ドストエフスキーとてんかん/病い
ドストエフスキー作品メモ



ドストエフスキーのルーレット賭博関連の記録

日付はロシア暦。ロシア暦とはロシア帝政時代に使用されたユリウス暦の通称。19世紀には12日、20世紀には13日を加えると現行のグレゴリオ暦になる。

典拠:『ドストエフスキー全集 別巻:年譜』(伝記、日付と資料)L.グロスマン 松浦健三 訳編 新潮社 1980


1842年(21歳)
工兵学校在学中。賭け事(バンクとシュトッス)に熱中する。

1844年(23歳)
モスクワの後見人から千ルーブリ受け取ったが、同日、撞球とドミノにかけて使い果たす。

1859年(38歳)セミパラチンスク
4月:《ロシアの言葉》4月号にフョードル・デルシャウの「賭博者の手記より」が載る。これを同誌編集者A.A.グリゴリーエフとJ.P.ポロンスキーが、セミパラチンスクの同人ドストエフスキーに送ったことは間違いあるまいと思われる。『賭博者』の発想は1963年のスースロワとの旅行の時ではなく、この1959年であった。

1862年(41歳)ペテルブルグ
6月7日:初めて外遊の途につく。[ベルリン、ドレスデン、ヴィスバーデン、バーデン・バーデン、パリ、ロンドン、ルツェルン、デュッセルドルフ、ジュネーヴ、ジェノア、リヴォルノ、フィレンツェ、ミタノ、ヴェネチア、ウィーン] 帰国は9月。
6月15-16日:パリ着。パリにつく前に、ドイツの賭博場(ヴィスバーデンかホンブルグかバーデン・バーデン)に寄り1万1千フラン勝つ。
7月4日:ゲルツェンを訪ねる。[この時M.A.バクーニンとも話し合う。]
7月18日:ストラーホフがジュネーヴに着き、ドストエフスキーと会いイタリアを旅する。
9月:ドストエフスキーとストラーホフが、それぞれ帰国する。

1865年(44歳)ペテルブルグ、7〜10月海外旅行
7月中旬ごろ:外国に出発する。
7月29日ごろ:ヴィスバーデンに到着する。
8月はじめ:スースロワがヴィスバーデンに会いに来る。
8月3日:ヴィスバーデンよりツルゲーネフに手紙。自作をステロフスキーに売却したこと、賭博で大損したこと、100ターレル貸して欲しい。
8月8日:ツルゲーネフに手紙。50ターレル送金の礼。
8月10日:スースロワが去った後、無心状を書く。
8月12日:スースロワに手紙。重ねて送金を頼む。
9月5日:コペンハーゲンのロシア公使館に勤めるA.E.ヴランゲリに手紙。賭博の負け、100ターレル送金を乞う。
9月初め:A.P.ミュリコフに手紙。構想中の小説A.P.ミュリコフに手紙。構想中の小説(『罪と罰』)をどこかの出版社に300ルーブリ前払いで「売る契約したい」(手紙紛失)
9月10日:ヴランゲリに手紙。再び金策依頼。
9月16日:ヴランゲリに手紙。100ターレル送金の礼。
10月1日:コペンハーゲンのヴランゲリを訪ねて一週間客となる。子どもたちの相手をする。
10月15日ごろ:帰国。
11月8日:帰国当初の3週間に3度てんかんを起こす。鋭意『罪と罰』を執筆する。カトコフから前払いを受け取る。
11月22日:I.L.ヤヌイシェフに手紙。「てんかんが相次いでこの一か月半に4度、今なお病む」

1866年(45歳)ペテルブルグ
2-3月:三年ぶりに痔が痛くて動けず、冷温湿布をして床に伏す。
4月4日:D.V.カラコーゾフ大逆未遂事件
夏:モスクワ郊外のリュブリノ村の別荘で、妹ヴェーラ・イワーノワ一家と過ごす。姪ソーニャをかわいがる。
10月1日:ミュリコフが来る。11月中にステロフスキーに小説を渡さなければならないという話から速記者を使うことをすすめる。
10月4日:A.G.スキートニナが来て、『賭博者』の口述を始める。
10月5-29日:毎日12時から4時まで口述する。
10月31日:『賭博者』完成と清書。
11月3日:A.G.スキートニナと母親を初めて訪ねる。
11月6日:二度目のスキートニナ家訪問。
11月8日:日中、A.G.スキートニナに結婚を申し込む。
11月-12月:週に3,4度、『罪と罰』の終編をA.G.スキートニナに口述する。

1867年(46歳)ペテルブルグ 4月からドレスデン、バーデン・バーデン、ジュネーブ
2月:(結婚式後)ドストエフスキー夫妻がヴォズネセンスキー大通りシルメル持ち家に落ち着く。継子パーヴェルと同居。
2月26日:妻の姉M.G.スワトコフスカヤの家で、二度てんかんを起こす。
4月14日:妻と外国に出発。外国滞在4年有余。妻は「日記」をつけ始める。漂泊の行路。ベルリン、ドレスデン、ホンブルグ、バーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーヴ、サクソン・レ・バン、ヴェヴェー、ミラノ、フィレンツェ、ボローニア、ヴェネチア、プラハ、ドレスデン、ヴィスバーデン、帰国。
注:外国滞在の1年目1867年4月〜12月に関しては『 アンナの日記』(アンナ・ドストエーフスカヤ 著  木下豊房 訳 河出書房新社 1979)に詳しい記録がある。 
4月19日:ドレスデン着。一流ホテルに落ち着く。王立美術館に行く。ラファエルの「聖母」とホルバインの「聖母」を観る。
4月20日:ホテルから家具付き貸家に移る。
4月23日:スースロワに手紙。結婚と創作について。「書簡」
4月27日:妻がスースロワからの手紙を読み驚く。「日記」
5月4日:後3時ごろ、ルーレットをするために、妻を説得してドレスデンに残し、単身ホンブルグに向かう。夫宛A.P.スースロワの手紙を妻が受け取る。
5月5日:午前11時半、妻に手紙。ホンブルグ到着のこと、勝って債権者に清算できそう。午後からルーレットをはじめ、正餐までに16インペリアール(240ルーブリ)負ける。食後、負けを取り返した上、100グルデン(グルデンはドイツの銀貨)勝つ。
5月6日:妻がホンブルグからの夫の手紙を受け取る。午前10時、妻に手紙。賭博について。10時間賭けて惨敗。正午、郵便局に歩いていく。
5月7日:午前10時、妻に手紙。賭博について。惨敗。時計を鎖共65グルデンで売る(一週間以内なら買い戻せるという条件で)。この金で負けを取り戻す。
5月8日:午前10時、妻に手紙。昨日の賭博と別離の辛さを訴える。午前中時計を買い戻す。妻の便りがなく落胆する。惨敗。時計を質に入れてその金もする。
5月9日:午前10時、妻に手紙。至急20インペリアール(300ルーブリ)送金を頼む。カトコフに500ルーブリ借りる肚。妻に手紙を出した帰り、なけなしの10グルテンを賭け1時間で300グルテン勝つ。やがてことごとくする。
5月10日:午前10時、妻に手紙。賭博の原理について。妻から手紙が来る。(現存せず)風邪をひき、夜は「構わずそこらのものにくるまって」宿に閉じこもる。妻が、敗けて無一文のため送金頼むという手紙に接する。
5月11日:午前10時と11時半、妻に手紙を書く。寒いので出発を延ばすかもしれない。妻の送金を受け取って賭け。最後の1クレイツェル(100分の1グルデン)まですってしまう。妻がホンブルグにもっと留まりたいという夫の手紙を受け取る。
5月12日:妻に手紙。送金の分も負けた、(ホンブルグでの負けは合計1000フラン以上)帰りの汽車賃10インペリアール(150ルーブリ)至急送れ。
5月13日:妻に手紙。『罪と罰』を凌ぐほどの新作にかかりたい。
5月14日:午前10時、今日発つ予定と妻に手紙。
5月15日:月曜日、午後6時、ホンブンルグからドレスデンに帰る。A.P.スースロワの手紙を受け取る。
5月17日:午前中、カトコフ宛手紙書く。(この手紙は現存しない。おそらくは前借りを頼んだのであろう。8月16日付マイコフ宛の手紙に500ルーブリの送金を依頼したと書いている。)
6月22日:バーデンに着く。
6月23,24日:ルーレット(翌日会ったゴンチャロフの話では、この夜ルーレットをしているドストエフスキーをツルゲーネフは見ていた。)
6月25日:ルーレット。夕刻、妻と療養所の帰り、街で当地に来てまもないI.A.ゴンチャロフに会う(ツルゲーネフが来ているという)(ツルゲーネフは61年以来、ここの保養地に来ており、オペラ歌手ポリーナ・ヴィアルドの別荘の隣りに家まで建てていた。ヨーロッパの有名人の出入りが絶えなかった。)
6月26日:ルーレット
6月27日:ルーレット
6月28日:午前中ツルゲーネフを訪ねる。ロシアと西欧に対する理想の違いから衝突する。日中と夜、ルーレット。
6月29日:ツルゲーネフが午前10時にドストエフスキーの宿を訪ね、会わずに名刺を置いて帰る。ルーレット。
6月30日:ルーレット。てんかん小発作。カトコフに手紙出す。ルーレットで勝つ。このときゴンチャロフに会う。(「ゴンチャロフはこのことを必ずツルゲーネフに話すと思う。ツルゲーネフに50ターレルとか100ターレルとかの借りがあるのだから、ここを発つ前に返済できたら、どんなに私はうれしいことか」「夫人の日記」)
7月1日:『モスクワ報知』にアレクサンドル二世暗殺未遂事件の解説が出る。
7月2日:ルーレット。書店で(ツルゲーネフの絶賛を聞いて)『ボヴァリー夫人』を買う。
7月3日:ルーレット。以後、連日ルーレットに耽る。
7月6日:100ターレル借りに2度ゴンチャロフを訪ねるが不在。
7月7日:手回り品を質に入れて、ルーレットに耽る。
7月8日:また持ち物を質に入れる。
7月9日:妻の母、A.N.スニートキナに手紙。ゴンチャロフに金貨3枚借りる。
7月10日:残った最後の金をする。
7月11日:持ち物を質に入れてルーレット
7月12日:二人の衣服を売込みに質屋を廻る。夕刻古城を散歩する。
7月13日:二人で質屋を廻る。
7月14日:二人で持ち物を質屋に売る。ゴンチャロフを訪ねる。ゴンチャロフは、自分もひどく負けたのでもう貸せないという。
7月15日:ルーレット。古城散歩。
7月16日:「ベリンスキー論」の粗筋を立てる。
7月21日:妻の母、A.N.スニートキナからの送金を受け取る。またルーレット。
7月22日:ルーレット、日中てんかんを起こす。
7月23-26日:連日ルーレットに耽る。
7月25日:ベートヴェンの『エグモント』序曲、モーツアルトの『ドン・ジョバンニ』序曲を聞く。
7月末ごろ:無一文となり、残りの手回り品を質に入れる。
8月1日:妻の弟I.G.スニートキンから送ってきた100ルーブリを受け取りるとすぐ、またルーレットを始める。夜発作。
8月2-3日:ルーレット。
8月4-10日:ルーレット。
8月11日:午後2時5分、妻とバーデンを後にしてジュネーブに向かう。夜8時ごろバーゼル着。
8月12日:妻とバーゼル美術館でホルバインの「墓の中のキリスト」に深く感動する。
8月13日:ジュネーブ着。貸家を決める。
8月-12月:オガリョフ、バクーニンらと会う。ローザンヌでインターナショナル第2大会開催。
8月29日:6時10分、てんかん。前回より強し。オガリョフに会う。
8月30日:ジュネーヴ第一回自由平和連盟国際会議の第3日目。妻と約2時間傍聴する。帰宅してから、ドストエフスキーにきた手紙(夫人は差出人をスースロワと疑った)をめぐって夫婦喧嘩をする。
8月31日:妻は前日の手紙の差出人を捜すが判らず、和解する。妻と街に出てオガリョフに会う。
9月2日:てんかんか卒中の予感におののく、送金の都合をつけるというマイコフの手紙を受け取る。
9月12日:午前4時35分てんかん。十時半まで寝る。
9月23日:午前中ジュネーヴを発って、午後六時サクソン・レ・バンに着く。妻に手紙。夜十時ごろまでにルーレットで1300フラン勝つ。
9月24日:午後7時半、前夜勝った分をみんなする。
9月26日:てんかん、強いほう。
9月27日:S.D.ヤノフスキー宛手紙。カトコフ宛手紙。(現存せず)
10月3日:バーデンの高利貸モンペールに手紙。質入れした耳環とブローチを後1月待ってほしい。
10月5日:[ドストエフスキー賭博のためサクソン・レ・バンhe
旅行](「日記」)
10月7日:[3回の負けですってんてんになって帰ってくる。](「日記」)
10月8日:[夜中の2時10分、夫人が発作を聞きつける。](「日記」)
10月9-11日:[質屋通い。](「日記」)
10月9日:S.D.ヤノフスキーの手紙。頼まれた金(100ルーブリ)を送る。
10月12日:妻の母から10ルーブリ受け取る。
10月-11月:烈しい旋風(北風)が吹き始め、空模様が日に2度も3度も変わる。てんかんの発作が頻繁におこる。
10月5-6日:午前3時てんかん発作。
11月2日:《ロシア報知》から手紙と金(345フラン)を受け取る。
11月3日:質入れした指環を引き出す。
11月5日:4時15分前、サクソン・レ・バンに着き、カジノに駆け付ける。110フラン勝つ。帰宿して妻の手紙を書く。夜8時以降また賭博。午後5時と8時の間。妻に手紙。
11月6日:午後3時。妻に惨敗の手紙。外套と指環を質に入れてそれもする。ホテルの払いにするから50フラン送金頼む。
11月11日:カトコフ宛手紙(不明)
11月13日:指環質入れ。
11月15日:見廻り品質入れ。
11月16日:オガリョフに会い、300フラン頼む。
11月18日:オガリョフが60フラン貸してくれる。2週間後の返済を約束する。
12月3日:てんかん発作。家主に下宿をよそに求めることを迫られる。
12月6日:『白痴』の最終プランによって稿を起こす。

1868年(47歳)ヴェヴェー、イタリア
2月半ば:ちょっとの間に2度発作。二度目は2月20日で強度。
2月22日:午前5時、長女ソフィアが生まれる。
4月4日:午前6時半、サクソン・レ・バンより妻に手紙。到着後30分で完敗する。100フラン送金を頼む。夜7時、指輪を20フランで質に入れる。夜8時、再びルーレット。完敗、夜9時半、妻に手紙。「賭博の負け。カトコフに『白痴』の勘定で送金してもらう考え、ヴェヴェーに移り、イタリアを周遊して帰国する予定、長編の成功に望みを託する。」
4月7日:てんかん(強)
5月12日:昼間、娘ソフィヤ死亡する。
5月14日:午後4時、プレン・パレ墓地に埋葬する。
5月末:ジュネーブよりヴェヴェーに移住する。『白痴』の創作を続ける。
9月上旬:ヴェヴェーよりシンプロン峠を越えてミラノに行き落ち着く。
11月:冬を過ごしにフィレンツェにいく。

1869年(48歳)イタリア
1月5日:フィレンツェで『白痴』を脱稿する。
7月下旬:妻と姑とフィレンツェから、ヴェネチア、ウィーンを旅してプラハに向かう。
7月29日:プラハの路上で発作を起こす。貸家の都合がつかず、ドレスデンに足を延ばす、
8月初め:ドレスデン着。
8月7日:発作
8月23日:発作。胸部激痛。
9月2日:発作
9月14日:娘リュボフィが生まれる。
9月18日:発作
11月26日:イワーノフ殺しが発覚する。
1869年末:役人フォン=ゾーンがモスクワの娼家で殺される。

1870年(49歳)ドレスデン
1月1日:強発作(3か月と10日の中断の後に。発作の間隔がこれほど開いたことなし)
1月7日:午前6時ごろ発作。A.I.ゲルツェンがパリで死亡する。
1月29日:午前3時入り口の間きわめて激しい発作。目覚めていて・・・・「日誌」
2月4日:『悪霊』の新プランのノート。「長編小説のイデー。小説家(作家)年老いたせいもあるが、なにしろ発作ひどく、ために才能鈍くなり、やがて貧困に陥る」
2月11日:5時10分日の出前に夢の中で発作「日誌」
2月12日:マイコフに手紙。金のこと、《黎明》のこと。
2月26日:N.N.ストラーホフに手紙。『永遠の夫』称揚の礼、《黎明》の1500ルーブリ前払いの小説申し込む。
7月1日:朝夢の中で発作「日誌」
7月13日:朝夢の中で発作
7月16日:午前8時発作
7月26日:午前6時発作
8月21日:朝発作
8月28日:朝発作
9月28日:朝発作
10月4日:新居で早朝発作
10月10日:朝夢の中で発作
10月14日:日誌に書付(健康と天候)

1871年(50歳)ドレスデン、ペテルブルグ
3月31日:夜、強いてんかんの発作
4月16日以前:ルーレットをしにヴィスバーデンに出かけて、一週間滞在する。
4月16日:正午すぎ、ヴィスバーデンで妻の手紙を受け取り、返事を書いて2時半に郵便局に出しに行く。
4時に金を受け取ってルーレットをしにいく。夜中。妻に手紙。妻の送金30ターレルをする。今一度30ターレルを頼む。もうこれで賭博をしないと誓う。
(注)
4月17日:午後4時就寝。9時に妻宛手紙を郵便局に持っていく。夕方ごろまでに。妻に手紙。帰国の費用はマイコフとカトコフとI.G.スニートキンを当てにしている。
7月8日:外国より4年ぶりで4年ぶりでペテルブルグに還る。

:この手紙は米川正夫訳「ドストエーフスキイ全集第17巻(書簡中)に収録されている。 また、アンナ夫人が「回想」の中で次のように書いている。 (『回想のドストエフスキー』1925 アンナ・ドストエフスカヤ 著 松下裕 訳 みすず書房 1999 上巻P.234)

夫が1871年4月28日(新暦)によこした手紙がある。「大きな事件がわたしの身におこった。ほとんど十年来(というより、兄が亡くなって、突然借金で首がまわらなくなって以来)わたしを苦しめてきたいまわしい幻想が消えてしまったのだ。わたしはたえずひと山あてることばかりを夢みてきた。真剣に、熱烈に夢みてきた。だが、いまやすべては終わった!今度こそほんとうに最後だったのだよ。信じてくれるだろうか、アーニャ。もう今では両手はいましめを解かれてしまった。わたしは賭博につながれていたのだ。今はもう仕事のことだけを考えて、これまでのように幾晩も幾晩も勝負事を夢みるようなことはけっしてしない。

もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐには信ずるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守られためしはなかったのだ。ところが、この幸福は現実のものとなった。今度こそ彼がルーレットで遊んだほんとうに最後だった。その後夫は(1874,75,76,79)と何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏み入れようとはしなかった。あれからまもなくドイツではルーレット賭博が禁止されたのは事実だが、スパーやサクソンやモンテ・カルロではまだおこなわれていた。行こうにも遠すぎたのかもしれないが、それよりも、もう遊びに魅力を感じなかったのだ。ルーレットで勝とうという夫のこの「幻想」は魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった。


参考:『賭博者』に想う 病的賭博と嗜癖