ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.203
 発行:2024.4.10



第321回4月読書会のお知らせ

月 日 : 2024年4月20日(土) 
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『夏象冬記』&『地下室の手記』
報告者 :  藤倉孝純さん
会場費 : 1000円(学生500円)



全作品を読む会6月読書会

日時:2024年6月29日(土)14:00~16:45
会場:東京芸術劇場小5会議室  
作品:未定

大阪読書会(第79回)
日時:2024年5月29日(水)14:00~16:00 
会場:東大阪ローカル記者クラブ 
作品:『虐げられた人々』第4編
連絡:080-3854-5101(小野




2024年4月20日 読書会 


『夏象冬記』について

報告者:藤倉孝純さん
藤倉孝純 著『魂の語り部 ドストエフスキ―』 作品社 2023.12.8
第四章:西洋との別れ ─『夏象冬記』─



資 料1


年 譜
 

『夏象冬記』(1863)誕生まで
引用:米川正夫「ドストエーフスキイ研究」(『ドストエーフスキイ全集別巻』付録)

1861年(40歳)
1月『時代』誌創刊。『虐げられし人々』を7月号まで連載。
2月19日 農奴解放令発布。
4月 『死の家の記録』を『時代』に再び諸言より連載。断続して翌年まで。
9月 ドブロリューボフ『現代人』9月号に『打ちのめされた人々』(『虐げられし人々』論)発表。『時代』誌にアポリナーヤ・スースロヴァの短編掲載。
12月 ツルゲーネフ、『死の家の記録』を賞讃。

1862年(41歳)
1月 1月号より『死の家の記録』第二部連載開始。
5月16日 ペテルブルグの大火。後年『悪霊』に生かされる。
6月 7日 最初の外国旅行に出立。
6月15日 パリ着。
6月27日 ロンドンに出発。
7月 4日 ゲルツェンを訪問。ロンドンでバクーニンと知己になる。その後ケルンを経てスイスイタリア等歴訪。
8月末 ペテルブルグに帰還。
12月 『時代』11月号に『いやな話』を発表。アポリナーリヤ・スースロヴァとの交際深まる。

1863年(42歳)

1月 シチェドリン『現代人』に匿名の文章を発表。ドストエーフスキイと論争になる。
2月~3月 『夏象冬記』を『時代』2月号、3月号に掲載。
3月~4月 シチェドリンとの論争継続。
5月 ストラーホフの論文「宿命的な問題」で『時代』は発禁処分となる。
8月 アポリナーヤ・スースロヴァを伴い再度の外遊。一人下車したヴィースバーデンの賭場で5千フラン儲ける。このとき以来、賭博熱にとらわれる。





資 料 2

『夏象冬記』『地下室の手記』関連書籍(編集室が恣意的に選択したものです)

「ドストエフスキー『地下室の手記』を読む」リチャード・ピース 著 池田和彦 訳 高橋誠一郎 編 のべる出版 2006 
『悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ』 シェストフ 著 近田友一 訳 現代思潮社 1982
『ドストエフスキーと福沢諭吉 隕ちた「苦艾』の星』 芦川進一 著 河合おんぱろす 特別号 河合文化教育研究所 1997
『ゲルツェンとチェルヌイシェフスキー』石川郁男 著 未来社 1988ェフスキー ロシア急進主義の世代論争』
『ドストエフスキー 闇からの啓示』 森和朗 著 中央公論社 1993
『風呂場で読むドストエフスキー』 長屋恵一 著 響文社 2008
『過剰な人』斎藤孝 著 新潮社 2004





資 料 3

『地下生活者の手記』第二部「べた雪の連想から」の冒頭に、題銘の形で引用されたネクラーソフの詩
 
引用:米川正夫「ドストエーフスキイ研究」第9章(『ドストエーフスキイ全集 別巻』)

『地下生活者の手記』第二部「べた雪の連想から」の冒頭に、題銘の形で引用されたネクラーソフの詩の一部は、深長な意味を有する。わたしは全集の中でドストエーフスキイの引用した部分のみ訳したが、今はその全部をここに訳載する必要を感ずる(米川正夫)



わたしが迷いの闇の中から
火のごとき信念にみちた言葉で
その淪落の魂をひきだしたとき
お前は深い悩みに充ちて
双の手をもみしだきつつ
身を囲んでいる悪趣を呪った
そうして追憶の鞭をふるって
忘れやすき良心を罰しつつ
お前は過ぎこし方の身の上を
残らずわたしに語ってくれた

と、ふいに両手で顔を蔽って
恥と恐れにやるせなく
お前はわっと泣きだした
悩みもだえ身をふるわして

信じておくれ、わたしは多少、同情の念をいだきながら
貧るようにお前の言葉を、一つ残らず捕らえていた・・・・・
すっかりわかった、不幸な女!
わたしはすっかりゆるした、何もかも忘れつくした

どうしてお前は毎時毎分、心の中で
疑いに責められていたのだ
意味もない大衆のいうことなどに
お前はどうして服従したのか?

空虚でしかもうそつきの、大衆などを信じるな
自分の疑いなどは、忘れてしまえ
病的におびえやすい心の中に
身を削るような考えを秘めないがよい!

いたずらに、なんのためにもならぬことで
わが胸に蛇を暖めないがよい
わたしの家にはばかることなく悪びれず入っておいで
お前は立派な女あるじだ!




資 料 4


『夏象冬記』から『地下生活者の手記』へ 


1.外国旅行におけるドストエフスキーの関心事
引用:ドリーニン編 水野忠夫 訳『ドストエフスキー 同時代人の回想』 河出書房新社
 


アレクサンドル・ウランゲリ
21歳の若さで地方検事としてシベリヤのセミパラチンスクに赴任し、その地で兵役についていたドストエフスキーと知り合い親密になった。

ドストエフスキーにはいつも驚かされるのだが、かれはその当時、自然の風景には無関心で、それに感動したり、興奮したりすることは少しもなかった。かれはもっぱら人間の解明に没頭していて、その長所だとか、弱点だとか、苦悩にしか興味がなかったのである。それ以外のものはなんであれ、かれにとっては重要なものではなかった。ドストエフスキーは偉大な解剖学者の腕前をもって、人間の精神のもつきわめて微妙な問題に、格別な注意を払っていたのであった。( p.144)


ニコライ・ストラホフ
自然科学、哲学、文学など広範な分野で活躍した批評家。1960年、ドストエフスーがシベリヤから戻ってまもなくミリュコフ家で開催されていた火曜会で定期的に顔を会わせるようになった。「時代」や「世紀」の発行で緊密な協力関係を持った。『冬に記す夏の印象』の海外旅行に同行した。

ドストエフスキーはあまりよい旅行者とはいえなかった。なぜなら、自然の景色にも、歴史的な記念碑にも、芸術作品にも、もっとも著名なものをのぞいてはとりたてて興味もはらわなかったからである。かれの関心のすべては人々に向けられていて、もっぱら人々の気質や性格、それに街の生活の一般的な印象だけをすばやく把握してしまうのであった。ガイドブックをたよりに、さまざまな名所を見学して歩くといったおきまりのやりかたなんか軽蔑している、とかれは熱っぽく説明しはじめたものだ。じっさい、わたしたちは、名所旧跡といったたぐいのものはなにも見ず、なるべく人の多いところを散歩しながら話し合っていただけだった。・・・・・『冬に記す夏の印象』から読者は外国でのかれの関心が、ほかと同様、どこに向けられていたのかをなによりもはっきり知ることだろう。かれの関心をよびさましていたものは人々であって、もっぱら人々だけが、人々の精神構造と、生活や感情や思考の形態だけがかれの興味の対象となったのである。(p.180-182)


ドストエフスキーのN・N・ストラーホフ宛の手紙 
(1862年6月26日)より要略

私が訪ねたのは、ベルリン、ドレスデン、ヴィスバーデン、バーデンバーデン、ケルン、パリ、ロンドン、リュツェルン、ジュネーヴ、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチア、ウィーン、そのうちのいくつかは2度ずつ行きました。これだけの町を、なんと、ちょうど2ヶ月半で回ったのです!・・・・・パリは、退屈極まりない都会です。この都会には、実際あまりに見事すぎると言いたくなるものが大和ありますが、それがなかったら、まったくの話、退屈のあまり死んでしまいそうです!





2.「水晶宮」をめぐって



チェルヌイシェーフスキイの『何をなすべきか』
引用:米川正夫「ドストエーフスキイ研究」第9章(『ドストエーフスキイ全集 別巻』)

『地下生活者の手記』はチェルヌイシェーフスキイの『何をなすべきか』に対する反駁である。女主人公のヴェーラ・パーブロヴナは、こんなふうに自分の空想を語っている。

その建物はね、今のところまだ一つもないようなすばらしく大きな建物なのよ。それは畑や、草場や、庭や、森の間にあってね・・・・・庭には、レモンや、オレンジや、桃や、杏の樹があるの、でも、その建物は、──なんだと思って、どんな建築だかわかって?今のところ、そんな建築はないわ。鉄とガラス、ただそれだけなの。いえ、ただそれだけじゃないのよ。それは建物の表側だけ、外の壁だけでね、内側はもうほんとうの家なの、とてもとても大きな家なの。その家はね、鉄とガラスの建物で、ケースのように包まれているのよ。家を包んでいるそのケースには、どの階にも広い階段があってね・・・・・つまり水晶の家なんだわ・・・・一人一人のひとのためにとって、永遠の春と夏、永遠の喜びなの・・・・・だれもかれもが、歌い楽しんでいるの。 (p.264)


『夏象冬記』
(引用:米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』第5巻)

水晶宮、万国博覧会・・・・・さよう博覧会は瞠目すべきものである。諸君は全世界からやって来たこれら無数の人々を、一つの群れに統一した、恐ろしい力を感じられるであろう。諸君は巨大な思想を意識されるのに相違ない。そこには何かが到達された、そこには勝利がある、凱歌がある、と感じられるだろう。それどころか、もう何か怖いような気がし始めるに相違ない。諸君がいかに独立不羈であろうとも、なぜか恐ろしくなって来るだろう。「ひょっと、これが真に到達された理想ではなかろうか?」と諸君は考える。「これでもう最後ではあるまいか?これこそもうほんとうに《一つになった羊の群》ではあるまいか?まったくこれを真実と受け取って、いよいよだまってしまうようなことになるのではあるまいか?・・・・・これは何か旧約聖書めいた光景であり、何かバビロンの伝説のようでもあり、まのあたり成就された黙示禄の予言のようでもある。この印象に負けないように、釣り込まれないようにし、事実を跪拝せず、バールを神様あつかいにしないためには、つまり現存せるものをおのれの理想あつかいにしないためには、長い世紀にわたる抵抗と否定の精神がどれだけいるかもしれない、とこう諸君は感じられるだろう・・・・・(p.381)


『地下生活者の手記』
(引用:米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』第5巻)

・・・・・これはみんな諸君の言葉を代弁しているのだ──数学的な正確さで計算された据え膳式の新しい経済関係がはじまって、問題は瞬時にして、一切合切消滅してしまう。それというのも、すべての問題に対するレディーメードの答えをみつけることができるからである。その時は、水晶の宮殿が建立されるわけである。(p.22-23)

私は確信しているが、人間は本当の苦痛、いい換えれば、破壊と混沌とを決して拒もうとしないものである。苦痛──これこそ実に自意識の唯一の原因なのだ。わたしはこの手記の初めで、自意識は人間にとって最大不幸であると申し上げたけれど、人間がその不幸を愛して、いかなる満足とも見替えようとしないのを、わたしはちゃんと知っている。自意識というものは、たとえば、二二が四よりも無限に優れているのだ。二二が四のあとでは、もういうまでもなく何一つすることがなくなるばかりか、知ることさえ尽きてしまうのだ。(p.31)

諸君は永遠に不壊の水晶宮を信じていられる。つまり、内証で舌を出して見せたり、袖のかげでそっと赤んべをしたり、そんな真似のできない建物を信じていられる。ところで、わたしはそれが水晶でできていて、永久に不壊のものであり、おまけで内証で舌を出して見せることもできないので、そのためにこの建物を恐れるのかもしれない。(p.31)





3.米川正夫:『夏象冬記』」と『地下生活者の手記』


引用:米川正夫「ドストエーフスキイ研究」第9章(『ドストエーフスキイ全集 別巻』)


・ドストエーフスキイは『夏印冬記』の中で、西洋の没落を、パリとロンドンの二都市に集中しながら、彼独特の逞しい力をもって、浮き彫りにしようと試みた。彼は西洋の退廃の徴候を、フランスにおいては、生活の享楽という形の凝集された小市民性、すなわちブルジョワ根性、イギリスにおいては、悪魔的といっていいほど容赦のない資本主義形態の完成に認めたのである。『夏印冬記』の叙述によると、この二つの国の首都は地獄と極楽である。いうまでもなく、前者はロンドン、後者はパリである。(p.260)

・・・・・・要点は、ドストエーフスキイがフランスにおいては、プロレタリヤもブルジョワたらんとしていると結論したことと、イギリスでは水晶宮、すなわち世界博覧会に異常な印象を受けたことである。(p.260)

・ドストエーフスキイが、資本主義の階級の理想である水晶宮なる言葉を、二年後に書かれた『地下生活者の手記』の中で、社会主義国家の象徴として用いたことは、きわめて興味深い。要するにプロレタリヤであると、ブルジョワであるとにかかわらず、人間が物欲につかれている間は、水晶宮を究極の理想としてあがめざるを得ないという意味なのである。(p.262)

・『地下生活者の手記』はある程度、『夏象冬記』によって予言されている。『夏象冬記』では、社会生活を合理的に組織しようとするあらゆる試みにたいして論戦をおこない、理性や悟性によってエゴイズムと個人主義を克服することは不可能である、なぜならば、理性こそがエゴイズムとシニシズムのはじまりだからだ、と言っている。・・・・・『地下生活者の手記』の中では、エゴイズムおよび個人主義と同一視されている、自由な、無神論的な人間理性にたいする、はなはだしく反動的な闘争が作品の内容を決定している。(p.265-266)

・ドストエーフスキイは水晶宮を蹴とばすと同時に、人道主義がはたしてどれだけの力をもっているかを、ためしてみたかったのである(p.270)





4.イワン・カラマーゾフ


「俺はヨーロッパに行ってきたいんだ、アリョーシャ。ここから出かけるよ。しょせん行きつく先は墓場だってことはわかっているけど、しかし何より一番貴重な墓場だからな、そうなんだよ!」
(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳)




2024年2月読書会報告
 2月17日(土)

13名の参加がありました。




連 載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像


(第112回)小林秀雄「ドストエフスキイ・ノオト」とベルクソン哲学 ③  
 - 「「罪と罰」についてⅠ」(1934.s.9)から「Ⅱ」(1948.s.23)へ-
    
福井勝也


今回は、前号最後辺りの部分を振り返ることから始めようと思う。前回は、シェストフ『悲劇の哲学』邦訳(s.9)に触発された彼の「地下室論」が、当時左翼の「転向問題」に絡みドストエフスキーの日本的受容に影響を及ぼした昭和10年前後の歴史事実に触れた。

そして一見その中心にいて、「ブーム」を牽引したかに見える小林が、実はシェストフの論法を否定しつつ独自の「地下室論」(s.10.年2月~s.11年4月)を展開したことに触れた。当方は、その前提にベルクソン哲学と現代物理学への小林の関心を読み取ることになった。

但し、小林の「ドストエフスキイ・ノオト」(作品論)が書かれた経緯を正確に辿れば、小林は「地下室論」に先行して「「罪と罰」についてⅠ」(s.9年2月~7月)と「「白痴」についてⅠ」(s.9年9月~ s.10年7月)をその前年から発表していた。その内容については、戦後同じテーマで再論した二論稿には及ばないとの一般的理解がある。それは、小林批評文学の頂点とも目される戦後二作品と比較するに元々の無理があると思うが、むしろそこには、敗戦に至る世界大戦が挟まったこの時期小林の作家的成熟の過程を感得すべきか。

しかし今はそんな議論よりも、「「罪と罰」についてⅠ」連載三回目(s.9年7月、ちなみの直前4月、小林は「レオ・シェストフの悲劇の哲学」を発表)文末に「付記」された文章に注目したい。この時期小林の率直な思いが溢れた貴重な言葉に聞こえるからだ。

「‥‥ 今僕にはドストエフスキイといふ人物で自分の批評能力をためしてみる事だけで一杯なのだ。僕は流行り出したから書きだしたのでもないし、僕が書き出したから流行りだしたなどとは猶更おもつてはゐない。又そんな事は評家の良心にかけて思ふ事ではないのだ。/僕が彼の作品に就いて書きたいと思ひ始めたのはずつと以前の事だが、近頃になつてやつと自分のものらしい意見を見つけ出す事が出来た。それと同時にこの自分のものらしい意見なるものが甚だ漠然としたもので、到底綜合的な論文を書くに堪へる様な確固たるものでない事もよく知つた。そこでノオトといふ自由な形式で出来るだけ個々の作品に直かにぶつかつて行く方法を撰んだのだ。謎は次から次に出て来る。僕は今仕事に手をつけたばかりなのだ。‥‥。」 
(『ドストエフスキイ全論考』講談社s.56年、郡司勝義氏「解題」からの一部引用p.523、太字は筆者)

いかにも新進批評家の意気軒昂とした肉声を聞く思いがする。あたかも若い猟師が目指す獲物を前にして武者震いする叫び声が聞こえて来るようだ。その事は無論小林にとって、作家として本格的に論じる批評対象と巡り合う喜びに因った。その対象こそが、ロシア19世紀の作家ドストエフスキーであった。またそのことは当然に、対象作家の肝心な作品に真実に巡り合うことでもあって、それが『罪と罰』(1866)との邂逅でもあったのだ。

そしてその声の背景には未だ漠然としているが、作家の作品を論ずるための「自分のものらしい意見を見つけ出す事が出来た」手応えがあった。かつそこには、それを表現するための手立て(「ノオトといふ自由な形式」)の発見も伴った。おそらく、小林が発見した「ノオトといふ自由な形式」とは、小林のドストエフスキーの論述に不可欠なスタイルだった。それくらいに、その問いと文体(=語り口)が一体になった「告白の技術」としてあった。

それでは、この時期小林が見つけ出す事が出来た「自分のものらしい意見」とは何であったろう。それが語られているのが、まさにこの時期の「「罪と罰」についてⅠ」(1934)に違いない。その意味では、小林が掴んだドストエフスキー文学の急所がここに正確に表現されている。その掴み所は、これ以降最後まで一貫して戦後になっても変わらなかった。

「「罪と罰」とは何処にも罪は犯されていない、誰にも罰は当たっていない。罪と罰とは作者の取り扱った問題というよりも、この長編の結末に提出されている大きな疑問である。罪とは何か、罰とは何か、と。この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれているものは、人間の孤独というものだ。「鋏か何かで自分というものを一切の人一切の物から、ぶつりと切りはなした」様な孤独、並びにその憂愁、「その中には格別人を刺す様なものや、人を腐食させるようなものはなかった。が、そこからは、或る不断にして悠久な気が吹いて来て、この冷い、死のような憂愁が、無限に渉る憂愁のように感ぜられ、一アルシンの土地にも一種の永久が予感される」、その特殊な憂愁である。(中略)/ラスコオリニコフ的孤独の問題は、ただ自意識の過剰が性格を紛失させるという命題に終わってはいない。この命題を深く体現した同時代の自己解剖家アミエルの日記(フランス系スイスの哲学者、文学者。ドストエフスキーと生没年が同じ。死後出版の30余年の「日記」は、繊細な自己分析と厭世的な不安にみちている。*筆者注)を、もしドストエフスキイが読んだなら、バイロンの表現したものは何一つない、という言葉(ドストエフスキー自身がラスコオリニコフ的孤独の精髄としてこの同じ言葉を語っていることを、小林は、この少し前に書いている。**筆者注)につづけて、アミエルの表現したものは何一つないと言ったに相違ないと僕は思う。アミエルの終わった処がラスコオリニコフの発端なのだ。アミエルは孤独を守ったが、ラスコオリニコフは孤独を曝(さら)したのだ。両人の孤独が殆ど非人間的な弱さという処で酷似していながら、全く別種であるのはこれに依る。ラスコオリニコフは自分の鋏でぶっつりと一切の人一切の物から切り離したが、切り離した自分にバイロン的自信を与えないのは無論の事だが、又、アミエル的衰弱を意識しもしないのである。あらゆる意味で、彼は自分の孤独を労わる術を知らない。たしかに鋏でぶっつりとはやったが現実は彼を傷つけるのを依然として止めないのだ。/事件の空想性、ここにこの小説の最大の観念がある、と前に僕は書いた。ラスコオリニコフは事件に参加したのではない、ただ事件が彼に絡んだのだ。殺人の経験によって彼は理論の果敢なさを悟ったか。個人の意志の無力を悟ったか。併し感情も意志も思想も彼を支えるに足りぬ、彼は人間というよりも寧ろ感受性の一つの場所と化している、そういうラスコオリニコフの殺人の前の姿を僕等は読んだ筈ではないか。(中略)/再び言う、ラスコオリニコフの孤独は孤高者の孤独ではない。彼は自分の孤独をどういう意味ででも観念的に限定してはいないのである。彼にとって孤独とは「唖で聾なある精神」だ。彼は孤独を抱いてうろつく。そして現実が傍若無人にこの中を横行するに委せるのだ。彼はただこれに耐え忍ぶ。「ある特殊な憂愁」は、彼の孤独の唯一の正当な表現なのである。/ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただろうか。来るべき「白痴」はこの憂愁の一段と凶暴な純化であった。ムイシュキンはスイスから還ったのではない、シベリヤから還ったのである。
(「「罪と罰」についてⅠ」p.68-71、『小林秀雄全作品5』所収、太字は筆者)

結局、実質的な小林最初の「ドストエフスキイ・ノオト」、そのラスト部分の文章をほぼ引用する仕儀になってしまった。何も名文だと思ったわけではない。ここに「自分のものらしい意見」が骨格を現していることに深く感じ入ったからである。そして小林自身それが、「甚だ漠然としたもので、到底綜合的な論文を書くに堪へる様な確固たるものでない事もよく知つ」ていて、それが結果的に戦後の「「罪と罰」についてⅡ」(1948)へと繋がった成行に思い致す時、この文章が持つ潜性的エネルギーの凄さを感じるしかないからだ。

そのことは結局、「「罪と罰」について」の「ⅠとⅡ」の文章の差異を明らかにすることになるはずだと思うが、ここでは未だ詳らかにしない。但し、本論の主題から一言するならば、この戦争を跨がる時期小林が身を曝した出来事が、ベルグソン体験の深まりとなって経験されたのだと感じる。確かに戦後も長く書き継がれた「ドストエフスキイ・ノオト」が最後『「白痴」について』(1964)という単行本(角川書店刊)になって終わるまで、その体験も継続し、それに平行してドストエフスキー文学の探究も深まったように思う。

小林がベルクソン論連載(1958~1963)を中断したのは、「白痴論」の単行本を上梓する前年(1963)6月、ソ連作家同盟の招きでソビエト旅行(文豪の墓参を含む)に出かけるタイミングであった。ここでベルクソンとドストエフスキーへの小林の言及が同時に途切れる偶然をどう考えるべきか。上記文章末尾、ラスコオリニコフからムイシュキンへ繋がる一貫した問題の指摘に戻る時、小林のベルクソン体験のドストエフスキー文学への投影が、ここから始まったことに改めて気付かされた。その関係性がこの時点で途切れた時に、両者への関心もやはり一端区切りを付けられたのだった。そもそもその発端では、小林は「ドストエフスキイ・ノオト」に、ベルクソンの哲学の何を投影しようとしたのか。

上記引用の「「罪と罰」についてⅠ」の文章の眼目は、「アミエル」という偶然にドストエフスキーと生没年が同じ、フランス系スイス人哲学的作家の「日記」が紹介されている部分だと思う。アミエルの「日記」と主人公ラスコオリニコフの「小説表現」との差異とは、ドストエフスキーが19世紀の人間が「無性格」であると表現したように(=「地下室人の無名性」)、アミエルの「日記」には、無論バイロン的なものも、アミエル自身に固有なものも表現されていないという指摘だろう。このことを端的に言い直したのが、「アミエルの終わった処がラスコオリニコフの発端なのだ。アミエルは孤独を守ったが、ラスコオリニコフは孤独を曝(さら)したのだ。両人の孤独が殆ど非人間的な弱さという処で酷似していながら、全く別種であるのはこれに依る。」ということになろう。そして小林は、「事件の空想性」という本質にこだわって、「ここにこの小説の最大の観念がある」ことを強調する。そしてさらに「個人の意志の無力を悟ったか。併し感情も意志も思想も彼を支えるに足りぬ、彼は人間というよりも寧ろ感受性の一つの場所と化している」とまで言い切って見せる。

小林がこの「ドストエフスキイ・ノオト」で「自分のものらしい意見を見つけ出す事が出来た」ことの手応えを感じたのは、おそらく、この下線を引いたラスコオリニコフが「人間というよりも寧ろ感受性の一つの場所と化している」その「場所」であったと思う。とすれば、この後に前回の「地下室論」文章を再引用してきても、ほぼおかしくないことに気付くべきだろう。ここでのラスコオリニコフには、その「地下室の男」が先駆的に表現されている。つまり、一歩先んじた小林の洞察が「地下室論」に先行して言葉になった。

但し、やがて小林は、二人の主人公の差異もそれ以上に熟知してゆく。それは、当然二作品の本質的差異の問題であるが、当方が考えているのは、ここにベルクソン体験の小林の深化が更に潜行したと思えることだ。言い換えれば、その過程には、ベルクソン哲学の第一主著『意識の直接与件に関する試論』から第二著書『物質と記憶』の熟読の経緯があって、第三の『創造的進化』を通過して、最終著書『道徳と宗教の二源泉』に至る愛読が「ドストエフスキイ・ノオト」の執筆に寄与したと考えられる。おそらくそこから、戦前戦後の「「罪と罰」について」の「Ⅰ」と「Ⅱ」文章の差異も明らかになるはずだと思う。

とにかくここでは、余り先を急がずに、前回小林「地下室論」文章を再度引用してみようと思う。読者においては、やや唐突に映った感のある文章が、『罪と罰』のラスコオリニコフを投影して読み直すことで新たに見えやすいものと感じて欲しい。

「彼(「地下室人」、注)の意識には枠がない。枠のなかで観念や心理像が運動する光景は、「手記」の何処にも描かれてはいない。読者に明瞭なものは、意識の流れに関する見取図ではない、寧ろ意識の流れる音である。かかる心的状態は意識とか心理とか称するより寧ろ可能的行動と呼ぶ可きものだろう。あらゆる行動の契機を見失うことは、凡ゆる行動が可能だという事に他ならない。「手記」の第二部に描かれた、主人公の数々の行為が、すべて明確な動機を持たぬ、無償の行為である事に注意を要する。

シェストフは、「地下室の手記」を機として、「理性と良識との時代が終り、心理の時代という新しいが時代が始った」という。併し、「地下室の男」の人間像は、心理とか観念とか性格とか行為とかいう様な言葉で捕らえられる凡そ実体的なものから成立してはいない。こういう分析的な言葉が意味を失う様な、生活の中心に彼は立っている。僕は、この作品を神秘化して語るのではない。この作品の率直な印象は、主人公の絶対的身振りだけだと書いた所為なのだ。/ファラディイ、マックスウェルの天才以来、実体的な「物」に代って、機能的な「電磁的場」が物理的世界像の根柢をなすに至ったのは周知の事だが、この物理学者等の認識に何等神秘的なものが含まれていない様に、ドストエフスキイが、人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を立てた事に、何等空想的なものはないのである。」
(《「地下室の手記」と「永遠の良人」》『小林秀雄全作品6』所収p.254~255.)

ここで今回のスペースの最後に触れておきたいことが幾つかある。今回主に取り上げた「「罪と罰」についてⅠ」を発表(1934.2月、『行動』)した全く同じ2月に、「アランの事」という文章(『小林秀雄全作品5』p.72-77所収)を『文学界』に発表していることがまずある。そしてその内容は、小林がこれまで愛読してきたフランスの思想家アランと同じく愛読を重ねたフランスの哲学者ベルクソンを、同じ比重で同列の者として改めて比較紹介することだった。この二人と前文引用の「アミエル」との差異も気になるが、要は「孤独」を「経験」を通した普遍的な思索の言葉で表現しているかという問題にあるのだろう。

さらに小林は、同年9月にポオル・ヴァレリイ著『テスト氏』を翻訳刊行してもいるが、小林の関心はこれも同じところにあったはずだ。そして「地下室人」の言葉もラスコオリニコフの言葉も、この時期小林の同じ関心から聞き取られたものだったと考えられる。

しかしもう一つ、この時期に小林が手がけたのが、やはりこのタイミングに前後して発表された「ドストエフスキイの生活」(1935.1~1937.3『文学界』連載、1939.4序文「歴史について」が付され単行本として出版)であった。ここで問題とされる作家の「生活」とは、ドストエフスキーというロシア19世紀芸術家の「生活」であって、その「作品」が生み出される歴史的土壌であった。つまりドストエフスキーの「作品」とは、小林にとって「曝される孤独」とそれを取り巻く「歴史社会的土壌」の混合物としてあったことになる。

ドストエフスキーにとって、『地下室の手記』(1862)と『罪と罰』(1864)以降の作品を本質的に区分する分水嶺とは、「歴史社会的土壌」の「曝される孤独」への貫入であった。孤独が社会的現実に曝されることになったのである。小説の文体変化(一人称から三人称へ)もそこに由来した。そしてドストエフスキーの小説を読み解くためには、この二種類の分割線を巧みに使い分ける必要が生じた。そもそも小林が作家を論じるにあたり、その「生活」(伝記)と「作品」(ノオト)とに最初に分けた意味も元々そこからもたらされた。

ドストエフスキーにとって、『罪と罰』が画期的作品である意味は、主人公ラスコオリニコフが19世紀ロシア社会の歴史現実を生きる社会的人間として描かれているからでない。むしろその「曝される孤独」が「歴史社会」と関わるなかで、その「罪と罰」の主題そのものが最後読者に問われる課題として現れて来るからだろう。そして小林が、この時期ドストエフスキーに注目した意味は、ラスコオリニコフの「曝される孤独」のあり方を、ベルクソン哲学を通して読み直す必要を感じたからでなかったか。そしてさらに思うのは、小林秀雄が「「罪と罰」について」を「Ⅰ」から「Ⅱ」へと戦争を跨がって書き進められたのは、ベルクソン体験の深化がそれを手助けしたためであったからかもしれない。
(2024.3.11)




参 考


AI が生成した芸術とフィクション: すべてを意味するのか、何も意味しないのか? 
[例えば『カラマーゾフの兄弟』の続編について]


Steven R. Kraaijeveld(SR クライエヴェルド)
倫理、法律、医療人文科学部、アムステルダム UMC
AI と社会、2024 - Springer
AI-generated art and fiction: signifying everything, meaning nothing? | AI & SOCIETY (springer.com)

日本語翻訳:Goog翻訳/ChatGPT文章要略校正/下原康子補足





新刊・旧刊 


◎藤倉孝純『魂の語り部 ドストエフスキ―』 作品社 2023.12.8
◎河原宏『ドストエフスキーとマルクス』彩流社 2012
◎西山邦彦『ドストエフスキーと親鸞』浄土真宗の会編 美土路書房 2010
◎下原敏彦『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006
◎山田康平『ドストエフスキーと近代藝術』小池書院 2005
◎福井勝也『ドストエフスキーとポストモダン』のべる出版 2001
◎中村雄二郎『悪の哲学ノート』岩波書店 1994
◎ペレヴェルゼフ著 長瀬隆訳 『ドストエフスキーの創造』みすず書房 1989
◎冷牟田幸子『ドストエフスキー 無神論の克服』近代文藝社 1988
◎ジョージ・ステイナー著 中川敏訳『トルストイかドストエフスキーか』白水社 1968
◎森有正『ドストエーフスキー覚書』筑摩書房 1967
◎椎名麟三 『私のドストエフスキー体験』教文館 1967
◎米川正夫『鈍・根・才 米川正夫自伝』河出書房新社 1962





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