ドストエフスキーとてんかん/病い


NICUにおける終末期意思決定へのアプローチ:ドストエフスキーの「大審問官」からの洞察


J.J.Parisほか 下原康子訳

論題:Approaches to end-of-life decision-making in the NICU: insights from Dostoevsky’s The Grand Inquisitor
著者:JJ Paris, N Graham, MD Schreiber, M Goodwin
所属:1Department of Bioethics, Boston College, Chestnut Hill, MA, USA; 2Department of Pediatrics, University of Chicago Children’s Hospital,Chicago, IL, USA; 3Department of Pediatrics (Neonatology), University of Chicago, Children’s Hospital, Chicago, IL, USA; 4Health Law Institute, DePaul University College of Law, Chicago, IL, USA
収録誌:Journal of Perinatology (2006) 26, 389-391. doi:10.1038/sj.jp.7211535;
published online 4 May 2006



抄 録

多くの親にとって、死に瀕したわが子の生命維持装置を止めることは心理的に不可能である。人の行動、とりわけ個人的なことがらについてのドストエフスキーの洞察によれば、人々は困難な決定の責任に伴う不安や罪の意識を望まない。この洞察は死にゆく子どもの親に対する医師のアプローチを、生命維持のための医学的介入からの撤退を提案する方向へと変えるかもしれない。

キーワード:終末期のケア、DNR(蘇生措置拒否)指示、意思決定


多くの両親にとって、子どもの生命維持装置を止めることは心理的にも道徳的にも不可能なことである。死は病気のせいで人工呼吸器を外したからではないとわかってはいても、両親はそのことが子どもの死を引き起こした思い続ける。彼らは決して生命維持装置を止める行動に同意することはできない。例えば、ベビーKの母親は、無脳症のわが子から人工呼吸器を外したのは「殺人」であると主張した。別の両親は、新生児医療の現場でしばしば見られることだが、命の終わりを決められるのは神だけです、と強く主張する。いったん議論が宗教的な領域に進展したら医療チームは無防備である。両親が気持ちを変えることはない。ベネフィットの向上について倫理的な説明をしても、伝統的なアプローチである医学の介入の有用性の評価の説明をしても効果はない。子どもは死が唯一の出口であるテクノロジーに閉じ込められる。NICUで必然的な死が発生したとき、関係者は「私たちはできるだけのことをした。決定したのは神で我々ではなかった」と自らを納得させている。

ドストエフスキーの洞察

両親は子どもの、とりわけ新生児の死に対する責任を回避したいと強く願う。このような現実への洞察がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中に見出せる。我々は、作家の人間性の理解が、合理性、自律性、自己決定が協調されている現在のアメリカの生命倫理と比較して、重点とするところがまったく相反していることに気づかされる。ドストエフスキーがいう個人の選択というのは、「権利」の行使ではなく、重荷の回避なのである。

MontelloとLantosは「カラマーゾフコンプレックス:ドストエフスキーとDNR指示」という論文で人間心理への洞察について探求した。その中で、今日、意思決定における法律的、哲学的な議論で最重要の倫理的な原則とされている「自律性」について、患者・家族はそれを欲していないし、責任をとることも望んでいないという事実を観察した。患者および代理人がよりいっそうのエンパワーメントや権限を必要としているかどうかに関わらず、人間行動の探求において「自律性」に焦点を絞りすぎるのは間違った方向に導く論調であると主張した。

かれらは、家族が現在主流の生命倫理が強調する権利をかならずしも望んでいないと気づいた。家族は選択と行動について個人的な責任を取るより『カラマーゾフの兄弟』で描かれたような連帯責任の方を好んでいた。小説において、4人の兄弟のうちの3人が父の死を望んでいる。彼は邪悪、不潔、酔っぱらい、子どもの虐待、強姦、いかさまを行う男である。3人はそれぞれ別の理由から父の死を望んでいた。しかし、小説の中では、終盤まで彼らのうち誰が父を殺したかは不確かであり続ける。彼らはアンビバレントな状態だった。不安と道徳的な良心の呵責を抱いていた。3人はあきらかに父の死を望んでいたが、その誰もがその決定あるいは実行に関して責任を取りたくはないと思っていた。

MontelloとLantosは、終末期の意思決定の多く、とりわけNICUにおいて同様なパターンがあると考えた。家族は治療の中止を望んでいるが、その決定についての責任は望まない。ドストエフスキーは『大審問官』という叙事詩で書かれた章の中で、責任についての理論を展開している。16世紀のセビリアにキリストが現れるこのこの物語には作家の人間性に対する深い洞察がある。群衆は緋色の衣をまとった高齢のしなびた大審問官がキリストを火刑にすることを承認している。キリストの罪とは何だろう?彼は愛と自由を宣言するために来たのだ。しかしながら、大審問官は人々が自由を望まないのに気づいていた。

自由を手放した人々が求めるのは奇蹟と神秘と権威である。人々は他の誰かに決定と責任を代行して欲しいと願い、そのためには喜んで自分の自由を投げ出すのである。大審問官は主張する。「我々は人々が自由と引き換えにした権威で、彼らが持ちこたえられないような辛い決定を代行し、彼らの苦悶を取り去ってやるのだ」と。

親切で高邁な魂を持つ末の弟のアリョーシャは、イワンが語る叙事詩を聞いて、見当はずれの幻想であると言う。しかしながら、我々はこの物語に深刻な思いを抱かずにはいられない。いかなる洞察を受け取ることができるだろうか? NICUでわが子の生存の可能性が「あり」から「うすい」にやがて「絶望的」に移っていく、そういう状況に直面している、両親の困難で辛い決定を理解するための有益なヒントになるのではあるまいか。

哲学者、弁護士、および裁判官の終末期意思決定は、少なくとも理論上はかなり明快である。いったん医師が生存の可能性がないと結論を出したら、告知と同時に治療中止の選択肢が与えられるべきである。しかし両親にとってこの選択は容易ではない。彼らは医師をじっと見つめて「先生はうちの子を殺す許可が欲しいと言われるのですか?」と聞くかもしれない。どうして両親にそのような同意ができるだろう?子どもの命に見切りをつけるという罪にどうやって耐えることができるだろう?

ドストエフスキーの文学で人間心理の奥底を探ることによって我々が理解したのは、子どもの治療を終わらせるという親の決定は、哲学者により提案された負担とメリットのバランスを理性的に計算することではなく、弁護士により引用された法律の先例の論理的な結論でもない。これらの決定は、親たちに、苦悶、曖昧さ、疑惑を伴う苦しい状況を強いる。罪悪感、憤怒、不満足感で上塗りされているような状況では、個人的な選択を行使する機会とわかってはいても理性的な分析に従うことは難しい。むしろ、そうした事態が恐ろしく重荷と感じるのである。

哲学はそれがあるべき道を指し示す。しかし、その要求は難しすぎ、あまりに圧倒的で、個々人の状況では受け入れがたい。一方、文学は生の経験における真実に注意を払う。小説や詩は衝突や否定のような感情を生活の中にあるがままで捕らえる。作家また詩人は、我々の限界を超えてより微妙な豊かな人間についての理解を表現する。それは哲学、生命倫理、また法律において不十分なポイントなのである。

もし、ドストエフスキーが示し我々の経験が立証するように、親が子どもの生命を終える決定を躊躇するのが人間の本性ならば、我々はNICUでの治療の中止を決定する方法を再考したいと考える。両親に医学的事実と可能なオプションを提供し、「これがこの子の現実です。どうするか決めてください」というむき出しの事実に対峙させるよりも、両親がそのような決定に対して気乗り薄であることを認め、そのような決定は避けたいという彼らの要望を受け入れたいと思う。

NICUシナリオ

最初のステップは、医療者側が決定におけるアプローチを変更することかもしれない。これまでの標準とは異なるシナリオは次のようなものになる。まず最初に両親に新生児が23週で生まれ体重が614gであり、虚弱で不安定で脆弱であることを告げる。見通しが悲観的な場合でも、多くの親は希望を捨てず、子どものためにできるだけの
ことはしてくださいと頼む。もしそうなら集約的治療が始められる。生後2日目には、頭蓋内超音波は左側グレードIII脳室内出血を示す。生命維持のため、ドーパミンに加えて、ハイドロコルチゾン、液体ボーラスを使うが、重大なW度低血圧がおこる。適正な酸素処理を保持するために高い人工呼吸器設定が必要になる。ヘマトクリットと血小板は血液製剤の交換にもかかわらず一貫して低い。重度の代謝性アシドーシスも未解決のままである。皮膚は灰色になり重大な事態をうかがわせる。DOL 6上の超音波は、左がグレードIV、右がグレードIIの大規模な脳室内の大出血を示している。

この時期に医師は両親に子どもの死を告知する。そして次のように話す。「私たちは、最初から赤ちゃんが助かるチャンスは非常に少ないことを知っていました。私たちは治療を試みましたが、あなたの赤ちゃんの状態は圧倒的で、私たちがどのように努力をしても好転することはありません。私たちができるベストは、赤ちゃんを気持ちよくしてあげて、ご両親にだっこしてもらって、最後のときまで赤ちゃんといっしょにいてもらうことです」

両親に「あなたの赤ちゃんの心臓が止まったら、助けようとしてほしいですか?」と尋ねてはならない。 このような質問は両親に誤った希望や非現実的な期待を与え、必然的に今以上の介入を要求することになり、問題をますます複雑にしてしまう。さらに「心肺蘇生(CPR)は瀕死のNICU患者の死の防止には無効である」というSinghらの言及に留意すべきである。

いったん両親に治療の介入の追加や拡大に効果がないことを説明したら、これからのケアは赤ちゃんの快適さを確保するために向けられることを強調すべきである。両親の気持が一致したら医師はチャートに書き込むのがよい。「 我々は子どもの状態について両親と話し合った。両親はこれ以上の治療の効果は保証されないこと、我々のゴールが病気を回復させる試みから子どもに快適さを提供することに移ったことを理解した。したがって、このケアプランにそって、患者の心臓が停止した時に心肺蘇生が試みられることはない」

こうしたアプローチをめぐる疑問は他にもいくつかある。ドーパミンレベルの調整やバソプレシン点滴の省略について親の許可を得ることは大きな問題ではない。両親にとっては不要な議論である。低酸素の子供の平均気道内圧を28cmから32cmH
2Oまで増大させないとか、難治性低血圧でカテコール点滴をやめるとかは、Singhらの観察にあるように医学のインジケーターに基づいた決定である。両親が決めることではない。

人工呼吸器を外す問題が残っている。両親が子どもを抱っこするためにチューブやラインなどをすべて取り除いて欲しいと望まないかぎり、このようなステップは不要であろう。厳しい後遺症のあるきわめて早熟な新生児は長い間生き続けることはない。

いったん両親がこれ以上の治療は保証されないことを理解しそれを受け入れたら、子どもへの適切なケアは、集中的な介入から、ポール・ラムゼイが「寄り添いと癒し」と呼ぶものに移る。これは、医師または両親、とりわけ医師にとっては医学の枠を越えて子どもに提供できる最良の方法である。もちろん、医学の介入が必然的な死を引き延ばすことにしかならない場合のみに認められる方法である。その時が到来した時には患者の苦しみを引き延ばす必要はないし、両親の覚悟を要求する必要もない。

結 論

ドストエフスキーが教えるように、関係者にとってもっともよい解決は、決定がなされていたとしても、それを誰が決定したかが明確ではないことである。終末期ケアへのこのアプローチは必ずしも新しいものではない。「ヒポクラテス全集」の中のアートという章で述べている医術の持つ3つの役割、「病苦を取り除き、病気の激しい勢いを和らげ、さらに病気に負けてしまった患者の場合は、医術は無力と気づいてやたらに手を出さないようにすること」と同じである。「もし現実的な選択肢がないのなら、いかなる選択も提供されるべきではない」とヒポクラテスは助言している。 努力を尽くしたにもかかわらず、超未熟児への医学的介入が失敗したとき、その治療から撤退する許可を要求して両親の悲しみに追い打ちをかける必要はまったくない。
ケアの重点が子ども最後の時をできる限り快適にしておくことに移行したとを認めることが両親にとって十分な責任である。この小さな行為がこの状況における最高の医療となる。

References
1 Paris JJ, Miles SH, Kohrman A, Reardon F. Guidelines on the care of anencephalic infants: a response to Baby K. J Perinatology 1995; 15(4):318‐324.
2 Dostoevsky F. The Brothers Karamazov. Translation by C Garnett. Modern Library: New York, 1996.
3 Montello M, Lantos J. The Karamazov complex: Dostoevsky and DNR orders. Perspect Biol Med 2002; 45: 190‐199.
4 Singh J, Lantos J, Meadow W. End-of-life after birth: death and dying in a neonatal intensive care unit. Pediatrics 2004; 114: 1620‐1626.
5 Ramsey P. On (only) caring for the dying In Ramsey P. The Patient as Person. Yale: New Haven,1970.
6 Hippocrates. The art. In: Reiser SJ, Dyck AJ, Curran WJ. (eds). Ethics in Medicine: Historical Perspectives and Contemporary Concerns. MIT Press: Cambridge, MA, 1977; 6‐7.