Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
日本大学芸術学部文芸学科 ドストエフスキー曼荼羅 2号 2008


荒唐無稽のおもしろさ 
今、私はドストエフスキーをこのように読んでいる

下原康子



二十歳前後のころ、先入観も予備知識もないままに『地下室の手記』と出会った。こんな小説もあるのかとびっくりした。愉快でおもしろくて笑いながら読んだものだ。そのころアパートで独り暮しをしていた。カーテンや絵や小物などで居心地よく整えていたので地下室らしいところはなかったのだが、それでもそこはまさに私の地下室なのであった。 

電話、テレビがなかった。オタクでもひきこもりでもなく毎日生真面目に働き人付き合いも並ではあったが、一方で孤独を好み、自意識に悩む地下室人を気どってもいた。それから40年が過ぎた今でも、あのころの自分は遠くなるどころかそっくりそのままである。地下室は私の心の片隅に変わらぬ巣っことして存在している。


「ドストエーフスキイ全作品を読む会」に1971年発足の時から参加して、ほぼ10年に1サイクルのペースで全作品を繰り返し読み続けてきた。現在は4サイクル目の『未成年』にさしかかっている。一つのことをこれほどまでに長く続けてきたのである。研究者顔負けの含蓄を期待されても不思議はないかもしれない。ところが、私の読み方は『地下室の手記』のころのままである。ひたすら読むだけ。感想と言えば「おもしろい、すごい」の一点張りでなかなかそれ以上のことばにならない。読みっぱなしのそのまんま、感想だってしゃべりっぱなしのそのまんま、したがってこうやって書くのはしんどい作業である・・・。

研究書や解説書の類にはあまり関心がない。もっとも、ドストエフスキーへの情熱がほとばしるような研究者の話をじかに聞くのは大好きである。作品の舞台となった場所を訪ねたいとさほど望まず、いまだかってソヴェトにもロシアにも行ったことがない。ロシア語を学ぼうと思ったこともなく、翻訳についてもこだわりはない。『罪と罰』を上巻は江川訳で下巻は工藤訳で読んだことがある。たまたま、本棚に江川訳の下巻がみつからなかったからだが、不都合は感じなかった。最初に読んだ米川訳のイメージが大きく変わることもなかった。

司書でもあったローラ・ブッシュ米大統領夫人は大の本好きで「ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも持ってソファに座っていれば幸せ」とのことだ。ホワイトハウスと「地下室」のダブルイメージににんまりした。ローラ夫人同様、ソファと本さえあれば幸せになれる私が「全作品を読む会」に長く参加し続けているのは、参加者の熱い感想を聞く楽しみのためである。ドストエフスキーは他の作家と比較しても際立ってその読まれ方が多様である。中でも一風変わった主張でその人の情熱を披瀝する人の存在は貴重だ。感想が想定外であればあればあるほど奇妙な満足を感じる自分に気づく。一方で、飾らない率直な感想に接すると我が意を得たりとばかり「そう、そう」と声をかけたくなる。その人の生き方を彷彿とさせる感想も印象深い。

私自身は作品のディテールが面白い。深遠な思想よりも作中人物のつまらないこだわりや荒唐無稽に心が傾く。とは言ってもそれは年を重ねてからの話で、若いころは「荒唐無稽度」の高い作品は何回挑戦しても同じ個所で挫折した。『悪霊』のステパン氏とワルワーラ夫人の場面を「なんだこりゃ」ではなくおもしろいと感じるようになったのは最近のことである。

私の「荒唐無稽度」ナンバーワンの作品は『未成年』で、今までどうしても読みきるまでいかず挫折を繰り返している。次回の読書会に向けて再々挑戦中である。ところが、今回はなんだかおもしろくなってきた。荒唐無稽の隙間からチラリホラリと見え隠れする深遠なる思想の気配が感じられるのだ。一方で『未成年』だけは老後の楽しみに荒唐無稽のまま取って置きたかった、という思いもある。もっともすでに老後に突入しかかっているが。

登場人物をとってみても、読むほどに「荒唐無稽度」が高い人物に関心が向くようだ。20~30才代はイワンが、40〜50才台はドミートリーが好きだった。60歳台の今はアリョーシャがいい。また、ピョートルやスメルジャコフに共感する自分を発見している。

それにしても、40年間繰り返し読み続けてきた感想が「荒唐無稽」では、読書のすすめにもならない。「荒唐無稽」の逆は「わかりやすさ」だろう。社会、政治、教育、メディア、学問、そして芸術までもが「わかりやすさ」を求められ、コピー&ペーストの安易な要約や講釈が喜ばれている。そのような現代に「未成年」の抱える「地下室」と「荒唐無稽」のすみかはどこにあるのだろうか。

ある日、電車で隣に座ったイケメンの若者が文庫本に熱中していた。横目でのぞいてみたら亀山訳『罪と罰』の一冊だった。好感度が2倍3倍にもなった。