熊谷元一研究

復刻版 岩波写真文庫 農村の婦人 2008
写真文庫ひとくちばなし


被写体になった村人と私たち

下原敏彦
 

熊谷元一の写真の被写体は、ほとんど熊谷が生まれ育った村、私の故郷でもある信州の一山村・会地村(現・阿智村)である。この村で熊谷は童画家、教師として勤めながら村人を撮り続けた。

自伝『三足のわらじ』(南信州新聞社出版局、2003年)によると、昭和9(1934)年に初めてカメラを手にした。案山子を撮るため知り合いに借りての撮影だった。このとき写真を撮ることの面白さ難しさに魅せられて、昭和11(1936)年、パーレットの新品を買う。最初に写したのは「童画と関係の深い村の子供」だった。が、「なにか村に役立つような」写真をと考え、村人の生活を撮るようになった。しかし、まだカメラがめずらしかった時代である。被写体になった村人の思いは様々だった。道楽とみる人が多かった。「こんな泥だらけで働いているところを写してなんにするんな」と、嫌がる人もいた。

本書や『かいこの村』などで熊谷が精力的に写真を撮った頃、村は貧しく辛い時代だった。写されたくない生活、知られたくない場面も多々あったはず。が、徐々に協力的になった。「あれを撮ったらどうかと知らせてくれる人もあって、うれしかった」と語っている。村人が熊谷の「地域の人々の生活を記録する」という撮影意図を理解し、写されるのを納得したのは、ひとえに熊谷の記録写真への熱意と誠実な人柄に他ならない。村人は、熊谷が教師であったときも、いまも敬愛をこめて「もといっさ」と呼ぶ。

私は、昭和28(1953)年に村の小学校に入学した。担任の熊谷は、一年間、学校で教え子たちの日常を撮り続けた。校庭で、教室で、通学路で。『一年生──ある小学教師の記録──』がそれである。この写真文庫からは、教室で常時カメラをかまえる熊谷が想像される。が、私には、その記憶がない。後に熊谷は「いつでもシャッターを切れるようにしておき、これはというときにさっと写した」と述懐している。九十九折の村道を進む遠足の写真は「この場所は、前の日に選んだ」と明かした。常に創意工夫の撮影だったようだ。が、私の知る熊谷は、四年間、絵や版画を教えてくれた担任教師の姿である。

絵画指導の一つに黒板の開放があった。休み時間、放課後、私たちは自由に黒板に絵を描いた。紙が貴重な時代、黒板は無限の画帳だった。黒板絵は、はかない命である。が、熊谷は、一人ひとりの絵をカメラに収め永遠とした。今日、その黒板絵を写真で見ることができる。
その自由な教育で、教え子の多くが、絵や版画の展覧会でたびたび入選し、賞状を授与される喜びを得た。 (図1)
   図1 絵心のない私も、熊谷の指導で何度か美術展覧会に入選した。写真は1954年の第2回全国小中学校版画コンクールで入選したとき熊谷が写してくれたもの。

熊谷は、『一年生』のその後を撮り続けた。二十歳、四十歳、五十歳になった一年生。そして2007年9月、熊谷は98歳の高齢をおして、還暦になった『一年生』の同級会に出席された。上梓されたばかりの復刻版『一年生』がよき記念碑となった。

被写体と撮影者。その関係は、たいていは一瞬のシャッター音で終わる。が、熊谷は、常にそこからスタートする。本書が復刻されると知って熊谷は「直したいところがあるが」とこぼされた。写真の婦人に気の毒なところがあるからという。半世紀以上過ぎても忘れぬ被写体への配慮。そこに熊谷の写真の感動がある。