ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.95 2000.6



医学の進歩が遅くてすみません −杉村隆先生の一言−



平成7(1995)年は阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が勃発して日本の安全神話が永久に過去のものになってしまった年でした。その年の5月、麻原が逮捕されたちょうどその日に私は乳がんであることを告げられました。佐倉病院玄関ホールのテレビで麻原が隠れ部屋から引き出される様子を複雑な思いで見ていたのを思い出します。そのころ、杉村先生がお書きになった『癌よ驕るなかれ』(日経サイエンス社、1994)を読み始めていましたが、三分の一ほど読み残して佐倉病院に入院することになりました。入院中は佐倉病院の多くの方々にお世話になり、また温かい励ましをいただきました。そのときの感謝の気持が現在の図書室のしごとに対するやりがいに繋がっています。入院中は、隣のベッドの患者さんがおもしろい陽気な人で、おかげで笑ってすごす時間が多く、それ以来、笑いの治癒力を信じるようになりました。幸い早期がんでもあったので、退院後1週間で職場復帰がはたせ、現在も何事もなく元気です。

さて、『癌よ驕るなかれ』の残りを読み終えるには少し時間がかかりました。「驕るなかれ」どころか「がんよお願い、おとなしくしていて」という心情でしたから。それでも読み終えた時、不気味な怪物のように思われたがんの影が以前より薄れてきたのを感じました。この本の中で「心のこもった人の情報が心のこもった人に重要な情報として伝わる」と書かれているとおりのことを実感したのでした。感謝の気持から、思い切って「佐倉図書室通信No.39」に本の感想を書きました。するとすぐにお返事をいただきました。私の「なぜ?どうして私が?・・・」という問いに対して「現代の医学では多くの場合、答えられないのです。しかし数年か十年たつとすっかりわかるようになり、したがって予防策が、また治療の適切なものが選ばれることになると思います」と書かれ、最後に「進歩が遅くてすみません」と結ばれていました。世界的ながんの研究者から一人のがん患者へ直に発せられたこの飾らない率直な表現に心底感嘆しました。感謝で胸を熱くしながら、これはまた、すべてのがん患者に向けられた言葉でもあると感じました。「TOHO University NOW 」の「学長室の窓から」発せられたメッセージの中で「一人一人がそれぞれ誇りを持って職場で時を過ごすこと」「天職感をもつこと」の二つは心に深く刻まれています。医療の現場に接することのない図書室の仕事でも「病気と戦っている人々と同じ場所に生きているということで、天職感が生まれる」のです。お届けする文献が患者さんの治療に役立つことが、私の喜びであり誇りであることを忘れないようにしようと思います。