Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイの会ニュースレター No.46  2000.7


傍聴記 熊谷暢芳氏の「嗜癖をとおしてミーチャを読む」を聞いて

(第143回ドストエーフスキイの会例会)


嗜癖を現代のキーワードとして、ドストエフスキーと結びつけて論じる試みに、おおいに共感しました。私が「嗜癖」という言葉に出会ったのも、報告者が「ドストエフスキーの読書体験なしには、私を震撼させることはなかった」と述べられた精神医学者 斉藤学氏の著作においてでした。直観のみで言葉にならなかった嗜癖をめぐる概念のいくつかを、限られた時間の中で巧みに説明される明晰さに感心してしまいました。  

ドストエフスキーの作品の人物には嗜癖者が多いという指摘はまったくその通りだと思います。ドストエフスキーが「あらゆる種類の欲情(アフェクト)に取りつかれた」と表現し、A少年が「透明な存在に操られる」と表現した人物こそ、斉藤学が語るところの「嗜癖者」です。 

下原敏彦氏がそれらの人物を列挙しています。(「透明な存在」の正体−ドストエフスキーと現代の問題 広場6号 2000) 手紙ストーカーのジェーヴシキン、守銭奴のプロハルチン氏、アル中の典型人間マルメラ ードフ、非凡人思想にとりつかれたラスコーリニコフ、自己犠牲の信奉者ソーニャ、「水晶宮」という「悪霊」にとりつかれた若者たち、エキセントリックで魅力的な摂食障害少女を思わせるナスターシャ、 等々。  

彼らを「嗜癖者」と捉える見方によって、ドストエフスキーの作品の読み方に新しい地平が開けるように思います。嗜癖は一種の習慣障害で、その程度も軽いものから重いものまでさまざまですが、まったく嗜癖と無縁な人はいません。タバコがやめられないとか、遅刻しないように朝5分早く起きることすらやり遂げられない自分、インターネットやメールにはまりすぎている、そんな自分自身の中に、ドストエフスキー的問題が存在していることに嗜癖というキーワードが気づかせてくれました。

「じゃがいもの会」というボランティア団体の代表をしている歌手の森進一が色紙に「人生は習慣の織物である」と書いているのを、テレビで見ました。ボランティアという行為の真髄を表現した一言だと感心しました。自助グループは逸脱した習慣である嗜癖から抜け出そうとし、ボランティアは自らの人生をより良い習慣によって織り上げていこうとする...根っこのところは同じではないでしょうか。  

ところで、報告は嗜癖とミーチャ(ドミートリー)を結びつけて論じられました。嗜癖者オンパレードの中にあってなぜミーチャなのか、釈然としないものがあったので、会場で質問しました。「放蕩 のかぎりをつくしていたミーチャは嗜癖者と言えるのではないか」という回答に一応は納得 しましたが、それでも「ミーチャだけはちょっと違う」という感じがぬぐえないでいました。

なんとなく考え続けていたら、「ミーチャは新生した嗜癖者である」という考えがひらめきました。それがドストエフスキー自身のルーレット嗜癖からの回復と繋がりました。新生といえば、すぐにラスコーリニコフを連想します。ドストエフスキーのシベリア体験なしにはラスコーリニコフの新生はありえなかったでしょう。同様に、ミーチャの新生の中にドストエフスキーがどうやって嗜癖から回復することができたのか、その大いなる謎が隠されているのではないか、そう思うようになりました。「ミーチャが一番好き」とおっしやる報告者はそのあたりをリアルに感じとられていたのかもしれません。

ドストエフスキーは『賭博者』の構想についてストラーホフに送った手紙に次のように書いています。「主人公は単なる賭け事好きではありません。有る意味で一個の詩人なのです。しかも重大なことはこの男がその自分の詩的傾向の下劣さを深く心に感じていて、それを恥じていることです。そうではあるのですが、この男のリスクを求める欲求こそがこの男を彼自身の意識においても高貴なものにしているのです」

一方ユングは彼が治療したあるアルコール依存症患者について次のように述べています。「彼のアルコールヘの渇望は、ある霊的な渇きの低い水準の表現でした。その渇きとはわれわれの存在の一体感に対する渇きであり、中世風の言い方をすれば、神との一体化ということであったと思います」  

嗜癖の奥深さに慄然としながらも、報告者がミーチャを取り上げられた理由が理解できたように思いました。天国を熱望しながら地獄に執着し、地獄にいながらホサナを歌ったミーチャを。