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ドストエーフスキイの会 ニュースレター 155 2019



ドストエーフスキイの会 第253回例会 傍聴記

太田香子氏の 「ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』」を聴いて

下原康子


『ドン・キホーテ』『白鯨』『悪霊』。この3作品は、読了しただけで自慢したくなる小説ベストスリーである。なぜ?と聞かれれば、私が読了したからにすぎないが。とにかく物語にぐいぐい引き込まれるまでに相当の忍耐を必要とした。『悪霊』の難関は冒頭から始まる。延々とつづくステパン氏のなんだかんだ、それからワルワーラ夫人との間のすったもんだ。難解というのではないが、わけがわからない。スタブローギン登場に行きつくまでに二度三度と挫折を繰り返し、40代に入ってようやく読了したような次第である。

『悪霊』はミルフィーユのような小説である。喜劇と悲劇、空想とリアリズム、うわさとジャーナリズム、それらが折り重なっている。登場人物もまた重なりあっている。その中心には特別な隠し味がひそませてある。スタブローギンという人物がそれである。後世の研究者はこの隠し味の成分の研究や分析をさまざまに行ってきた。しかし、ブラックホ─ルの解明は容易ではない。

ところで、肝心のミルフィーユの生地はといえば、それこそがステパン氏なのである。いささかふやけた生ぬるい生地である。研究者でさえあまり取り上げないこの人物を、しかもこの人物の「信仰告白」をこのたび、私の親しい若い女性が論じた。

テーマは「ステパン氏の信仰告白から読み解く『悪霊』」である。ドストエフスキーが生涯をとおして悩みぬいた「神と不死」。まさしく直球ど真ん中の問題に真っ向から挑んだ若い報告者の情熱と純粋さに心打たれた。

報告者は、特に検討したいポイントとして2点あげている。
・「存在よりも高い」のは「神」ではなく愛とされていること。
・「ぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまう」の「ぼくら」とはなにか。

この2つの問いを発する報告者の心の中には、てこでも動かないある種の確信が芽生えているように思われる。それはドストエフスキーを初めて読みはじめた中学生のころから育ってきたのかもしれない。文学の世界で感じたそうした考えを他の人に説明して共感してもらいたいというのは、誰もが感じる欲求だろう。しかし、心にあることの十分の一も表現できないというジレンマもまたよくあることだ。

私がもっとも興味深く聞いた考察は、「子供をめぐる考察」であった。中でも唯一、スタブローギンの虚偽を見抜いた、ドストエフスキー作品の最高ヒロインであるマリヤ・レヴャートキナについてより突っ込んだ考察が聞きたいと思う。

ところで、報告者はキリーロフの熱烈なファンと聞く。ステパンとキリーロフ。両者は似てないように見える。しかし、「未来の永遠の生」を信じるようになったステパンと「地上における永遠の生」を信じているキリーロフ。限りなく近いのではないだろうか。この発見は私にとって大きな収穫であった。