Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 『読書会通信』No.162(2017)
 

『出家とその弟子』と『カラマーゾフの兄弟』

下原康子

20数年も前のことだ。当時勤務していた医学図書館で、二人の医師の会話が耳に入ってきた。「患者さんから『出家とその弟子』を読むように言われてね・・・」くつろいだ調子で診療内科の医師が相手の医師に語っていた。印象深いエピソードとして記憶に残ったが、そのときには『出家とその弟子』を読んでみたいとまでは思わなかった。それから10数年後、患者図書室の司書をしていたとき、敬愛する日野原重明先生の「医師・看護師に薦める本」のリストの中に『カラマーゾフの兄弟』と並んで『出家とその弟子』をみつけた。先入観も予備知識もないまま初めて読んだ。そして衝撃を受けた。

解説によれば、『出家とその弟子』(1918)は倉田百三(1891-1943)が二十歳代で書いた作品で、「親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に『歎異抄』の教えを戯曲化したもの」とされる。当時大ベストセラーとなり世界各国で翻訳された。ロマン・ロランが「欧亜(ユーラシア)芸術界の最も見事な典型の一つで、これには西洋精神と極東精神とが互いに 結びついてよく調和している。この作品こそ、キリストの花と仏陀の華、即ち百合と蓮の花である。 現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでも、これ以上純粋なものを私は知らない」と激賞した。

とはいえ、親鸞にも『歎異抄』にもなじみがなかった私が驚いたのは、登場人物が『カラマーゾフの兄弟』の人物像に瓜二つであるということだった。親鸞はゾシマに、善鸞はイワンに、唯円はアリョーシャにしか読めなかった。ドミートリーは単独の人物としては出てこないが、放蕩者の善鸞と純愛を貫く唯円にその反映がある。第一幕の日野左衛門(唯円の父)はピョートルに似ているが迫力において及ばず、むしろイワンに近い。ヒロインの二人の遊女、善鸞を愛する浅香(26歳)と唯円と恋仲のかえで(16歳)は共に『罪と罰』のソーニャの面影を宿している。スメルジャコフらしき人物は登場しない。

場面の類似から言えば、一幕で左衛門が妻に語る「鶏屠し」の夢はラスコーリニコフの「痩せ馬の夢」を連想する。また、左衛門が親鸞を杖で叩いて雪の中に追い出したとき、親鸞が身につけていた阿弥陀如来の像の右手が欠ける。翌日改心した左衛門がその像を親鸞から賜るというエピソードはいかにもドストエフスキー的だ。第二幕で、親鸞のもとに遠方から多くの信者や参拝人がやってきて「往生のための安心を得たい」と希う。親鸞は「念仏するだけでよい」という。僧院で人々に対応するゾシマの姿を彷彿とさせる。両者ともにその前歴やふるまいから正統派からはやや変わり者の僧侶という評価を受けている点でも似ている。この戯曲の序曲「死ぬるもの」は、人間と顔蔽いせる者との対話だが、これはまさしく「ヨブ記」である。


倉田百三がドストエフスキーを読んでいないとは考えられないと思った。幸いなことに倉田百三の作品のほとんどはインターネットの 青空文庫で読むことができる。『愛と認識との出発』(1921)の中でドストエフスキーに触れていた。「ドストエフスキーのようにというのが、その頃の私の生活のモットーであった」という一文があった。

倉田百三『愛と認識との出発』の中のドストエフスキー