Medical Dostoevsky&My Dostoevsky


[非日常のなかの「だれか」と私]

木村敏『時間と自己』(中公新書 2009 初版1982) の「あとがき」の最後に書かれた一文を以下に引用する。 ドストエフスキーへの親和性を強く感じさせられた。(下原康子)

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きたいと思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどき我に返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことがある人は、おそらく私だけではないだろう。

夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時のあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持ち主が夢を見はじめたときに私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名を持っているのではないか。

私たちが科学的真理とみなしているものも、合理的思考と呼んでいるものも、こう思えばすべて夢の中の迷妄にすぎないことになる。私たちが時間とか自己とかの名で語っているものも、夢の中以外にはどこを探しても存在しないまぼろしではないのだろうか。

しかし、たとえはかない夢であってもまぼろしであっても、私たちはいったんこの「だれか」の夢に登場してしまった以上は、この夢の中で生き続けなくてはならないのだろう。そのためには夢の中の論理をも求めなくてはならないのだろう。ただ、私たちが普段確かな現実だと思いこんでいるこの人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつの高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、ぜひとも知っておかなくてはならないように思う。