日本大学芸術学部文芸学科文芸研究


   架空秘話  永遠の一年生 

下原敏彦

平成22年11月6日、一人の写真家が、都下武蔵野にある老人施設で101歳の生涯を閉じた。亡くなる前日まで元気にカメラの話をされていたという。熊谷元一が、その人の名である。熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終えたあと上京、清瀬市に居を定めた。還暦からの出発だったが、退職後は写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長に推され地域のためにも尽力した。訃報を知って多くの清瀬市民が焼香に列を成した。名誉村民となっている故郷、阿智村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。他に教え子、知人友人、出版社やマスメディアの人たち。そして熊谷の写真童画作品ファンも大勢参列した。私もその中の一人だった。代表作『一年生 −ある小学教師の記録―』に魅せられて30年になる。

それ故、訃報を知って、矢も盾もたまらずお通夜に駆けつけた。大勢の参拝者のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。80に近いお歳だが、地方紙の嘱託記者兼写真班として、いまでも地元紙に写真や記事を載せていた。彼はふだんは農業に従事していて、農作業のあいま、村中を回って珍しい話題や出来事を取材していた。たまに記事が載れば、すぐに送ってくれる昵懇の間柄だった。私は、軽く会釈したあと話しかけた。
「順風満帆で幸福な人生だったですね」写真界で、功なり名を遂げた熊谷への正直な感想だった。
「ほんとうだに」すぐに、そんな方言なまりの相槌が返ってくると思った。
ところが、老記者は、ちょっと間をおいて
「・・・そうですなあ・・・」と、つぶやいた。奥歯にものが詰まったような言い方だった。何か否定的な感じがした。私は、不可解に思って繰り返したずねた。
「ちがうのですか。順風満帆の人生ではなかったのですか」
「いい人生でしたよ。もちろんだに」老記者は、オウム返しにそう言ったあと、急に顔を曇らせてつぶやいた。「・・・あのことがなければ、だが」
「あのこと?!」私は、怪訝に思って再度たずねた。
これまで熊谷の写真や童画、それに書いたものを見たり読んだりしてきた。それ故、熊谷元一という写真家のことは、ほとんど知り得ている。そんな自負があった。熊谷の人生で、まだ私の知らないことがあるのか。意外に思いながらも、もしかしてあのことか、と想像して、ふたたびたずねた。「満蒙開拓団の撮影のことでしょうか」
熊谷は、戦前戦中、拓務省(後の大東亜省)に嘱託撮影班の職を得て、何度も満州に出張し満蒙開拓をすすめるプロパガンダ写真を撮った。熊谷はそのことを負に感じていた。
「あれは国策だから、日本人みんなの問題だに。先生は悔やんでおられたが、戦争末期に辞職したことで、その責任は、立派にとられたと思うんな。むのたけじという朝日新聞の記者は、終戦直後、戦争を煽った記事を書いたことの責任をとって朝日新聞社を辞めましたが、熊谷先生は終戦の二カ月前に、辞めたのです。終戦後、だれもかれもが戦争責任をなすりつけあっていたとき、先生は、既に一人、満州侵略の責任をとられていたんな。そのことを自慢することもなく、生涯ご自分の胸に収めて去られたんです」
「国策に協力したことで、ないとすると、なんでしょう」
私は、彼の話を遮って食い下がった。満州のことでないとすると――。
「個人的苦悩があったのです。責任感の強い人でしたから」
「責任感――?」
「何に対する責任ですか」
「『一年生』な」
「えっ!? あの岩波写真文庫のですか?!」
「そうだに、あの『一年生』な」
私は、ますますわからなくなった。昭和三十年に岩波書店から刊行された『一年生』は、昭和二十八年、熊谷が受け持った小学一年生を一年間撮影した写真集である。第一回毎日文化賞に輝いてから、その評価は時代を追うごとに高まり、熊谷の写真家の地位を揺るがないものにしていた。被写体が教え子ということで、何か問題が生じたのだろうか。
「何、でしょう。わかりませんが」私は、首をかしげて聞いた。
「もう、知っている人もおらんくなったが・・・」老記者は、眉間にしわを寄せて秘密めかして小さく頷いたあと、突然、破顔一笑してきっぱり言った。「でも、これで先生は、もうご自分を責めて苦しまなくてもいいでしょう。天国で、ほっとされていると思いますよ」
私は、なおのこと不思議に思った。奇妙にも感じた。あの『一年生』に、亡くならなければ安堵できないような、そんな重い問題写真があったのか。『一年生』のどの頁を思い浮かべても、生涯、責任を引きずるような写真は思いつかなかった。いつも、ひょうひょうとして写真を撮っていた熊谷から、責任感に苦しむ影の部分は想像できなかった。いったい熊谷は、一年生にどんなトラウマを持っていたのか。私は、読経を聞きながら熊谷の101歳の人生を振り返ってみた。

画家が夢だった熊谷は偶然カメラを手にしたことで写真の世界に目覚めた。28歳で朝日新聞社から写真集を出版、高い評価を得た。30歳で大東亜省の嘱託カメラマンとなり、国策として満州の開拓村を撮影した。終戦直前、東京空襲にあったことを理由に退職、故郷の村に戻った。この突然の帰郷は大きな謎として残った。戦後は、郷里で小学教師をつづけながら村人の生活を写真に撮った。出版された写真集は、農村の記録写真として注目された。『農村の婦人』『かいこの村』などがそれである。そして写真の合間に描きつづけた童画は、失われていく山村の文化を伝承する作品と認められた。絵本『二ほんのかきのき』(福音館)は、百万部を超えるロングベストセラーとなっている。これら写真や童画作品の多くは、数々の賞に輝いた。これらをみれば、順風満帆な人生ではなかったなどと、だれが評せられるだろうか。教師、写真家、童画家と三足のわらじを履いた人生だったが、どのわらじも立派に履き切った人生だった。

そのなかでも『一年生』は写真界の金字塔としていまも燦然と輝いている。そしてそれがアマチュアカメラマンにもかかわらず熊谷を絶対のプロ写真家として認めさせている。その「一年生」に熊谷は、責任を感じ苦しんできたという。何のことか皆目見当がつかなかった。私は、質問を代えて聞いた。
「学校現場で写真を撮ったことですか。現在なら不可能ですからねえ」
「いや、そういうことではなく個人的責任感からな」老新聞記者は、首を振った。
「個人的責任感ですか?!」
「そうな。人一倍責任感が強い人でしたから」老記者は、言って晩秋の夜空を見上げた。そして、独白するように言った。「いつもは陽気な先生が時折、ふっと見せる寂しげな表情。そこに深い悲しみを感じていました。ああ先生は、あのことに、まだ責任を感じているのだ。そのように思っていました」
私は、意味がわからず、オウム返しにつぶやいた。「責任感ですか…」
「そうな、『一年生』は先生を写真家として不動なものにした。が、先生を一番に苦しめもした作品ずら。それ故に先生は一年生の人生を撮りつづけたんな」言って、彼は突然に聞いた。「あなた、先生が、なぜ『一年生』のその後を撮りつづけたかわかりますか」
「教え子だからじゃないんですか。それに一つの被写体を追いかけるのは先生の撮影方法だと思いますが」
私は、戸惑って答えた。いまさら、そんなことを質問されるとは、思っていなかった。
「先生は、長い教師生活で、一年生は、何度も担任したずらに。しかし、撮っていないんです写真は、その子たちの人生もおいかけていないずら」老記者は、熱を帯びた口調で言った。
「先生は、もしかしたら、もう『一年生』は撮りたくなかったかも。わたしなら、恐らく撮れなかったに」
 写真が撮れない!? 思わぬ話に、私は、黙って佇んでいた。
「あの一年生を撮ったのは、すべて永遠の一年生のためだったずら。私はそう思ったんな。先生に、聞いたわけではないずらが」
「永遠の一年生??」はじめて聞く言葉に私は困惑して、焼香の煙が流れはじめた晩秋の宵闇をみつめた。

老記者は、遠くのあの日を思いだすように。ぽつりぽつり語りはじめた。私は、黙したまま老記者の独り言のような話に耳を傾けた。それは、熊谷が、心の中にしまっていた55年前のある悲劇のことだった。老記者は、その目撃者だった。それは昭和30年(1955年)9月4日の日曜日に起きたある不幸な出来事だった。

ある老記者の思い出
 
昭和30年9月4日、日曜日、あの日は、朝から残暑が厳しかった。私は、地方新聞の豆記者になったばかりだったが、大きな祝い事に連日、村の小学校に詰めていた。大きな祝い事というのは、私が尊敬する会地小学校の教師熊谷元一先生が、どでかいことをやってくれたからだ。人口3千人足らずの信州の山村にとって、それはもう開闢以来の名誉ある大事件だった。10年前、満蒙開拓で多大な犠牲者をだした悲劇の村にとって、それは久々の喜びの出来事だった。先生は、教師をしながら写真を撮っていた。戦前、私がまだ子供だったとき、先生が撮った村の写真を、朝日新聞社が出版し、高い評価を得た。先生、若干28歳のときである。それが縁で、大東亜省に写真班として勤務し、満州国の開拓村を撮り歩いたとも聞いた。戦後は、私なら東京で、大手を振って写真家としての道を歩いたが、先生はなぜか、その道を行かず、また元の木あみ、生まれ故郷で小学校教師の職につかれた。当時、東京に憧れていた私にとって不思議な限りだった。後で知ったが、先生は戦争の片棒を担いでしまった。その悔いがあったようだ。

高校をでると私は地元の新聞社に入社することができた。思い通りではなかったが、とにもかくにも希望した新聞の仕事につくことができた。先生をお手本にしながら記者の仕事をこなしていた。が、信州の山奥の村である。たいした事件も出来事もなかった。十年一日のごとく過ぎる毎日だった。そんなとき、村にどでかい花火があがった。先生が撮った『一年生』の写真集が、並みいる有名写真家を差し押さえて日本一に選ばれたのだ。大新聞の一面ド真ん中に、熊谷元一の名前が載った。3面には顔写真や詳しい選考経過が紹介された。手作りポスターがつくられた。
熊谷元一先生、第一回 毎日文化賞受賞を祝って 祝・岩波写真文庫『一年生』写真展開催
1955年9月5日(月)〜 17日(土)9月10日、17日(土)午後 ※11日(日)は朝〜夕まで一般公開
会場 会地中学校2階、裁縫室 
 
中学校の裁縫室は、二階の端にあって、畳2百畳の大広間だった。月曜日の長礼は、ここで行われた、子どもたちは正座して校長先生の話を聴いていた。受賞が決まってから私は、ずっと熊谷番として、先生の一挙手一投足を記事にしていた。そんことから、この展覧会も取材しながらの手伝いとなった。明日から子供たちに見せるということで、4日、日曜日、教職員、村の関係者など数人のボランティアの人たちが展示作業を行った。残暑のなか、展示作業は順調にすすんでいた。開け放たれた窓から、熱風とプールで遊ぶ子供たちの歓声がとびこんできた。
「今日が最後のプールですから、大勢きてるだに」
「それに、今日は日曜だら。春日の方の子はみんなきてるんな」
二年前、昭和28年、「一年生」が入学した年の7月に会地小学校にル25m×15mのプールが完成した。中学と共用だったので、5分の1ほど水深が2mのところがあった。この時代、プールがある学校は、まだ珍しかった。展示作業は八分通り終わっていた。手伝いの人たちは、談笑しながら、給食の味噌汁を作っている用務員のおばさんが運んできた麦茶を美味しそうに飲んだ。会地村は、春日村と宿場町駒場村の合併で成っていた。春日は、広い稲田がある地域で、水路はあるが泳げるほどの川はなかった。山間にある宿場町駒場の下方には天竜川の支流阿知川が流れていた。曲がり角に淵があって、駒場方面の子どもたちは、阿知川で泳ぐのがふつうだった。
「そろそろ昼のサイレンが鳴りゃあせんかな」誰かが、言ったときだった。プールの騒音が、ぴたりとやんだ。どれほど静寂がつづいただろうか。裏山の神社のセミの鳴き声が、やけに大きく聞こえていた。その静まりに何か胸騒ぎがした。
「なにかあったのかな」若い先生が窓から身を乗り出してプール方向を見た。
「休憩時間でしょう」
「うちらは休憩なしですね」
「そういえば」
「すみません」熊谷は、律義に頭をさげた。本当に申し訳なさそうだった。実をいえば、熊谷は、プールで遊ぶこどもたちを写真に撮りたかった。プールは二年前、の1953年「一年生」を撮りはじめた年の7月に完成した。子どもたちは大喜びした。

しかし、なぜか、意識したのか無意識にか、熊谷はプールで遊ぶ子どもたちの写真は撮ってなかった。『一年生』には一枚も収録されていない。他の写真集にも川で遊ぶ子どもたちの写真は何枚もあるのに、プールはない。不思議といえば不思議だった。展示作業が終わったら行くつもりだった。が、本当はいますぐ、子供たちが昼で帰ってしまわないうち行って撮りたかった。しかし、自分のために残暑のなか、展示作業してくれている皆さんのことを思うと、自分だけ写真を撮るために、この場を空けるということは、言いだしずらかったし、できなかった。思えば、このときの迷いと遠慮が終生の禍根となった。だが、そのときは、その後に起きた悲劇を誰が予見できただろうか。歴史に「もし」はない。あのとき自分が行っていれば ―― 悔やんでも悔やみきれない現実だけが残った。

「昼までに終わらせまい」そう言って吉田先生が組写真を脚立の私によこした。私は、一枚目のパネルを受け取ろうとしてつかみそこねた。
「あっ」 写真は、畳の上に落ちた。二人の子どもが写っていた。
「大丈夫?」
「しげこちゃんとひろふみくんだ。ごめん」
近くにいた若い女先生が拾いあげてくれた。熊谷と同時に一年生の担任となった西組の原房子先生だった。三年前は女子高校でたての新米教師だったが、いまはすっかりベテラン教師らしくなっていた。
「すみません」私は、礼を言って写真を見た。写真は、さんすうの計算練習する写真だった。仲良しの女の子と男の子が「さんすう」でおぼえた計算練習をしてあそんでいる。
「これ、わかる」
「どれ」
「三たす、五たす、四は」
「えーと、むずかしいな」
そんな会話が聞こえてきそうなほほえましい光景だった。だが、私は、自分が落としたせいか、何か気になった。私は一瞬、視線をとめて見入った。そのとき、突然プールの方から悲鳴のような怒号のような声があがった。何事か!?みんな窓に行って身を乗り出してプールの方角をみた。こどもたちが走ってくる。泣き顔だ。
「どうした、なにかあったんか」だれかが大声できいた。
「たいへんだ!」
「たいへんだ!!」
子供たちは口々にそう叫んだ。それを聞くと裁縫室にいた何人かの先生が、脱兎のごとく飛びだしていった。突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。出来事を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。残っていた人たちも、皆飛び出して行った。何か事件か事故が起きた。私は新米ながら、早くもしみついたブンや魂が躍り、皆に先を越されまいと、もうスピードで会談を駆け下りて行った。誰もいなくなった裁縫室の畳の上に掛けそこなった3枚の組写真が、無造作に置かれていた。

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。異変を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた私たちは、いっせいに飛び出して行った。一年生の写真だけが、畳の上に悲しげに散らばっていた。校舎を飛びだしたところで、駆けて来た子どもたちと出くわした。
「どうした、どうした」先生たちは、口ぐちにきいた。
「プールで、プールで」子どもたちは、興奮した口調で、ただそう叫ぶだけだった。私は、その声を潜り抜けブンや根性丸出しでプールに向かって走った。まずは現場だ。現場でなにがあったかこの目でみる。人の話はそれからだ。私が一番先頭になっていた。プールの脇に大勢の子どもたちが黒山の人だかりとなってかたまっていた。大半が小学生だったが、中学生もいた。彼らは、走ってきた私たちを一瞬、ちらっと振り返った。真っ黒に日焼けした顔に真剣の目がギラついていた。事件や事故の現場で感じるあの目だった。どの顔も、こわばっていた。私は、こどもたちを押し分けて人だかりの真ん中に入った。熊谷先生も他の先生たちにまじって追いついた。保健室の有賀先生が一生懸命、人工呼吸をしているのが見えた。下にいるのは小さな体で、低学年の子どものようだ。
「何年生か」「なんねんせい」「何年」駆けつけた先生たちは口々に叫んで聞いた。自分の学年の子ではないかと必死だった。
「どこの組だ」溺れた子どもの身元は、なかなか判明しなかった。しばらくして
「三年生らしい、三年生だって!!」そんなささやき声が聞こえた。そして、突然
「熊谷先生のとこの子だ!」とのさけび声。

その一声は、雷のように熊谷元一先生の全身を貫いた。熊谷は、一瞬地面に串刺しされたように動けなかった。次の瞬間、取り囲んでいる野次馬をかき分けて中に飛びこんでいった。黒の海パンをつけた男の子が仰向けに寝ていた。その上にまたがって保健室の有賀先生が人工呼吸をつづけていた。子どもの顔は銅像のように見えた。誰かもわからなかった。が、後からきた先生が、さきほど私が落としたパネルの男の子だと教えてくれた。
「あしざわくん! ひろふみくん!」
熊谷は、膝ついて耳元で名前を呼び続けた。だが、子どもは人形のように寝たままで、ピクリともしなかった。周囲の喧騒をよそに眠っているようにも見えた。

知らせをうけて。村に唯一人の外科医者、橋本医院の橋本医院長が、バイクの後ろに乗って到着した。村に来るまではダム工事現場の医者をやっていたという人で、治療は荒っぽいが腕はいいとの評判だ。重苦しいなかにも、淡い安ど感が流れた。つづいて警察署長がジープで到着した。少し遅れて春日地区の消防団員たちが非常事態を聞きつけかけつけてきた。しかし、芦沢君は、いっこうに息を吹き返さなかった。芦沢宏文君は、ジープに載せられ宿場町にある橋本病院に向かった。皆、祈るような気持ちで見送った。これで助かるのでは、そんな一縷の望みを抱いていた。当事者がいなくなって、プールの周りにいた大勢のヤジ馬は、気が抜けたように散会した。熊谷先生は、いつまでも棒杭のように佇んでいた。夕方前の日差しは焼けるように強かったが、すすきの穂を揺らす風は、もう秋風だった。

プールに一緒にきていたのは、同じ三年生で、西組の女先生の組の子ども芳原君と一学級上の同じ部落の子ども3人だった。プールでは四年生の子は、同級生と泳いでいて、まったく気がつかなかったと答えた。ずっと一緒に遊んでいた芳原君は、職員室に呼ばれ、何度も、熊谷から情況を聞かれた。だが、芳原君は、よく覚えていなかった。確かに、きたときからずっと一緒にあそんでいた。しかし、ときどきは見失って、どこにいるかわからないときもあった。なにしろ最後のプールということで、大勢の子どもたちが、プールに入っていたのだ。はじめのうち、追いかけっこをしていたが、そのうち他の子もはいって遊んでいるうちに芦沢君はいなくなった。ほかのグループにいったのかと思った。思い出せることは、これだけだった。しかし、熊谷は、聞きだすことが時間を巻き戻せると信じてでもいるかのように、繰り返したずねた。S・Kくんは、緊張と疲れでしまいには泣きだしてしまった。

風がやんで蒸し暑い空気がよどんだ職員室は重苦しい空気につつまれた。沈黙のなか芳原君の鼻水をすすりあげる泣き声だけが微かに聞こえていた。皆は、祈る気持ちで職員室に一台しかない電話機を見つめていた。長い長い時間だった。熊谷は芳原君を帰すと、自転車で宿場町にある橋本病院に向かった。実った稲穂で黄金色一色の海のなかを夢中でペタルを踏んだ。拭ってもぬぐっても汗が滝のように流れた。これが夢であってくれればいい。着いたら元気になっていた。そんなことを何度も何度も祈った。だが、病院の玄関先に咲き乱れる夾竹桃の花や駆けつけた家族や親せき、消防団、そんな人出のごった返しが、悲劇が現実なことを教えていた。

それにしても村で、こんな事故が起こるなど、村人は考えたこともなかった。これまで阿知川で、溺れた人の話はきかないが自然の川だけに心配はあった。が、二年前に新しくできたプールができたことで、そんな心配も雲散した。近代的なプールで溺れる事故が起きるはずがない。村人は堅く信じていた。だが、起きてしまったのだ。病院周辺は、多勢の人がいるにも関わらず異様な静まりをみせていた。だれもが芦沢くんの意識の回復をじっと待っていた。待つほかなかった。いつしか残暑はやんで、何百という赤とんぼの群れといっしょに涼しげな風がふきはじめていた。病院の待ち合い室で両親は、槌で打ち込まれたように無言で座りこんでいた。口をひらくにも開けないほど疲れたといった様子だった。

熊谷は、皆の無言の視線がいたたまれなかった。両親に、声もかけることもできず、病院をあとにした。遠くの色づき始めた山々、黄金色の稲田の上に広がる空の青。自然だけが何事もなかったように美しいコントラストをみせていた。稲穂がたれるあぜ道を学校に向かいながら、熊谷は、悔いても悔いても悔い切れない気持ちに苦しんでいた。あのときプールに写真を撮りに行っていれば、展示作業してくれている先生方に遠慮してあとに伸ばさなかったなら・・・後悔は、あとからあとから湧きあがってくる。

学校に着くと、展示作業は、終わっていた。熊谷は、ただただ皆に頭を下げた。が、展示会も授賞式も、もはや喜ぶべきことでも祝うことでもなくなっていた。熊谷は、過度の疲れからもうどうでもよい気持ちになっていた。展示された芦沢くんの写真の前で祈るしかなかった。皆も、声をかける言葉もなく黙ってたたずむばかりだった。どれほどの時が流れただろうか。廊下を走る足音が響いてきた。皆、入り口に視線を注いだ。教頭先生が、息を切らせてかけこんできた。堅い表情だった。皆、一瞬にして事態を理解した。教頭先生は、畳を踏みしめて歩いてくると、いちど咳払いして言った。
「いま、橋本医院の方から連絡が入りました。あしざわひろふみくん午後三時一〇分、死亡が確認されました」
とたん女先生は、泣き崩れた。皆、立ちすくんだまま言葉もなかった。私は、新聞記者の習性で、早く社にもどって事故の記事を書かねばと急いた気持ちになった。それで、黙って頭をさげて退室した。私は、隣り町にある社に戻り、事故の記事を書くと、再び桑谷村に戻った。お通夜の取材と、展示会の動向を書くためであった。

残暑の名残が消えて秋風がススキの穂を揺らしはじめた夕刻、芦沢宏文君の家で通夜がはじまった。悲しい葬式だった。弔問客のなか、校長、教頭先生と並んで読経を聴く熊谷は、身の置き場がないほど、身を縮こまらせていた。
「お焼香をおねがいします」承久寺のお和尚の力強い声がして、焼香がはじまった。熊谷先生の番がきた。先生が遺族に深々と一礼した、そのとき「クマガイさんよ」突然、遺族の席から、鋭い声があがった。
「ヒロフミが死んだ原因、先生にもあるんじゃないか。あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」声の主は、痩せて日焼けした色の黒い中年男性だった。熊谷は、ひたすら頭をさげた。
「カメラなんか、持って、金持ち面して」親戚の中年男は、甲高い声で責め立てた。その声に通夜の席は凍りついた。読経もぱたとやんでしまった。

芦沢くんの家は、満州帰りの貧しい農家だった。「行けば1町歩の大地主」そんな国策のうたい文句に踊らされ、僅かな農地を手放して満州に渡ったのだ。それが3カ月も経たないうちに、無一文となり命からがら帰えってきた。それだけに国の仕事とはいえ満州の写真を撮った熊谷先生のことは、日ごろからよく思っていなかったようだ。
「写真展もやめちまえ、こんなときに、なにが展示会だ」
「もうしわけございません。やりませんので」
熊谷は、展示会を中止を決めてきた。せっかく皆に準備してもらったのに申し訳なかったが、さすがこんなときはできないと思った。
「もう写真は、とらんでくれ、ひろふみがかわいそうとおもうなら、もう写つせんはずだ」
「すみません。もうとりません」
「本当か、それはほんとうだか。ほんまのことずらか」親戚の中年男は、約束をとりつけるかのように、詰め寄った。熊谷は、あたまを低くして、何度も謝った。その光景は見ていて辛かった。私は、不安になった。もしかして、先生は、本当に写真を撮らないことを約束してしまうのではないか、展示会も中止して、受賞も辞退してしまうのではないか、と。そのときだった。
「やめてくんろ!!」突然、宏文君の母親が叫んだ。葬儀会場は、一瞬、時が止まったように静まり返った。母はつづけた。
「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、きをつけろといっといたのに、深い方に行って、じぶんがバカだったんな」
「いや、わしがわるかったんな。わしがいってとみとりゃあよかったんな。もっと早く、みにいきゃあよかっただに」熊谷は、深々と坊主頭を下げると言った。「おわびしきれんが、やめますで、展示会は」
「先生、そんなこというのはやめとくんろ、明日から展示会、必ず開いてくんな。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくだに。でも、宏文は一年生のままです。ずっとずっとこのさきも。展示会で、そのことをみんなに教えてやってくんな。先生、ここで約束してくんな。写真展、やめたら、宏文は、永遠にわすれられちまうだに。お願いしますだ。それから、先生、一年生の写真、これからずっと撮りつづけてくんな。それをひろふみの供養としてくんな。先生、約束してくんろ」
「・・・・・・」熊谷は、無言で頭を下げるしかなかった。
「先生、約束しとくんろ。やめんと」
 母親は、髪が乱れるのも気にせず、すがるように深く頭をさげたまま訴えつづけた。
 熊谷は、ついに折れて言った。
「お母さん、わかりました。頭をあげてください。約束します。一年生、撮りつづけます。約束しますから、どうか頭、あげてください」
熊谷は、ほとんど泣きださんばかりの声でお願いした。母親は、漸く頭をあげると、もう一度、「約束だで」と、呻に念を押して深く頭をさげた。
「ありがとうございます」熊谷は、礼を言って踵をかえした。うなだれた背中が微かに震えていた。もう親戚の者からの声はなかった。凍りついた空気がいくぶん凍解したのか会場にざわめきを感じた。ふたたび読経がはじまった。熊谷は、焼香を終えると虫の音がうるさい初秋の夜路を一人とぼとぼと歩いて帰っていった。私は、走ってあとを追いかけたが、立ち止まった。熊谷の孤独と悲しみが寄せ付けなかった。

先生は写真をやめてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。母親と「永遠の一年生」の約束をしたのだ。母の願いを反古にするはずがない。しかし、先生は強い責任感からカメラをおいてしまうかも。二つの思いが堂々巡りした。しかし、私の頭の中はブン屋の常で冷酷だった。中止か開催、どちらになるにしろ、二つの記事を書いておけば安心だ。そんな考えが先走っていた。私は、最終バスに揺られて社に戻った。開催と中止、どちらの記事もすぐに書けた。が、通夜での出来事は、どうしても書くことができなかった。
「これがあの日、起こった出来事のすべてずら。先生は、あれ以降、あの日のことは封印したんな。その後の一年生との関わりがすべてずら。彼らが還暦を迎えるまで、彼らをおいかけ節々にたくさんの写真を撮った。それらは、永遠の一年生に捧げるため、亡くなった宏文君の母親との約束を守るためだった。先生にとって撮影は、一生をかけての供養だった。私は、そのように思っとります」

老記者は、話終わると、最終の高速バスで故郷に帰ると言って足早に晩秋の夜の街に消えていった。衝撃の余韻が、私を暫くの間、その場に佇ませていた。『一年生』撮影から半世紀以上過ぎている。この長い歳月のなかで既に亡くなった人もいるだろう。そんな思いから、これまで亡くなった人のことは考えたこともなかった。だが、この日、通夜での出来事を知って慄然とした。もしかして母親との約束がなければ熊谷はカメラを持つことはなかったかもしれない。永遠の一年生がいたからこそ熊谷は、その後『一年生』をライフワークとして活動することができた。様々な思いが錯綜し『一年生』の辛い奇跡を実感した。私は、一人、落ち葉舞う路を私鉄の駅に向かった。写真集『一年生』でみた、熊谷や子どもたち、そして、永遠の一年生のことを思い出しながら。

岩波写真文庫『一年生』撮影から受賞までの経緯
(『会地小学校の百年』「会地小学校沿革史」の項「当校のあゆみ」)

昭和28年4月1日  熊谷元一先生「一年生」撮影開始
昭和28年7月   プール竣工(プール開き)
昭和29年3月   熊谷元一先生「一年生撮影完了
昭和30年3月   岩波写真文庫『一年生』刊行
昭和30年8月   岩波写真文庫『一年生』第一回毎日文化賞決定
昭和30年9月4日  3年生芦沢宏文君プールにて死亡
昭和30年9月19日 熊谷元一先生、毎日文化賞受賞