彼は軍医エルマコフを通して新皇帝のアレクサンドル2世(幸いなことに専制君主ではなかった)に病気を理由に退役を願い出たのである。有力な友人のヴランゲリ男爵の助けもあり、エルマコフの診断書は、新しい皇帝の治世下でモスクワ王立医学アカデミーの承認やその後の承認に関して効力を発揮した。

ドストエフスキーは1850年にはじめて重大なてんかん発作を起こしました。(・・・)1853年に、再発し、現在では、1月ごとに発作が起こっています。健康状態はよくありません。病気は悪化しているので、今後、兵隊として陛下のお役にたつことはできないでしょう。(Sekirin、1997)

人生の3分の2をてんかん者として生きたドストエフスキーは、6つの小説の中で、異なる時代の男女のてんかん者をそれぞれの社会的な背景のもとに描いた。ドストエフスキーほどてんかんについて注意を喚起させられる作家は他にはいない。極端な状況の下、40年間の芸術的創作活動において、ドストエフスキーはてんかんをさまざまに利用したが、もちろん、小説の中にも使った。『白痴』の中で、ドン・キホーテまたはキリストになぞらえられる肯定的人物であるムイシュキンのてんかん発作のプロセスを詳細に描いた。身分や知能や善悪にかかわりなく、てんかん者の体験の多様な面を力強く記録し後世に残した。─ ムイシュキンは自らに問いかけている。

いったいこの感覚がなにかの病気ならどうしたというのだ?」彼はとうとうこんなふうに断定をくだした。「この感覚がアブノーマルな緊張であろうとなんであろうと、すこしもかまうことはない。もし、結果そのものが、感覚のその一刹那が、健全なとき思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして志純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことはおろか、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、志純な生の調和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、すこしも問題にならない!(米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集 第7巻』河出書房新社1969)
 
しかしながら、この『白痴』と『悪霊』で顕著に描かれた夢様状態や知的前兆、とりわけエクスタシー前兆に関しては作家のポジティブな創作とされてきた経緯がある。一方、現実における作家の生活はこのような、調和に満ちた眺望とはほど遠かった。深刻な分裂と記憶の障害という重荷を背負った日々において、楽しく喜ばしいことは少なかったのである。彼は晩年、ソロビヨフに語っている。

流刑中にてんかんの発作が起こり、そのときからてんかんがわたしに付きまとうようになりました。この最初の発作に見舞われる以前に身の上に起こったことなら、人生のどんな些細な事件であれ、出会った人々の一人一人の顔であれ、読んだり、聞いたりしたものであれ、すべてわたしは詳細にわたって記憶しています。ところが発作が起こるようになってから後にはじまったことだと、わたしはたびたびもの忘れをするようになり、ときによると、たいへんよく知っている人々でさえもすっかり忘れてしまって、顔も思い出せなくなるようなこともあるのです。懲役に行ってからあとに書いたものはなにもかも忘れてしまい、『悪霊』の続きを書くときなどは、登場人物の名前すらことごとく忘れてしまったので、最初から全部読み返さなければならなかったほどでしたよ。(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966 p.334-335)

これほどの苦悩を通して生み出されたドストエフスキーの文学がてんかんという病気に負うところが大きいのは明らかである。この並みはずれた作家の業績は、神経障害が時として人生における好機にもなりえることを示している。



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