熊谷元一研究



白髭明神夢奇譚
  熊谷元一と佐々木積


下原敏彦



白髭大明神は、一一八段の石段の境内に鎮座し、青雲を見守った。

むかし近江の国の湖水のほとりに佐々木源氏の流れをくむ武家一族が住んでいた。元祖は佐々木左近大夫といった。子孫は風光明媚な土地で領地を治め、平和に暮らしていた。ところが戦国時代、領地をめぐる紛争がおきた。骨肉の争いに嫌気がさした一族の長、佐々木彦左衛門は、倅采女に「もう戦は嫌だこの土地を離れよう」と提案した。心優しき采女に異存はなかった。彦左衛門父子は、一族郎党を引き連れ、争いのない地を求めて旅立った。目指すは、東国にあるという桃源郷。トクサ茂る山奥に、その地はきっとある。父子は、それを信じて山また山を越えて彷徨った。ある日、月が美しくみえる山を下り谷を渡り山峡を出でたところ、突然視界が開けた。

頭上たかくひろがる大空の果てに白銀の山脈が見えた。左手に大川の清流が流れ、右手の山腹には、やまつつじが咲き乱れていた。川と重なる小山に囲まれた原野はせまいながらも耕せば肥沃になりそうだった。

「父上、すばらしいながめです」
采女は、感嘆して大声でさけんだ。「ここにしましょう」
「そうだな、この地に決めよう」彦左衛門も、大きく頷いた。
家族は、歓声をあげた。長い放浪の旅が終わった。
「この地にわれらで桃源郷をつくろう」父子は、誓った。

由来書にはこのように記してある。
天文年中迄近江に住居仕り候処、一朝国乱に遇い一戦に利を失い、子孫同苗彦左衛門、同倅采女浪々の身となり、故郷を退き右方左方と経巡り終わりに当駒場村の内曽山と申すところに落着、住居を定め武を捨て農事に謹み/(『阿智村誌 下巻』
※曽山=山が重なるの意。

佐々木一族は、この地に住居を定め、武士を捨て、百姓となって農事に励んだ。おかげで開墾の土地は広がり立派な屋敷もつくれるほどになった。余裕ができると、彦左衛門は、集落の守護神を欲しがった。近江の守護神白髭大明神を、分社して迎えたかった。だが、その夢叶わず彦左衛門は没した。

天正十年三月、采女は、父の遺志をつぐべく近江に里帰りし、白髭神社をかの地に迎えた。以後、ご利益で屋号四つ目の佐々木家は栄えた。佐々木一族は、農事の他に近隣の村々に寺子屋を設置し、地域の教育に尽くした。明治になってからは伊那街道駒場宿で佐々木享は、医師として地域医療に尽力した。

だが、明治の中頃、二人の息子が東京の大学に入学したのを機に一家は、屋敷、田畑、山林、白髭大明神と先祖の墓石一群、一切合財を集落に任せて東京へ移住した。そして、ふたたびかえることはなかった。現在、墓石が残るのみである/(『阿智村誌 上巻』)

だが、佐々木采女が迎えた白髭大明神は、山の中腹に鎮座して、その地を見守りつづけた。

日本の敗戦が色濃くなった昭和二十年一月二日、帝都の病院で、一人の男優が、その生涯に幕を引こうとしていた。舞台役者から映画俳優になった佐々木積だった。彼は島村抱月、坪内逍遥が設立した新劇「文芸協会」草創期の役者、歌う女優第一号の松井須磨子と同期。一時期ハルピンで軍属の露語通訳。帰国後、舞台『出家とその弟子』で親鸞役を演じた。現在は、日活や東亜シネマの無声映画に出演。そんな経歴から病室には、新劇時代の仲間や、映画関係者が駆けつけていた。そのなかに義理の娘で映画スターの夏川静江の姿もあった。

佐々木積は、臨終間際、何か言わんとしていた。何を伝えたいのか。皆は、注目して見守った。長い沈思のあと、彼は、つぶやいた。

「そ、や、ま」
それが、最期のことばだった。
佐々木積、享年五九歳。波乱万丈の役者人生だった。が、二カ月余にくる大空襲の悲劇と混乱を知らずに病院で死ねたことは幸せだった。
「おい、なんといった」瞬時のあと病室はざわついた。
「たしか、そ、や、ま、と」だれかが言った。
「なんのことか…」
だれも、その言葉の意味を知らなかった。
「地名か?」
「人の名前かもしれん」
そんな声もあったが、それっきり、その話は断ち切れた。

私は、地方紙の代理記者として、その場にいた。大学浪人で雑用係だったが、担当の記者が召集されたので急遽、訃報記事の取材を頼まれたのだ。私は、他の記者をマネて取材手帳に「そやま」と書きとめ?を入れた。はじめての取材記事、どんなふうに書こうか、あれこれ考えながら社に戻った。しかし、書く必要はなかった。訃報記事は既にできていて、報告だけでよかった。翌日、新聞の訃報欄は、このように報じていた。

◆佐々木積さん(ささき・つもる=俳優、陸軍の露語通訳、本名佐々木百千万億〈ささき・つもる)一月二日、病気で死去、五十九歳 長野県出身。新劇「文芸協会」一期生、「日本の女優第一号」松井須磨子と同期。「舞台協会」結成。映画『大菩薩峠』に出演。

他紙も、たいして変わらぬ内容だった。最期に残したことば「そやま」については、どの紙も書いてなかった。「そやま」とは何か。

二日後、私は、編集部に呼ばれた。こんどは大東亜省と省名を変えた拓務省に満蒙開拓団募集広告の版下を受け取りに行く用事だったが、また取材を頼まれた。

「ついでに、東亜第二課にいってコメントを取ってきてくれ」編集長は、言った。
「はい」私は、元気に頷いた。大本営発表は、どこまで信じてよいかわからなかったが、東亜第二課は、満蒙開拓団推進で活気があった。私自身ひそかに満州行きを熱望していた。

「どんな取材ですか」
「青少年義勇軍募集の写真班に熊谷元一という人がいる。彼のコメントがほしいのだ」
「どんなコメントですか」
「先週、俳優の訃報記事を取材したろう」
「はい、佐々木何某という珍名の俳優さんでした」
「そう、その俳優と郷里が同じというんだ。長野県出身で」
「はい、たしかそうでした。長野県出身です」
「その彼から、追悼の言葉をとってきてほしいんだ。同郷人ということで」
「二度も載せるんですか」私は、訝しんで聞いた。
「うちの新聞じゃないよ。俳優さん、ハルピンでロシア語の通訳をやってたことがあるんで、それで満州のほうの新聞で追悼記事を組むから、そこに同郷人のコメントがほしいとのことだ。彼の郷里、長野県は、満蒙開拓には積極的だから、開拓団募集の宣伝にするんだろ、開拓団を積極的に募集してるからな」編集長は苦笑して言った。「その熊谷元一という彼、朝日新聞社から村の写真集をだしているんだ。これがなかなか評判がいい。資料室にいって見ておくといい。『会地村』という本だ」

私は、その足で、資料室に行って写真集『会地村』をみた。山村の日常生活をしっかり観察した、これまでにない斬新な写真集だった。元農林大臣が序文を書いている。私は衝撃を受けた。この写真集から二つの感想を得た。一つは、日本には、こんな豊かな楽しげな村がある。何故、海の外にゆかなければならないのか。そんな疑問と、もう一つは、満州に、こんな桃源郷のような村をいくつもつくれたら。この村は、満州国建国の見本になるかも。そんな相容れぬ二つの想いだった。

撮影者に興味を持った。熊谷元一、どんな人物だろう。私は足どり軽く社屋をでた。新聞は、いまは本当の事が書けない。書けるとすれば景気のよい満州か、東南アジアの独立戦争ばかりだ。聞きとりは、臨終に立ち会った人なので気は楽だった。

大東亜省は、宮城前の桜田門のところにあった。日比谷公園を横切って省庁の建物に入った。病室にいただろうか。信州の山村から中央官庁の官吏になっている。あんな写真も撮れるひとだ。よほどキレれる人に違いない。村では一番の出世頭。そんなことをおもいめぐらせて、正月明けのざわつく省内に入って行った。

熊谷元一は、待っていた。編集長が連絡しておいてくれたのだ。坊主頭の、背の高いおとなしそうな人だった。見た目は老けていたが三十六歳だった。若造の私にも、丁寧に頭をさげた。そして、少し頼りなさげな笑みを浮かべて「くまがいです」と言った。
「ささきつもるさん、なくなられたのはご存じでしたか」私は、少し緊張気味に質問した。

「はあ、新聞で知りました」
「こんど満州の方の新聞に特集で追悼記事が載るというんで、同郷の人のコメントを載せたいといってきたんで取材にきたんです」
「承知してます」熊谷元一は、言ってから困ったように苦笑した。「ささきつもるさんとは、同郷は同郷ですがわたしの生れる前に村をでていった人なんで、まったく知らないんです。交流ありませんし。お名前は、有名人だから知っておりますが。養女の夏川静江さんは大スターでしょ」交流はなかったようだ。

「そうですか」私は、ちょっぴり落胆しながら、質問を探して聞いた。「どうして、村をでていったか、わかりませんか」
「それは、きいています。長男さんが大学に入り、二男のつもるさんも。早稲田の露文科に入学したんでそれで一家をあげて東京に移住することになったそうです」
「子どもふたりを大学に。父親の職業は」
「お医者さんときいています。四つ目屋敷という立派なお屋敷があったそうですが、それもいまはありません」
熊谷青年にとっては、佐々木積は、生れる前の人、一家をあげて故郷からでていった人。それっきり付き合いもなさそうだ。寡黙過ぎる熊谷青年からこれ以上コメントとるのは無理に思えた。私は、あきらめて、取材手帳を閉じかけた。が、先日の?を思いだして、その頁をひろげた。そやま、と書かれていた。私は質問した。
「最期に、そ、や、まって言い残したんです。わかりますか。そやまがなんだか」
「そやま、ですか!」眠そうだった熊谷青年は、一瞬、目を輝かせた。

「知ってますか」
「はい」
「なにです、そやまとは」
「つもるさんの生まれ育った土地の名ですよ」熊谷青年は、にわかに生き生きして言った。「ちいさな山が重なるようにあるところなんです。それで曽山といいます。曽山には、十七戸の集落があります。私の親戚の家もあって、リンゴや梨をつくっておりましたから、子供のころよく遊びにいきました。つもるさんがおった屋敷あとはありませんが、屋号は四つ目といいますが、その四つ目の祖先が祀った白髭神社と一族の墓は、いまもあります。」
「生れ故郷だったんですか。そやまは」
「そうです」
「よほど楽しかったんですね。臨終のときに思い出すくらいですから」
「そうです。いいところです」熊谷青年は、きっぱり言った。
「熊谷さんのお家は」
「駒場という宿場があって、そこです」
「そこから、曽山に、あそびに」
「そうです、こどもの足で二〇分もあれば行けますから。長い吊り橋があるから渡るのが楽しみでした」
「曽山では、佐々木積氏の話はでないのですか」
「養女の夏川静江さんの話はでます。大スターですから。でも積さんのことは、俳優でも脇役ばかりでしょ。村からでた人はだんだん忘れられていきます」
「東京にいってから、村に帰られたことはないんですか」
「あります。一度だけ」
「えっ!あるんですか」
「はい、白髭様で」
「神社にきていたんですか」
「はい、子どもの頃あそんだところで懐かしいからと。そのときは、こっそり帰ってこられたようです。部落のものは、だれもしりませんでした」
「ほんとうですか」私は驚いた。
「はい、子供のころで、はっきりとは覚えていませんが、たしかささきつもるという人でした。同級生もいたんで、記憶にあります」

そう言って熊谷青年は、佐々木積に会ったときのことを思い出しながらこんなふうに語った。

あれは大正のはじめのころだったと思います。わしは学校から帰ると曽山に遊びにいきました。親戚のいえがあったんで。曽山にいくには吊り橋を渡る楽しみだった。曽山には、同級生がいた。親友のヨシオとヨシオのイトコのトシエだ。トシエは名主の娘で、うえに頭のいい兄が二人いた。ヨシオとトシエは仲良しだった。わしは一人っ子なので、ヨシオが羨ましかった。駒場のまちでは、わしはときどき悪がきたちから

もといち、もといち、ひとりっこ
いまでも、
おっぱいのんでおる。
いまでも、
おっぱい、のんでおる

なんてからかわれていたが、そやまでは、そんなことをはやしたてる悪がきは、ひとりもおらなんだ。ヨシオは算数がとくいだしトシエはつづりかたがうまかった。わしは絵を描くのがすきだった。三人、別なものがとくいで、それで気があった。わしはトシエのことがすきだった。なんの話だったか、そうだ、つもるという人に会ったときの話だった。

その日、がっこうから帰ると、わしら三人は白髭様の土手にわらびとりにいった。晩春の午後の日差しが暑かった。わしらは水を飲みに境内に入っていった。一人の青年が百十八段の石段の最上段に立って東方にひろがる風景を眺めていた。知らない人だった。ピンクのレンゲ田、青い麦のじゅうたん。白髭様から眺める風景は絶景だった。山裾の桑畑の波、桃やリンゴの色とりどりの花。山腹には、コブシやつつじ。遠くに賑わう駒場宿の屋根や商店の旗々。そして、遥か遠くの地の果てには銀嶺の山脈。まさに桃源郷をおもわせる風景だった。

「びっくりさせまいかな」いたずら好きのモトイチは先にたって青年の後ろにこっそり近づいていった。ヨシオとトシエもあとにつづいた。

「ワー!」モトイチは、いきなり大声で叫んだ。青年は、ぎくりとして振り向いた。いつのまにきたのか三人の子供が、おかしそうにみあげていた。三人とも腰にビクをつけていた。

「ああおどろいた。おどかしただろう」
「にんじゃごっこしてたんだ」

とたん、青年は、芝居がかった口調でうめいて倒れかけた。
三人は、びっくりしてにげようとした。
「まてまて、お芝居だ」青年は、笑って立ちあがると、言った。「これでおあいこだ」
「なあんだ、ほんとうかとおもった」
「うまいだろ、たおれるのが」青年は、ニヤニヤして三人のびくをのぞきこんでいった。「ワラビとりか」
「そうずらが。おじさん、だれ?」モトイチは、聞いた。
「曽山のひとだよ」
「うそだ、知らんに」トシエは言った。曽山集落は十七戸。みんな顔は知っている
「昔、住んでいたんだ」
「いまは?」
「いまは、東京にいるよ」
「なんでここにいるの」
「なつかしいからさ、お参りにきたんだ。わらびとり、きくらげ集めもやったよ。ぜんまいはとらないのかい」
 なにかくわしそうなので三人は、一気に興味をなくした。
「むかしのそやまのひとか」そういって、ふたたびワラビ採りにもどろうとした。
「きみたち、もっと話そうよ」青年は、呼びとめてきいた。「どこのうちのこだよ」
「しってんの?」
「すんでいたからね」
「おらあは、志茂屋」ヨシオは胸を張った。
「ああ志茂屋か。しもはらだろ苗字は。酒屋さんをやっていたよね」
「知んねえ、いまはおカイコさまかっとる」
「きみは」
「おらあの家は、駒場の上町なんだに」モトイチは、胸を張って言った。
「ほう、上町からきとるんか」
「ふくしまやが、親戚だもんで。いつも遊びにくるんな」
「ふくまやは、しってるよ」
「どうして」
「ささきって苗字だろ。ぼくもささきだからね」
「しんせきなの?」
「かもしれないね。むかしは。四つ目は知ってるかい」
「きいたことはあるけど、むかしすんでた人だって」
「大昔だよ」青年は、笑って言ってから聞いた。「上町はどこだ」
「わかるの」
「わかるさ、こまんばのことは、みんなしっとる」青年は、うれしそうにカッカと笑った。
「中屋な」
「ああ、小池さんのとこか指物の大工さんだよね」
「うん、そうだけど小池でねえ、くまがいだ」
「熊谷?」若者は、考えた。
「ようしにきたんな、おとうさんが」トシエが言った。
「それならどうして、くまがいなんだ」
「おかあのニイ様が満州にいってるんな。それであけておくんな」
「ほう、そんなことまでわかっておるんか。たいしたものだ。で、ぼくの名前は」
「くまがいもといち」
「もといち、か、どんな字を書くんだい」
「元気の元に一番の一ずらに」
「このこのお母さんのおかあさん、体弱かったんだって、それで元気が一番ってつけたんだって、うちで聞いたよ」
「いろいろしってるんだね。おりこうさんだね。なまえは」
「わたしは、ささき としえともうします」
「ささきというと。ふくしまやではないんだね」
「うん、あそこ」女の子は、左下方を指さした。黒塀の大きな屋敷の庭にかたちのよい松の植木がある。ふくしまやの下の下のうち」
「ああ、上屋敷の子か。それじゃおりこうさんのわけだ。あの家の子はみんな賢かった」
「どうしてなんでもしってるの」
「だから、ここにすんでいたからさ」
「おじさんの家は、どこな」
「もうないよ、すっかりおやまにかえってしまった」
「ないの、どうするの。どこに泊まるの」
「これから東京にかえるよ。それから満州にいくんだ」
「えっ!いいなあ」
「開拓団にはいるの」
「いや、おじさんは通訳のしごとさ」
「つうやく?」
「外国の言葉を日本語にかえて話す仕事なんだ」
「外国語、はなせるの」
「ちょっとね」
「満州の」
「満州は中国語だけど、中国語ではないよ」
「じゃあ、どこの国のことば」
「ロシアの国のことばだよ、ロシア、わかるかな」
「知ってらあ、日本が勝った国だ」モトイチとヨシオは元気にいった。
「よく知ってるね」
「ロシアの歌もしってる」
「カチューシャ可愛や」モトイチ少年は、得意げに声を張り上げる。
「ほう『復活』の歌だね、しってるんか」
「どうしてロシア語ならったの」佐々木トシエはきいた。
「ロシアの小説を読みたかったからね」
「どんな本」
「ドストエフスキ―は、知ってるかい」
「とるすといなら、しってる」
「おれも知ってる」
「がっこうでならったばっかしだ」
「そうか、ドストエフスキイは人気ないからな」青年は、苦笑してつぶやいた。「これからは革命バンザイの時代か」
「ろしあってどこにあるの。とおいの」
「うん、とおいよ」青年は、言ってから「ぼくがいくのは、ロシアじゃない、満州のハルピンというとこさ。満州は、にあるんだ」
「満州ならしってるよ」
「なんでも、しってるんだね」
「おかあのおニイがいってたって」モトイチはいった。
「そうか、これからは満州だからな。日本の生命線。わかるかな」
「わかんない」三人は、声をそろえて言った。
「こんどは、いつくるの曽山に」トシエは聞いた。
「さあ、いつになるかな。大陸にわたったらどうなるかわかんないからね。それで、白美様にお参りにきたんだ。白髭大明神は、ご利益があるから」
「ほんとに」三人は、瞳をかがやかせた。
「ほんとうさ、おじさんも東京に行くまえ、お参りした」。
「おじさんのなまえは」
「苗字は、同じささき、名前はつもるだよ」
「つもるってどんな字」
「むずかしいぞ、漢字ならったかな」
「少しなら、かけるに」
「ほう、かんしんだね。数の数え方しってるね」
「いち、じゅう、ひゃくのこと」
「そうそう、百からはじめて、百、千、万、億って書くんだ」
「ひゃく、せん、まん、おく」
「そう。百、千、万、億って書くんだ」
「ひゃく、せん、まん、おく。それで、つもる、へんななまえ」
「へんか、やっぱりな」青年は、笑った。「じゃあ、さようならだ、じゃない。ここでは、あばな、か」

彼は、手を振ると、周囲の景色を瞼に写し撮るように、じっくりながめながらゆっくり石段を下りていった。
三人は、黙って青年を見送った。

「あのあと満州に行ったんでしょう」熊谷青年は、思いだして言った。「しばらくハルピンで通訳やってたって話、ききました」
「でも帰ってからは、また役者に復帰したんです。やっぱり天職は役者とわかったんでは」私は言った。「満州、ぼくも行きたいです。青少年義勇軍募集してるんでしょ」
すると熊谷青年は、にわかに表情を堅くして否定するように言った。「大変なところですよ。満州は」

熊谷元一は、このとき満州のプロパガンダ写真に疑問を抱いて、官吏の職をやめようと考えていたのだ。そして、実際、六月に退職して、郷里に帰った。だが私は、知る由もなかった。本社に戻りながら、いつかその「曽山」という土地を訪れたいと思った。しかし、時代の荒波のなかで、曽山への思いは忘れ去った。

積青年が白髭神社を詣でてから三十二年の歳月が流れた。

昭和二三年五月、伊那谷にも復興の足音がきこえはじめていた。会地村駒場曽山部落の西端にある白髭神社は、山桜とつつじの花盛りだった。時刻はひるを過ぎた頃。氏白髭様の急勾配の石段を、ゆっくり周囲の景色をながめながら上っていく中年の男女がいた。都会風の洋服を着た美しい女性と背広姿の青年だった。二人は、眼下にひろがるレンゲ田と、はるか遠くにつらなる赤石山脈、その上にひろがる大空の青さ。このコントラストに足をとめては感嘆していた。映画女優の夏川静江と弟の夏川大二郎だった。二人は、十三キロ離れた飯田城下の大火の慰問にきた帰り、四年前に亡くなった義父の故郷が近いと知って、車を頼んでこの集落まで足をのばしたのだ。

「ねえさん、足気をつけて」
「ありがとう、この石段。ほんとに急ね」女優は、ハンカチで汗をふくといった。「でも気持ちいいわね。とっても」
「義父さん、きっとこの景色を思いだしたんだね」
「あのときは、だれもわからなかったわ」姉は言った。「義父の最後の言葉」
「そ、や、ま、といったんでしょ。ぼくにはきこえなかったけど」
「わたしには、はっきりきこえたわ。けど、わかんなかった。地名だったのね。ここの」「義父さん、この景色みて育ったんだね。こんなすばらしいもの、みたかったんだね」
「そうね。みたかったんでしょうね」姉は、頷いてから言った。「でも、一度帰ったってきいたことある。劇団解散になって満州に行く前に」
「それなら、よかったね」
「そのとき、ここから、こうしてながめたんでしょうね」
「満州、どうして行ったんです」
「軍属でロシア語の通訳してたときいたけど、ほんとうは、馬賊になりたかったんですって」
「へえ、
「でも、母さんと結婚するんで、帰ってきたんでしょ」
「そう、馬賊より母さんをとったのよ」姉は笑って言った。「それと演劇を」
「「満州からかえってすぐ舞台で親鸞をやったったんでしょ」
「私は、小学生でわからなかったけど、評判よかったみたいよ」
「親鸞か」大二郎は、羨ましそうにつぶやいた。「カラマーゾフの兄弟が下地だっていうから、どうしてもやりたかったみたいね」
「父さんロシア文学が、好きだったんだね」
「そう、とくにドストエフスキイが好きだったわ。読め読めってすすめられたけど、まだ読んでないの」
「元気だったら『白痴』で役もらえたかもね、お父さん」
「そうね。黒澤監督は、愛読書ドストエフスキイだっていうから」
「でも、こんどの『白痴』、失敗作らしい。評判、めっちゃ悪い」
「そうね。でもわからない。あの監督の映画は」
「ドストエフスキイか…」大二郎は、つぶやいた。「読んでみようかな」

そのとき下方で声がした。見降ろすと、子どもが三人、鳥居をくぐって石段をのぼってくるのがみえた。山菜とりのようだ。腰にびくをつけている。息をきらして上がってきた三人のこどもたちは、不審そうに二人を見上げた。
「こんにちは」姉はいった。
 三人は黙ってうなずいた。
「何年生」「
「一年生」
「せんせいのなまえは」
「くまがいもといちせんせい」いびつ頭の子は、つかえながらいった。
「わたしたちのせんせいは、まだきまっとらん」女の子はいった。
「そうなの、どうして」
「びょうきになったんで、あたらしいせんせいをまっとる」
「そう、はやく、くるといいわね」姉は、女の子にたずねた。
「あなたのおなまえは」
「わたしは、ささきちずこともうします」
「あら、わたしも、もとは佐々木よ」
「ほんけも、ささきだに」
「そこ、おらほのおかあのうちだ」
あたまがいびつな男の子は、つかえながら言った。
美しい姉は、笑っておさげの女の子に聞いた。もう一人のおとなしい子は、黙ったままうなずいた。
「みんなしんせきなの」
「そうだに」女の子は、うなずいた。
「どこからきたんな」ヒロシは、きいた。
「わたしたち東京からきたのよ。きょうだいよ。飯田にお仕事で」
「そやまにはなにしに」
「佐々木っていう人のうちにきたの。もうないけど、ここに住んでた人よ」
「ささきはいっぱいある」
「そうみたいね」姉は、笑っていった。「住んでた人は、むかしいた人よ」、
「むかし」
「そうよ、むかし、むかし、ずっとむかし」
「なんて名前」
「ささきつもる。つもるはね、面白い字なのよ」
「どんな」
「百、千、万、億って書いてつもるとよむのよ」
「へんな名前」
こどもたちは、そう言い残すと駆け足で石段を上っていった。

「浦島太郎ね。わたしたち」姉はいって石段をのぼりはじめた。二人は境内に入り、神社にお参りすると、石段脇の小道を下った。右手の梨畑の土手で、背の高い若者が草刈をしていた。
「あの人にきいてみましょう」姉は、足元に気をつけながら、梨畑に入ると、若者に声をかけた。

「お仕事中、すみません」
「はい、なんでしょう」中学生は、待っていたように答えた。そばに「福島屋」と書かれた背負いかごがころがっていた。元一少年が遊びにきていた親戚の家の息子か。
「昔、こちらに住んでいて、東京にいったというお家は、どこですか」
「いつごろの話ですか」
「もうずいぶん昔です」
「むかしですか…」中学生は、ちょっと考えてからいった。それって四つ目屋敷のことでしょう」
「よつめ、ですか」姉は、驚いてきいた。
「やごうですよ。このへんは、みな屋号で呼びます」
「そうですか。その家は、どこに」
「わたしもよくはしりませんが、あのへんにあったときいています」
彼が指さす山峡の棚田にはレンゲの花が咲き乱れていた。

四年の月日はたちまちに過ぎた。

戦後、熊谷元一は、東京には戻らず、村で教職についた。そうして、教え子や村人を写真に撮って記録した。子どもたちの遊びや風習を童画にして残した。定年前、元一の父栄吉が亡くなると、元一は積の父、佐々木享と同じように、突然一家をあげて東京に出て皆を驚かせた。村人は元一も享も村で老後を悠々自適に過ごすとばかりおもっていたのだ。熊谷元一は、なぜ、故郷を離れたか。佐々木享の場合は、なんとなく理解できる。二人の息子の夢を叶えてやりたかったのだろう。明治中期、変わりゆく日本の姿みせてやりたかったのかも。

熊谷元一の東京行きは、いかなる動機からか。

元一は、故郷を離れても、故郷会地村と関係を持ちつづけた。会地村と教え子たちをとりつづけた。その様子は一九九六年十一月二四日NHKテレビ「教え子たちの歳月」で放映された。下原嘉男は、戦地から戻ると役場に席はなかった。が、村議となって村の為に尽くした。曽山に車が入れる橋をかけたのも、老朽化した吊り橋を永久橋にしたのも彼の仕事だった。冬場は、猟師だった。

一九九七年四月二十日、熊谷元一は、下原嘉男の二男から、ヨシオがなくなったと知らされた。米寿である。故郷は遠かった。元一は二男敏彦、に弔辞を託した。

左記は、熊谷元一が下原嘉男に送った弔辞である。(原文のまま)


下原勝弘様  皆様


新緑の美しい季節になりました。
昨夜、敏彦君から電話でお父様がおなくなりになられましたことを知りました。
思い出しますと、昭和十三年の拙書『会地村』にお勤めになっておられるところと、
めん羊を見ているところが写っています。
まゆ代が一貫め十二円以上していたのが、二円にまでさがり、なんとも暗い時代でありました。
そんな折り、率先して一頭六十円もするめん羊を三頭も入れ、この苦境を乗りきろうとした新しい意欲を思います。
その後、村会議員をつとめられるなど村のためにもつくされました。
なお忘れられない一つハ、小学三年生の時、一人一人うたう唱歌の試験の折り、
勉強はよくできましたが、私同様、唱歌は大の苦手、いまうたっている唱歌がなかなかうたえず先生から
「君が代」をうたえといわれ、しかたなく赤い顔して、
キミガヨハ ヤチョニ ヤチョニ …といった八十年も前のことがまぶたにうかびます。
なつかしいなア、はるか清瀬の地からご冥福をお祈りします。

平成九年四月二十日  熊谷元一


一九九九年六月、熊谷元一(九〇歳)と妻の貞子は、清瀬からタクシーで池袋に向かった。教え子の一人が、東京芸術劇場中会議室で開催された「ドストエフスキイと現代の問題」のシンポジュウムで研究発表すると聞いたからである。

車中、元一は、なぜか佐々木積のことを思った。積がロシア文学をやり、ドストエフスキイの作品を舞台で演じたときいていたからである。親鸞役が後世に残っている。だが、脳裏に浮かんだのは子どものころ遊んだ曽山の白髭神社だった。トシエやヨシオと遊んだ石段や境内。そこには、自分たちとはふたまわり年の離れた佐々木積も子どもとなって遊んでいた。

そのとき元一は、自分と佐々木積の距離が近づいたのを感じた。佐々木積は、会地村をスタートに、東京、満州、そして東京に戻って逝った。元一は、会地村を皮切りに、東京、満州、東京から会地村に、そしてふたたび東京に戻った。変転した二人の人生だったが、その足跡は同じだった。不思議な因縁を思う。二人の目指した世界。写真と映画。絵画と芝居。相対したが、二人がめざしたものは、曽山という桃源郷だった。

二〇一〇年十一月六日

よく晴れた晩秋の午後。

熊谷元一は、老人介護施設の一人部屋でベットを少し持ち上げぼんやり武蔵野の空をながめていた。どこが悪いというのではないが三日間前、なんとなく体の不調を感じたことから、清瀬の自宅から、そう遠くないこの老人介護施設病院に思いきって入院した。妻の貞子は三年前、亡くなった。性分が独立独歩の性格なので、そのときにもしかのときは、と、申し込んでおいたのだ。

先ほど、ことし五歳になるひ孫が長男夫婦と面会にきた。すっかりわんぱく坊主になったひ孫は、入ってくるなり
「じいちゃん、きたよ」と、叫んで元気に駆けよってきた。
「ほう、きたか」元一は、おどけ顔をして叫ぶとからかうようにきいた。

「わしは、いくつだ」 
「ひゃくいっさいだよ」
ひ孫は、そんなことぐらいはしっているぞ、といわんばかりに胸をはって答えた。
「ほう、百一歳か」元一は、おどけたように言った。「そんねん生きたのか」
「いやですよ。おじいちゃん、そんな言い方しては」後から入ってきた長男の嫁のいく枝は、叱るように言ってほほ笑んだ。

彼女は、元一が教師を退職し、東京の清瀬に家を建て妻の貞子と故郷の長野県から越してきて以来ずっと同居してきた。出版社に勤める夫は多忙でほとんど家にいなかった。彼女は、二人の子どもを育てながら、熊谷元一という写真家・童画家の秘書となって働いてきた。出版社の打ち合わせや来客の予約や接待。作品展の案内など。彼女が一人で切り盛りしてきた。元一が写真家・童画家・教師といった三足のわらじをはいてきた人生なら、彼女もまた、熊谷家の嫁として、二人の子供の母親として、そして熊谷元一の秘書として三足のわらじをはいて熊谷元一という一人の芸術家を支えてきた。それだけに、どこか厳しい口調になるが、元一は、意に介さない。

「えれえ、いきたもんだなあ」
と、のんきそうにつぶやいた。
「まだまだ、大丈夫ですよ」遅れて入ってきた孫夫婦は、そう言って笑う。「だって、どこも悪くなかったんでしょ。検査では、どこも」

実際、そうみえた。坊主頭の髪は、白いものが多くなったが、六十代のときと変わらない。顔色もよく、とても百歳を超えているようには見えなかった。元一は、生涯を通じ病気らしい病気をしたことがなかった。ひとりっ子で育ったが、ひ弱ではなかった。入院経験は、七十三歳のとき脱腸手術のため市内の病院に一度入院したきりだった。歳とって尿が近くなったことを除けば、体は、子どものときからすこぶる丈夫だった。体で悪いところといえば右目が乱視で、徴兵検査のときに乙種だったことぐらいだ。白寿をむかえても歯も丈夫なら、耳も聞こえた。目は右目は乱視だが、左目は眼鏡なしで新聞が読めた。電話番号も一度聞けば、局外から暗記できた。それらは百一歳になっても変わることはなかった。

そんなわけで、このたび入院となっても息子夫婦は、一過性のことだと思って、それほど心配しなかった。すぐに退院して、いつものようにカメラを手に清瀬の町に出ていくと思っていた。誰の目にもそう見えた。足腰は弱ってもまだ自転車には乗れる。写真は撮れたし、頼まれた童画もまだ描けた。

にぎやかだった見舞客が帰えると病室は、急にひっそり閑とした。元一は、じっとしていることが嫌いだった。足さえ動けば、自分は、まだまだ仕事ができる。そんな自信もあった。しかし、いま介護施設の病院のベットに横たわっていることは現実だ。百一歳の人生、振り返れば「人間万事塞翁が馬」のような人生だった。傍目には、写真家として功なり名を遂げた人生、よしとしたいところだ。しかし、何かもの足らなかった。やり残したことがあるような、気がしてならなかった。

もう一度、生まれ育った故郷の村を見たかった。緑の城山を仰ぎ見ながら駒場宿の街を歩いてみたかった暗くなるまで遊んだ阿知川の河原。おかいこ様の世話をするお父とお母の横で、絵を描きながらねむった夜。桑つみに渡った一本橋。曽山の白髭神社の石段の最上階から、はるかな赤石山脈を眺めてみたかった。

はるか赤石山脈の上にひろがる大空とたなびく白雲。山間の街道にひしめく駒場宿のにぎわい。佐々木トシエの顔。下原ヨシオの顔、みんな子供時代のままだ。それらが走馬灯のように思いめぐった。もう一度みたかったふるさとの山々。だが、できぬ相談だった。元一は、あきらめきれない気持ちで窓外の空をあおぎみた。

武蔵野の大空は、あくまでも高く青く澄み渡っていた。その青空に元一は、思わず声を大にしてつぶやいた。

ふるさと 会地村が なつかしいなア

なつかしいなア、百千万億の声がこだましてかえってきた。