文芸研究W・熊谷元一研究No.70


  写真雑誌『アサヒカメラ』座談会 1941年

下原 敏彦

『アサヒカメラ』は、1941年という風雲急を告げる時代に「日本精神と写真の行くべき道」と題した座談会を開いた。司会は、本誌の松野志気雄氏。出席者は、写真家・福原信三氏、小説家・中河興一氏、歌人・土岐善鷹氏、この著名な3人に加え、若手の写真家2名が出席した。1人は、文化振興会の嘱託、写真家の土門拳氏(31)もう一人は、拓務省(大東亜省)嘱託で満州写真班の熊谷元一(31)だった。熊谷元一は土門拳と新進若手写真家として出席、自分の写真信念を述べる。この年の12月8日、日本は真珠湾攻撃をして、世界に宣戦布告した。1941年、日米英開戦近し、八紘一宇をめざし一億総玉砕をも恐れぬ日本。こんな時代の写真は、どうあるべきか。それぞれの気持ちがわかる。座談会である。このとき熊谷31歳。拓務省に勤めて3年目、写真で生活できるようになっていたが、この時代における写真撮影をどう考えていたか。熊谷元一研究には、貴重な資料である。座談会から、熊谷の話のか所を拾ってみた。(若手なので発言は少ないが、写真をはじめた動機と目的を話している)

以下、座談会からの抜粋

松野 こちらの熊谷君は、昭和13年に朝日新聞社から
『會地村 一農村の写真記録』という本を出しました。これは會地村をいろいろな角度から撮って纏めた本で、最近、翻訳されてドイツへも行きました。それまで全然無名の熊谷君のこの作品が非常な反響を呼んで、有馬(農林大臣)さんなどは非常に推奨されて、ぜひ會いたいということで、私が熊谷君を連れていっていろいろお話をしたこともあります。写真家としては無名であるかも知れませんが「土」に対する非常にシッカリした考え方をもっておられて、しかも『會地村』に使った写真は、全部パーレットの単玉でもって撮られた。夜の写真でもなんでもみんなパーレットの単玉で撮られたのです。
<略>
松野 さっき愛情がなければならないというお話がでましたが、前に申し上げたように、熊谷君は、恐らく郷土に対する愛であれだけの写真を撮られたと思うのです。そこで、あれを撮られた動機とか、いろいろな苦心談などを伺っておくのも、一派名写真家のために参考になるのではないかと思いますから、一つそのお話をして下さい。

熊谷 あれを撮った動機といいますと、自分は村にズッと永く住んで居ったけれども、村のためになるようなこと、村のお役に立つような仕事なんか、全然していない。何か一つ自分に出来る仕事で村のためになること或いは村の記念になるようなことをしたい。かういうことを以前から考えていたんです。初めは写真なんていうことを全然考えずに、文章とか統計で村史を作ろうと思って、いろいろ文献を漁ったりしたんですけれども、一ト月ぐらいやったら、どうにも仕事が多くて、それに自分の性格に合わないために、とうとう駄目になっちゃったんです。そんなことをしている時に、村に写真機屋が出来たので、僕は写真を撮ろう、みんながやるんだから、僕だって撮れぬことはないと思って、その材料屋へ行ったんです。そうして、素人でも撮り損ないのない一番ラクに撮れる機械はないか、僕は初めからうまい写真を撮らぬでもいい、多少ボケて居ってもいい、なるべくラクに撮れるのを世話してくれといったら、そんならパーレットがいいでしょうということで世話してくれたんです。それでいろいろ撮ってみると、自分で思ったよりハッキリ写ったんで、これは、まえに作ろうと考えた村史を写真でやったら面白いんじゃあないかと思って、それからコツコツ始めたんです。初めに村史を作ろうと思った時に、文章と統計はどんなふうに集めるというプランを、郷土史の調査法というような本で見て立てていましたから、それに従って文章を写真に置き換へてやったわけなんです。とにかく自分の村のことですから、一切の行事が全部チャンと頭にあるわけでずいぶん都合がよかったと思います。同じ写真を撮るにしても、旅の人なんかだと、着いた日に天気具合がわるければ無理をしたり或いは永く逗留しなきゃあならないんですが、自分は天気の一番いい条件の時に撮れるし、同じ人を写すにしても、見た目にいくらかでも美しいと思われるような場所と時を選んでやれたんです。動機は、そういうただ村のためになるような仕事をしたいということから始まったんで、なにも朝日新聞社から本を出していただくというような、そんな大それた考えじゃあなかったんです。村に一冊、自分に一冊、自分で引きのばした写真帖を作ってみたい、そんな考えだったんです。

写真集『會地村』朝日新聞社刊(1938年・昭和13年)に当時の農林大臣が序文を寄せた。

今まで試みられなかった得がたき作品  農林大臣・有馬頼寧

時局下(じきょくか)に於ける農村の感激措く能(あた)はざる努力と、益々重要性を増すその地位とに対し、世人の認識の一層深からむことを望むの時、東京朝日新聞社に於いて農村記録写真「會地村」を刊行せらるることは真に喜ばしき企てとして感謝にたえない。写真は信州伊那谷の一農村の青年が、その村の環境を有りの儘に写した努力の結晶である。農村の機構、農業経営、農村生活等を、難しい統計に表した研究調査に比べて、ただちに何人にも分かり易いこの記録写真は、今まで試みられなかった得がたき作品として、撮影者及び之が犠牲的紹介に努力せられた東京朝日新聞社に対し、深く敬意を表する次第である。

その後、『農村文化』(昭和18年1号)にも以下の感想を寄せている。

元農林大臣 有馬頼寧

先に出た『農村文化』(農村漁村文化協会発行)を見て見て私を驚かした一つのことがある。それは此本の装填、口絵、挿絵の筆者が熊谷元一君であることだ。巻尾に画家の言葉として熊谷君が此本の挿絵を画くについての真剣な心構へを述べて居られるが、何時の間にこんなになられたのかと、私は驚きやら喜びやらで胸のときめくのを覚えた。そのわけは、今から五年前私が農林省に在職中、朝日新聞社が熊谷という長野県の一青年の本を出版するについて序文を求められたことがある。それは会地村という本だが、熊谷という農村青年が、写真をとり、文を書き、画をかいて、会地村の一年間の状態を詳細に述べた一農村記録なのである。私は非常な興味をもって此本を奨励し、両陛下の御手元まで差し出した位で、其後長野県に旅行した時、会地村を訪ねたいと思ったら、当時熊谷君はすでに村を去り、拓務省で働いてをられるといふことで思い止まったことがある。
(熊谷元一研究 2014年 創刊号から転載)

(岩波書店 桑原涼氏より資料提供を受けました)