熊谷元一研究(2016)収録


創作・恩師の告白 −熊谷元一と満州ー

下原敏彦

(筆者と恩師・熊谷元一との実際の交流や思い出をもとに書かれたものだが、恩師の告白の部分は筆者の想像による創作である。)

二〇一五年の夏のはじめ、下原ゼミは、熊谷元一研究の一環として熊谷の故郷でゼミ合宿を行った。現地では、熊谷と関係が深い「熊谷元一写真童画館」と「満蒙開拓平和記念館」を見学した。昼神温泉郷にある写真童画館では、展示された数々の写真・童画作品から熊谷の偉大な業績を知ることができた。しかし、昨年開設された満蒙開拓平和記念館では、展示資料のなかに満州と熊谷の関わりをみつけるのは難しかった。もしかして熊谷の名はどこにもなかったかも知れない。

この日、ボランティアでガイドしてくれたのは、元役場職員の森さんだった。彼は、かつて熊谷元一写真童画館担当だった。写真の展覧会などで度々ご一緒して親しくなっていた。そんな関係もあって満蒙開拓団について、その悲劇を、資料を説明しながら懇切丁寧に、ときには怒りをもって教えてくれた。「昭和二十年の五月一日に、ですよ、開拓団のひとたちは満州に出発したのです。その中には60名の子どももいました。戦争が終わる三カ月前ですよ」森さんは、まるで昨日の出来事のように語った。口ぶりに無念さをにじませて。それほどまでに入れ込んでいた森さんだったが、なぜか熊谷元一については一言も話さなかった。なぜだろう・・・知っていて話さないのか、それとも熊谷と満州の関係をあまり知らないのか、どちらだろう・・・私は、そんなことを考えながら休憩用の椅子に腰をおろした。学生たちは、熱心に聞き入っていた。が、暑さで疲れた私の頭に浮かんできたのは、恩師熊谷元一の手紙のことだった。

熊谷は、四年前に亡くなった。葬式の日、私は病院のベットの上にいた。脊椎手術をしたばかりで列席できなかったのだ。数日の後、ご家族から遺品を整理したら、こんな未投函の手紙があったと送ってくれた。恩師は、私の小学生時代の担任の先生で一年生から四年生まで教わった。生涯一小学校教師だった。が、同時に写真家でもあり、童画家でもあった。どちらもアマチュアながら多大な功績を残し評価されていた。写真家としては、長野県の一山村を七十年近く撮りつづけたことで、農村における記録写真の分野を確立した。担任した「一年生」を一年間撮った『一年生』は、写真界の金字塔といっても過言ではない。童画家としては、風化していく山村の子どもの遊びを描くことで、その土地の風習文化の伝承に貢献した。

恩師は、いつも坊主頭でジャンパー姿だった。村中を歩きまわって、だれにも気安く話しかけシャッターを押した。そんなところから村人は、恩師のことを先生とは呼ばず親しみをこめて「もといっさ」と呼んでいた。熊谷元一が恩師の名前である。恩師は、村人には、絵描きになりそこねてカメラにとりつかれた変わりもの教師だったが、子どもたちには、あまり叱らない面白い教師だった。自由にさせてくれる楽しい先生だった。

休み時間、恩師は、黒板を子どもたちに開放した。はじめは、わんぱくたちが描いていたが、そのうち内気な子や女の子も描くようになった。恩師は、私が描いた黒板絵を「おまえさんの絵はおもしろい」と、褒めた。私は、勉強も運動も苦手な子どもだったので、うれしかった。絵も下手だったが、自信をもたせてくれた。それ故、恩師は忘れ得ぬ教師となった。その恩師が、退職後東京に居を定めたと聞いて驚いた。てっきり生まれ育った村でのんびり写真を撮ったり絵を描いたりして悠々自適、楽しく老後を送るのかと思っていた。しかし、そうではなかった。恩師は、若者のように夢を抱いて都会に向かったのだ。恩師の上京は、都会に住む私と恩師の距離を近いものにした。その頃大学を中退してフリーターとなっていた私は、ときどき恩師の家を訪ねた。私に限らず、多くの教え子が、恩師宅を訪ねた。仕事のこと、結婚のこと、東京での生活のことなど、いろいろ相談していた。恩師宅は、東京にある故郷だった。

恩師は、私の顔を見ると言った。
「あの黒板絵は、すごかった。おまえさんしか描けない」いつまでたっても不肖の教え子を励ましつづけた。私が恩師の自宅近くにある大学に講師として勤めることになると「おまえさんがなあ」恩師は、そうつぶやいてうれしそうに苦笑した。恩師は、私が大学の教員になるとは、夢にも思ってみなかったようだ。「おまえさんは絵の方にいくと思ったが・・・」いつもそう言って不思議そうに首を傾げた。恩師は、本当に私に絵の才能があると信じていたのだろうか。いまとなっては、それを知る術はない。恩師の褒め言葉は、永遠の謎になってしまった。

謎といえば、恩師の人生には、いくつも謎があった。その一つに戦争末期、突然に勤めていた大東亜省を辞して故郷へ帰ったことだ。嘱託とはいえ安定したカメラマンの職を投げうって、である。カメラが好きで好奇心が人一倍強い恩師が、なぜー空襲で燃え盛る東京を記録しようとは思わなかったのか。終戦後の日本に興味を抱かなかったのか。二つには、戦争が終わった後、なぜ郷里に留まり教師人生を選んだのか。恩師が教師を天職と思っていたようにはみえなかった。カメラマンこそ天職。恩師の人生を振り返れば、この言葉がぴったりする。それなのに、恩師は写真家の道を踏み出さなかった。なぜふたたび東京に行かなかったのか。東京に出れば写真の仕事を得ることも可能だったろうし、元々の夢だった、画家への道も開けたはず。だが、恩師は、故郷に残り一小学校教員として教壇に立ちつづけた。故郷を撮ることを生涯の使命としたからか。故郷離れ難くの愛郷心からか。否、二十年のあと退職した恩師は、あっさり故郷を捨てて上京した。親しい人たちには、絵の勉強をすると話していたという。この謎について私は、何度か宴席でたずねた。しかし、その度、恩師は、ただ黙して微笑むばかりだった。

五年前、白寿を迎える恩師を祝って同級会が開かれた。そのとき私は、いつものように疑問におもっていることを恩師にたずねた。「先生は、どうしてプロの写真家にならなかったのですか」恩師は戦前、戦中、拓務省(後の大東亜省)の写真班として満州に何度か渡っていた。向こうでは、開拓団の村を回りたくさんの写真を撮ったと聞いている。広大な大地で働く開拓団の活躍を日本の青少年に宣伝して満蒙開拓義勇軍に志願させるのが目的だった。満州は、日本の生命線。すべて日本国と満州国のため、延いては八紘一宇のためだった。二つの国の国家事業である。膨大な写真が撮られたに違いない。が、恩師は、満州の話をあまりしたがらなかった。恩師は、子供のころの夢は絵描きになりたかった、である。それが、童画になり、写真の面白さに魅入られた。

カメラを手にしてからの恩師の活躍は目覚ましかった。積極的に故郷の村を撮った。二十八歳にして、朝日新聞社から写真集が出版され、絶賛された。昭和十六年四月、風雲急を告げる時局ということで、アサヒカメラは、「日本精神と写真の行くべき道」と題した座談会を開催した。出席者は、写真家の福原信三、小説家の中河輿一、歌人の土岐善麿、本誌からは松野志気雄といった時のマスメディア一線にいる人たちだった。が、このなかに無名の若手写真家二人が招待されて参加していた。一人は土門拳、もう一人は熊谷元一。どちらも将来を有望視された注目の若手写真家だった。ともに三十歳、よきライバルと思えた。しかし、戦後の歩みが二人の人生を分けた。写真家一筋の道を歩んだ土門拳は、押しも押されぬ写真家の大家となって生涯を終えた。教師の道をえらんだ恩師は、あくまでも知る人ぞ知るアマチュアカメラマンとして一生を終えた。

「どうして、郷里に帰ってきてしまわれたんですか」私は、執拗にきいた。このときをのがしたら、もう二度と恩師に会えない、そんな予感がしたのだ。だがしかし、恩師は、いつものように「そうさ、なあ・・・」と、他人ごとのようにつぶやいただけでなにも答えなかった。「戦争が終わったあと、なぜ東京にもどらなかったのです」私は、質問を代えた。しかし、恩師は、我関せずで、やはり「そうさ、なあ・・・」と、苦笑してつぶやくばかりであった。

目の前に、掴みとれた大きな夢があった。だが、恩師は、手をのばして掴まなかった。その道を進まなかった。カメラと絵筆を手にしながらも、ひたすら一山村の小学校教師として生涯を終えた。いったい何が恩師をそうさせたのか。こんどお会いしたとき、なんとしてもお聞きしよう。秘かに思っていた。が、恩師は他界され永遠に知ることはできなくなった。私は、無念な思いで、病室の高い天井をながめて、日々を過ごしていた。そんなとき、この手紙が届いた。亡くなる数日前に、書かれたようだった。



恩師の告白

前略、いま入院している。お見舞い無用。おまえさんとは、もう会うことはないだろう。同級会では、毎回お世話になり感謝している。ありがとう。百一歳、よく生きた。思い通りではなかったが、わしは自分の人生に満足している。教師、写真家、童画家。この三足、履きっぱなしで終わったが、どの人生も楽しかった。だが、おまえさんは、疑問を抱いていたようだ。会うたびに尋ねられて困った。わしは答えなかったが、おまえさんが思っていた通り、わしは、わしの人生に秘密をもっていた。だが、それは、いまさら明かしたとて何になろう。戦後は、教師、写真家、童画家とアブハチとらずに生きたわしの人生だが、これはこれでよかったと思っている。それ故に、この秘密、わし一人のものとしてずっと胸の奥にしまいこんできた。云わぬが花と云うこともある。いたずらに歴史を汚すだけになる。そんな思いできた。墓場まで持っていこうと思っていた。しかし、ここにきて気が変わった。この秘密、なにもあの世にまで持って行くこともない。この世の事はこの世においていこう。そんな気持ちになった。おまえさんは、会うたびに質問した。なぜ戦争の最中に大東亜省をやめて郷里にかえったのか。終戦後、なぜ東京に戻って夢を叶えなかったかと。むろん、わけあってのことだ。いま、そのわけを話そう。だれにも迷惑がかからぬものなら、形見に、おまえさんに明かしておこうと思った。

昭和二十年春、連夜の空襲で東京は燃え盛っていた。都民にとって恐怖以外なにものでもなかった。だが、写真を志すものにとっては、不謹慎ではあったが千載一遇のチャンスだった。日々、焦土と化していく日本。この先、どうなるのか。滅びるのか、復旧するのか。占領地となるのか。どうころんでも先の見えない、真っ暗闇の未来だが、カメラを持っているとなぜか恐怖はなかった。たしかに空襲は、恐ろしい。だが、写真に魅せられた者には、好奇心や野心がそれに勝った。大東亜省にいればフイルムには事欠かない。仕事と好奇心の両方が満たされる。それに写真班にいれば徴兵からも逃れられるとも聞いた。こんなありがたいところはない。

戦争の行方について、わしは昭和十六年十二月八日の日米開戦のニュースを聞いた時、日本は負けると思った。中国と五年間も戦って、へとへとになっている時、こんどは米英という世界最強国と戦うのだ。だれが考えても勝てるはずはない。負けるにきまっている。しかし、負けた後は、どうなるか。見当はつかなかった。が、写真を撮ってはいけない、そんな社会になるとは思えなかった。戦争が終わったら、こんどは国策の宣伝のためでなく自分が撮りたいものを自由に撮って歩きたいと思った。暗い時代だった。一億玉砕、欲しがりません勝つまでは。勇ましい宣伝とは裏腹に世の中は重苦しく希望はなかった。しかし、わしが働く大東亜省の満蒙移民課は、活気があった。〈往け若人!北満州の沃野へ!!〉の満州開拓団移民事業は、続行されていた。わしは、満州で撮ってきた写真現像に大忙しだった。空襲で焼け出され家も仕事もなくなった人たちを集め、写真を見せ満州行きをすすめた。「満州なら空襲されない」「満州には、家もある。土地もある」「満州は、日本の生命線」わしは、被災地を回って宣伝した。その最中にわしは、突然、職を辞して東京を去ったのだ。三六歳だった。わしはなぜ、故郷を目指したのか。

おまえさんも知っての通り「絵描きになりたい」がわしの子どもの頃の夢だった。だが、腕試しではじめた童画がわしの人生目標を少しずつ変えていった。童画がわしをカメラに導いてくれた。昭和八年二月、赤化事件に連座して小学校教員を退職したわしは、故郷の村で悶もんとした日々を送っていた。家業のそば屋を手伝いながら童画を描いては投稿していた。そんなわしをみかねてか、師事していた童画家の大家から頼まれ仕事がきた。童画の見本になるかかしをカメラで撮ってくれというのだ。家業もかたむきかけていた折りでもあり、ありがたかった。涙が出た。しかし、山村でカメラは、貴重な高級品で写真屋か裕福な商家か医者しか持っていなかった。貧しいそば屋のわしには手がとどかぬしろものだった。が、天の助けで村に唯一の写真材料展で借りることができた。何事にも相性と云うものがある。カメラとわしは、出あった瞬間から互いに通じ合うものがあった。絵筆のようにすぐに手に慣れ親しんだ。

カメラはわしの人生に幸運をもたらした。わしは、暇にまかせて村中を歩き回って村人を撮った。村人の目にわしは、アカに染まりかけて教師の職をしくじったそば屋のドラ息子だが、こんどはなにをトチ狂ったか、カメラ道楽をはじめた。そんなふうに見えたようだ。が、わしは何を言われようが構わなかった。一日中、村のあちこちを歩き回って農家の人たちの仕事ぶりや村人の生活を撮った。充実した毎日だった。楽し過ぎて絵描きになる夢は忘れてしまった。わしは撮った写真を東京の写真雑誌に送ってみた。するとどうだ。童画は投稿しても、なかなかだったのに、写真はすぐに採用された。そればかりか評判もよく、大手の新聞社がさっそくに『桑谷村』と題して写真集を出版してくれたのだそのことで山国の名もなき一寒村は、一躍有名な村となった。しかし、それが、後になって村に悲劇をもたらす要因になろうとは、いったいだれが想像できただろうか。当時、一山村の生活を撮った写真集は珍しかった。それで国内外から注目され高い評価も受けた。わしは若干二九歳にして、将来を嘱望された若手の新進写真家として脚光を浴びた。喜びは、それにとどまらなかった。ときの農林大臣が写真集『桑谷村』に序文を寄せてくれたおかげで、拓務省(のちの大東亜省)は、わしを写真班として採用してくれた。わしは意気揚々、桑谷村をあとに東京に向かった。思えば皮肉なものだ。若い頃、東京の美術学校を受験するも失敗し上京は、ついに果たせなかった。それが、十年のあと、嘱託とはいえ官吏として求められて東京に行くのだ。これに勝る栄誉はあろうか。カメラはわしにとって神様だった。

拓務省かわって大東亜省でのわしの仕事は、満州に渡って満蒙開拓青少年義勇軍の活躍を撮ることだった。教科書で知っていると思うが、中国に満州国をつくった日本は、開拓移民を送り出す計画をたて、昭和七年ころから実施していた。だが、いくら王道楽土、五族協和と旗振っても、満州は遠い外国、なかなか希望者がでなかった。そこで政府は国策として大だい的に移民を奨励することにした。わしの写真は、その宣伝として使われた。役人という立場はどんなに便利でめぐまれたものか。大東亜省の報道を担う写真班は、従軍の小説家、新聞社の記者よりもはるかに優遇された。大陸では突然でも乗り物も、宿泊も用意された。とくに満州では大東亜省の証明証は、絶対だった。水戸黄門様のご印籠のごとく威力を発揮した。写真を撮りに行った開拓村の人たちからは随分羨ましがられたし歓待された。そのぶん別れるときは辛かった。わしは、何度でも日本と満州を往復できるが、開拓団の皆さんは、この地に骨を埋めるつもりできているのだ。二度と日本に帰れるかどうか、分からない。みなさん、そんな覚悟でいた。「うらやましいです、故郷のみなさんによろしくお伝えください」現地を去る時、開拓村の皆さんが、ちぎれんばかりに手をふって叫んでいた。いまでも瞼に焼き付いている。耳に残っている。狭い日本から広い満州に。「行けば二十町歩の大地主」、勇壮な誘い文句で開拓移民計画は強行された。

この計画で、まっさき白羽の矢が立つたのは桑谷村だった。政府は、しごく平凡な、平和な山村を国家的大事業の先兵としたのだ。「きみが出身の桑谷村は、日本を代表する山村だ。そんな村から満州開拓団がでれば、あとにつづく村々もでてくるはず。いい写真を撮って、大勢の開拓民志願者を増やしてくれたまえ。満州は、日本の生命線だ。満州国の盛衰に日本の運命がかかっている」初日、拓務省満蒙事業課の課長からこんな訓示を受けた。わしは緊張して拝聴した。だが、なにか釈然としなかった。桑谷村の写真集が、そんな大事業に利用されることに不安を抱いた。それでわしは思わずいった。「しかし、自分の感想では、桑谷村は、養蚕がさかんで、満州に移民するような余分な人出はないと思いますが」課長は、大きくうなずいて言った。「そう、そこのところがいいんだ。一村独立。小さな山村でも自給自足で立派にやっている。満州に桑谷村のような桃源郷をつくる。すばらしい計画ではないか。村民流出は村にとって、辛いことだが、それも人助け、国助けだ。お手本となって、満州に豊かな村をつくってもらいたい。王道楽土の地をひろげてもらいたい。新しく生れた満州国発展のため、しいてはアジア民族の幸福のためにだ」「はい、がんばります」わしも若かった。その激励に酔った。満州でよい写真を撮って、一人でも多くの若者を満州に送ろう。わしは決心を新たに勇んで中国にわたった。
 
わしは満州全土、どこでも行くことができた。あちこちの開拓村を回り、皆さんの元気な姿や収穫を記録した。フイルムを日本に持ってかえり現像して、満州がどんなによいところか、日本各地の学校で展示して宣伝した。わしは、希望に燃えていた。しかし、ニ度三度と満州の地を踏むたびに、わしは、違和感をおぼえるようになった。なにか違う。日本から開拓団として出発したのに、彼らが入植したところは、もとから田畑の土地が多かった。用意されたよく耕された土地。つまり軍隊が現地の人から安値で強引に買い上げた土地だった。その土地を日本からきた農民に分け与えている。最初から豊作は約束されていた。田畑を失った満州の農民が乞食となって道のあちこちにいた。五族協和は名ばかりで、満州は、日本の植民地のように見えた。

最後にわたったのは昭和十八年の八月だった。満州各地を写真撮影したあと、中学の同級生が団長で入植した北満州の訓練所をたずねた。そこには桑谷村の若い人たちもいた。一望千里の広々とした畑で、大きなキャベツやジャガイモを収穫する様子を写真に納めた。皆、元気で活躍している姿に安心した。南方で日に日に激しさを増していく戦線が嘘のように平和だった。帰国前日、ソ連国境の町まで行った。黒竜江をへだててブラゴエチェンスクの町を望んだ時、その静かな風景にはるばる遠くに来たのだと実感した。そのとき、わしは、はっきり悟った。日本人は、こんな遠くの、しかも異国に来てはいけないのだ、と。そして、こうも思った。わしの仕事は、お国のためかも知れないが、その実、国民をだましているのではないかと。しかし、この疑念は、だれにも話せなかった。赤化事件の二の舞は御免だった。それに写真班の仕事には、満足していた。複雑な気持ちだったが、わしは、こう割り切った。開拓団の人たちを撮影するのは、移民募集のためではない。彼らの元気な姿を日本にいる親兄弟や知り合いの人たちに見てもらうためだと。戦争は、日本軍の劣勢が報じられていた。が、満蒙開拓移民計画は、粛々とすすめられていた。活発化していた。皮肉なことだがわしの本心は、故郷の村の人たちには、満州行きをすすめたくなかった。渡満して肌で感じたものだ。

昭和十九年九月、わしは家内が妊娠したのを口実に家内を郷里に疎開させた。家内が疎開したことで東京は危ない。日本本土に危険が迫っている。もう満州開拓どころではない。村人がそう感じとってくれることを願った。だが、村人は、そのようにとらなかった。わしの写真と政府の奨励は、まだ満州国を輝かせていた。昭和二十年、春先だった。郷里の父からの便りに、いま村では、家族の満州行きが歓迎されている、との知らせがあった。これまで村からの満州行きは、次男三男の青少年義勇兵だったが、こんどは、家族全員でとなった。満州でいよいよ本格的な村づくりがはじまったのだ。わしの写真を見て、多勢の小作人家族が満州行きに希望しているという。わしは、立派に国策の一役を担っているお国のためになっている。喜ばしいはずなのに、なぜか気が晴れなかった。月給八十円(代用教員時代は三十五円)ボーナス、出張手当もでる。夢にも思わなかった恵まれた生活。だが、わしは絵描きになることを夢みていた貧乏時代が妙になつかしかった。あの頃は自由があった。

わしは満州の写真を前に悩んだ。広い大地、肥沃な土地。開拓団たちの笑顔、沢山の収穫。わしが撮ったどの写真も、満州のすばらしさを写している。どれも移民希望者の意欲をかきたてるものだ。この写真を前に、「満州移民は慎重に」などと口をすべらしたら、皆怪しく思うに違いない。非国民と罵られ、憲兵に捕まるかもしれん。せっかくの大東亜省の勤めもフイになる。わしだけならまだしも家族にも害が及ぶだろう。両親や二人の幼な子をかかえる家内のことを思うと、できぬ相談だった。複雑なわしの心根を知ってか知らずか、家内は、ときどき村の様子を知らせてきた。開拓団の移民計画は着々とすすんでいるらしかった。既に二十何家族の応募があって、団長に長岳寺の山本住職が頼まれているとのこと。奥さんは、反対しているとも書いてあった。

おまえさんも知っているとおもうが、わしより七つ年上の山本住職は、ほんとうなら比叡山の偉いお坊さんになれた人だが、改革運動をしたため、信州の山寺に左遷されてしまった。わしの赤化事件とは違い、真に理想をもった人だった。それだけに尊敬もしていた。山本住職が満州のことをどう考えているかは、知らない。が、貧しい農家の人たちに頼まれれば引き受けてしまう。そのように思えた。わしは住職に断るように伝えたかった。あの人なら話せばきっとわかってくれる。そんな気がした。だが、時局がら東京を離れるわけにはいかなかったし、勝手に離れることはできなかった。三月十日、東京に大空襲があった。下町では何万という人が焼け死んだ。だが、戦争は終る気配がなかった。大東亜省は、かえって血気盛んになっていた。家内からの便りでは、村の人たちは、まだこの戦争に勝てるとおもっていた。満州は、まだあこがれの大地とのこと。東京でも同じだった。わしは、満州のすばらしさを宣伝するために空襲の合間をぬって国民学校や高等学校を巡回していた。

四月はじめの夕方、大東亜省の三階はひっそりしていた。多くの職員は、空襲で焼け出された街の片付けに出向いていた。わしは暗室にこもって一人黙々と現像をつづけていた。明日、焼け出された下町に持っていって満蒙開拓団を募る目的の写真だった。政府は、焼け出されたことを幸いとしていた。満州に行けば土地も家もすぐに手に入る。空襲の心配もない。大本営発表の戦果を信じる国民はいなくなっていたが、なぜか大東亜省のプロパガンダは生きていた。突然、隣りの資料室に誰かが入った。バタンというドアの閉まる音。普段なら気にもならないが、静まった省庁の長い廊下に響いた。足音から二人のようだった。親しげな会話が空調つづきの暗室にこだまして聞こえてきた。わしは、おもわず聞き耳をたてた。
「―中尉殿、なにを調べたいのですか」
「いや、調べものは口実だ」
いま公務で訪問している関東軍の将校と副局長らしかった。二人とも、隣りの暗室に人がいるとはおもってもいないようだ。わしは、いまさら出るにでられず、じっとしている他なかった。様子から内緒話のようだった。わしは全神経を集中させた。
「なんでしょう…」
「――たしか満州にー」
「はい、息子夫婦と孫が北満にいます」
「そうか・・・」中尉は、ためらったあと言った。「息子家族に帰国をすすめなさい」
「え、どういうことですか」
「ソ連軍が攻めてくるかも知れん」
「えっ、中立条約があるのにですか」
「ロスケなど信じられん」
「関東軍が守ってくれるのでは…」
「関東軍は、南下する。極秘だ。我々はそれを伝えにきた」
「えっ!民間人はどうなるんです。開拓団だって二十万はいる」
「作戦だ。大本営で決まったことだ。いま民間人が逃げだせば、ソ連軍は、察して立ちどころに攻め込んでくる。その方が被害甚大だ。なんとしても関東軍が本土決戦の体制をたてるまで、平穏を装うしかない。二カ月か三カ月の辛抱だ」
「国境にいる開拓民は捨石ですか」副局長の声は震えていた。
「やむをえまい。天皇陛下のおられる本土をまもることが先決だ。満州は、裸同然になる。いまのうちに息子さん家族、葬式でも祝い事でも作って呼び寄せなさい。今日、お共で大東亜省にくることができてよかった。直接でないと知らせられないからな」
「ありがとうございます」
「わかっているとおもうが、これは、極秘だ、親兄弟にも」
「は、はい!誓って」あまりの重大事に副局長は、うろたえ声で言った。そして、口ごもりながらたずねた。「満州移民事業は、どうなるんでしょうか」
「つづける他はあるまい。あくまでも平素を装うのだ」
「は、はい、わかりました」
二人は資料室をでた。副局長は、さかんに礼をのべていた。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、わしは呆然自失の体で床に座り込んでいた。鳥肌は立ったままだった。いま聞いた話は真実か。冷水を背中にぶっかけられた気持ちで動けなかった。ソ連軍が不可侵条約を破って攻めてくる。それを知りながら関東軍は、秘密裏に撤退するという。そんな状況などだれも考えたことはなかった。開拓民は、信じている。自分たちが故郷を捨て国をでてはるばる満州にきたのは、世界最強の関東軍が守ってくれと信じているからだ。それが、こっそりいなくなるという。ほんとうなのか。わしは、暗闇でいま聞いた会話をなんども思い返していた。いつのまにか省庁内は、戻ってきた職員たちのざわめきで元の喧騒を取り戻していた。わしは、のろのろ立ちあがって暗室をでた。胸の真ん中にぽっかり穴があいたような、虚脱状態だった。すべての風景が違ってみえた。関東軍が撤退する。ソ連が攻めこんできたら満州はどうなるのか。開拓団の運命は目に見えている。国は、それを知りながらも、そんな地にまだ満蒙開拓団を送ろうとしている。関東軍を無傷で南下させるために。最高の国家機密を知ったわしは、どうすればよいのか。わしは、苦しんだ。あの時代、国家に反することなど、ただの一言だって口にできなかった。話せば、話した人に災いが降りかかる。その前に、非国民ということで断罪される。わしは、空襲の下で、悩み苦しんだ。そして、思った。そうだ、この秘密、目下、満蒙行きを希望している村人だけにでも伝えよう。そうして満州行きを思い留まってもらう。だが、どうやって。そうするには、あの将校がいったように直接、伝えるしかなかった。

しかし、この非常時に休みをとるわけにもいかなかった。手紙に書いても誰が信じてくれようか。もし発覚したら。家内や幼い息子、生れたばかりの赤ん坊のことを思うと、できぬ相談だった。わしは一人苦しみ悶々とした。こんな時代に生まれたことを呪い恨んだ。忘れもしない四月十三日の明け方、わしの下宿がある豊島区池袋周辺が空襲にあった。わしの下宿にも焼夷弾が落ち、木造の家は、いきおいよく燃えた。わしは、皆と必死で消火したが、街は焼け野原となった。下宿に満州や朝鮮の写真やネガを保管していた。それらはみんな灰となってしまった。大陸で撮った膨大の写真。だが、なぜか惜しくはなかった。むしろなにかほっとした気持ちだった。ネガや写真がなければ、満蒙開拓団の募集に行くことはできない。つまり大東亜省で仕事ができなくなったというわけだ。不幸中の幸いというべきか、口実ができた。わしは、大東亜省をやめて故郷に帰る決心をした。もはや、それしか道はなかった。しかし、国家存亡の大事な時期に、恵まれた職場を放棄する。大好きなカメラの仕事もやめることになる。わしの行動はだれにもわからないだろう。だれもが不思議に思うところだ。だが、故郷に戻れるのは、この機をおいて他になかった。それに、わしは焼け跡で大陸行きをすすめることに耐えられなくなっていた。わしは、一大決心で辞表を提出した。
「なんですか、これ」係長は、驚いてわしの顔を穴のあくほど見つめた。
「辞表です」
「はあ…」
「お世話になりました」
「まてまて、意味がわからん。そもそも、この非常時に、どうしてやめるのか。写真班は、これからが大仕事じゃないのか」
「先日の空襲で満州の写真やネガがほとんど焼けました。それで、もう、満蒙開拓団募集のお役にはたてないと思いまして」
「満州の写真がなければ話だっていい。きみは何度も渡満しているんだ、満州国のすばらしさを大いに宣伝できる。焼け出された人たちを救済するためにも」係長は、あの機密を知らないようだった。
「写真以外は、わたしにはできません」わしは、ひたすら平身低頭して拝み倒した。
「写真班にいれば徴兵も遅くなるかも」親しくしていた職員が、とめてくれた。だが、わしのあたまの中は、一刻も早く帰郷して、満蒙行きをとめなければ、そのことでいっぱいだった。大東亜省の人たちは納得しなかったが、わしのあまりの頑固さに空襲で焼け出され、精神がまいってしまったと判断したようだ。
「田舎に帰って家族の顔をみればなおりますよ」最後には、気の毒そうに辞表を受け取ってくれた。
戦時、身障者や精神疾患者は国家からお荷物とみられていた。そのことが、幸いした。わしは、翌朝、新宿駅に駆けつけ列車に飛び乗った。車内は、疎開する人たちで満員だった。八時間、列車に揺られ、故郷にもどった。だが、すべては徒労だった。最寄駅の飯田駅で降りると、わしは真っ先に改札で駅員に尋ねた。「ちょつとおたずねしますが、満蒙開拓団のことは、知っとるだか」
「はあ、知っとるだに」
「予定は、いつずら」
「先々週だったか、出発しましたよ」
「えっ!」わしは、絶句した。
「駅前で壮行会をやりましたが、ちょつとさびしかったに。こんな時局だけにしょうがないだに。でも、みなさんいまごろは向うに着いて真っ赤な夕日を眺めているころずら。満州に行けばもう安全だで」
初老の駅員は、笑顔で言った。
「遅かった」わしは、落胆した。万事休す。もうどうしようもなかった。山本住職を団長する満州移民一行はすでに出立したあとだった。わしは、なんのために帰ってきたのか。後悔に打ちのめされた。わしが東京から大東亜省をやめて帰ってきた話はたちまち村中にひろまった。「なんしてお役所をやめたずらか」村人にとって東京の大東亜省での勤めは、たいした出世だった。幼い頃から絵を描いておったから、多くの村人はわしが東京で絵描きとして成功するのでは、と期待もしていたのだ。それが戦時の真っ最中に、なんの理由もなくやめてのこのこ帰ってきたのだ。都会人が疎開できたのとはわけが違う。視線は冷たかった。だが、無駄足ではなかった。村では、またしても満蒙開拓移民団の第二次部隊が計画されていたのだ。〈往け若人!北満の沃野へ!!〉や〈少年戦車兵 募集〉の勇ましいポスターが村のあちこちに貼られていた。

わしの帰郷は無駄ではなかった。大東亜省で知った秘密を、なんとかして知らせたかった。だが、多くの村人は満州国にまだ夢を抱いていた。それで親戚にも友人にも話すのがためらわれた。着々と進む第二次募集。わしは、焦った。若い者がいなくなった村、わしは、山本住職の代わりに小学校の代用教員をたのまれ引き受けた。子どもたちは、わしが何度も渡満していると知っていて、よく満州のことをきいてきた。
「せんせいは、満州へ行ったことがあるときいたずら。満州は、天国ずらか。ほんとうにこの村よりいいずらか」そのたびにわしは、こう答えた。「この村が一番いいです。満州はとおい異国です」満州は危ない。関東軍はいなくなる。そう声を大にして教えたかったが、さすがにそれはできなかった。両親や親戚に迷惑がかかる。満州の秘密は国家の最高機密だ。漏らせば職を失うどころではない、投獄されるか、わるくすれば銃殺刑もある。小林多喜二という作家は、拷問されて死んだという。とても本当のことは言えなかった。が、わしのあいまいの受け応えは、すぐに村にひろがった。「先生、妙なことを子どもたちにはなされてはこまるずら。満州行を決めとった農家が、二の足を踏んどるだに」役場の移民事業課の課長が迷惑そうに言ってきた。村は、国策協力の優秀村ということで、県や国から感謝状をもらっていた。わしの存在は、村にとってうとましいものになった。やはりアカだったのでは。昔の話がもちだされ、そんな噂もたった。七月十六日、予想はしていたが召集令状がきた。あとでわかったが、わしが村で最後の応召兵だった。どこにやられるか、不安だった。南方で大勢の兵隊が亡くなっているという。村では戦死者の葬式が多くなった。大東亜省を退職しなければこんなことにはならなかった。両親は、肩を落として泣きに泣いて悔やんだ。だが、わしは、それほど後悔はしなかった。国家機密にたいしてやれるだけはやった。第二次満蒙移民団の応募希望者に疑念を抱かせた。そのことの方が、赤紙に勝った。

わしが入隊したのは、熊本の西部六一部隊だった。九州上陸の米軍を迎え撃つための部隊だったという。もし戦争が一カ月か二カ月延びていたらと思うとぞっとする。ありがたいことに戦争が終わった。九月軍務が解かれ桑谷村にかえった。満蒙開拓団の悲劇は徐々に伝わってきた。暗室で聞いた通りだった。ソ連軍が中立条約を破って突然、満州に攻め込んできたこと。関東軍は、民間人を守ることなく既に本土に戻っていたこと。幸運にも命からがら逃げかえった人たちから、さらに残酷で恐ろしい話が伝わった。開拓団の男たちは、皆シベリヤに連行されていったこと。残された女子供は匪族やソ連軍に追われ、広大な満州の原野を逃げ回って大勢の人たちが亡くなったこと。開拓村で写真に納めた家族や、子どもたち。皆どうしただろうか。消息が知れぬものが多かった。無事に帰ってきてほしい。わしの胸は痛んだ。

わしは、東京に出て本格的に絵の勉強をはじめようかとも考えた。だが、わしが撮った満州の写真に希望を抱いて満州に渡った人たちのことを思うと、居たたまれなかった。わしだけが戦争を終わらせてはいけないと思った。村に残るべきか、東京に出るべきか。わしは悩み迷った。そして、村に残ることを選んだ。日本屈指の満蒙開拓移民の村。わしが村を撮らなければ、村は、国策の生けにえになることもなかった。わしがつぐないとしてできることは、村に住んでこんどは国策からではなく、自由に村人の生活を撮り記録することだ。それが満州開拓移民団推進事業の一役を担ってしまった人間の運命。あの無謀な戦争に加担したわしの贖罪、そう思ったのだ。そうして、子供たちに自由を教えること。戦前の教育のように、国家が押しつけるのでなく、子供たちが自分で考え、自分でやってみる。そんな自由な教育を教えたい。そうすることが、わしに課せられた使命。そのように想ったのだ。

あとは、おまえさんも知っての通り、わしは教師をしながら、村を撮りつづけた。よその国にゆかなくても村は立派に発展する。それを知らせたかった。民主主義の教育がどんな人間をつくるのか、おまえさんたち教え子を観察しながら学んだ。シベリヤから帰った山本住職も亡くなられるまで中国残留孤児帰国運動に奔走した。そのかいあってか、村に、満蒙開拓平和記念館がもうすぐ完成するという。わしは何もできなかったが、心からよろこんでいる。

そろそろこのへんでいいか・・・そうだもう一つ、退職後の上京は、遅ればせながら画家への夢を果たすためだった。人生は年齢ではない。やり残したことがあるなら、それができるようになったときはじめればよい。還暦からの旅立ち。皆には、奇妙に思えたかもしれないが、わしは、初心にかえっただけだ。いくつになっても目標に向かって歩く。果たすことができてもできなくても夢を持って生きるということは楽しいものだ。これがわしの秘密のすべてだ。ありがとう。さらばじゃ        



ざわめきで眼が覚めた。森さんと学生たちは、次の部屋に進んでいって、かわりにお年寄りのグループが入ってきたところだった。グループのなかに三年前亡くなった叔父の連れあいがいた。叔父は、満蒙開拓青年義勇軍として満州にわたり、終戦後は四年間のシベリヤ抑留体験者だった。彼女は、笑顔で近づいてくるとうれしそうに言った。
「ここには、よくくるんな。おとうちゃは、満州のことは、なんにも話してくれなんだ。ここにきてようやく知ったんだに」
「そうかな、ぼくもシベリアの話は聞いたけど満州の話はきいたことがなかった」私は苦笑して言った。行商から洋服店を開いた叔父は村では立志伝の人物だった。シベリアでの自慢話はよく聞いたが、そういえば満州については、ただの一度も聞いたことがなかった。
「それでちっともしらなんだけど、ここにくるとうちの人に会えるような気がするんな」
「そうですか、それはよかったですね」私は、相好をくずして言った。そうして恩師の告白は、いまは私の胸の奥に仕舞っておこうと思った。