文芸研究W下原ゼミ通信 No.28(日本大学藝術学部文芸学科・下原ゼミ2017年6月2日発行) 

熊谷元一研究 新資料  <熊谷元一の大親友>

戦没画家・市瀬文夫

 
    
市瀬文雄「黒衣の婦人」
 2017年4月1日東京四七会にて講談・神門久子、台本・ 牧内雪彦による「戦没画家・市瀬文夫」の口演が開催されました。その講談禄が南信州新聞2017年4月14日〜4月28日まで5回にわたって掲載されました。市瀬文夫と熊谷元一は飯田中学からの親友であったので、口演の中には熊谷元一がしばしば登場します。(青の部分は講談録からの抜粋)
「無言館」(窪島誠一郎氏により、信濃デッサン館の分館として平成9年に開館した美術館。第二次世界大戦中、志半ばで戦場に散った画学生たちの残した絵画や作品等を展示)の中でも特に注目され、無言館を代表するとまで言われている大作「黒衣の婦人」を描いたのが市瀬文夫です。上野の美術学校生の卒業制作で、最優秀の栄誉を受け、奨学金賞に輝いた作品でした。
市瀬文夫は大正3年に長野県下伊那郡山本村の農家に生まれました。幼いころから絵が得意で、農家の息子にもかかわらず、両親の許しを得て飯田中学に入学。ここで熊谷元一と出会います。
こうして飯田中学生になった市瀬文夫。山本村からおよそ12`の道を自転車通学です。もっと遠く駒ン場の方面から走ってくる生徒たちと待ち合わせ、集団になって自転車通学するのでした。その中に文夫が最も親しくなった熊谷元一さんがおります。熊谷元一さんに誘われて入った《創作部》。今日なら部活の美術部とか美術班でしょうが、飯田中学では創作部と云ったようです。

 
妻の像
 たちまち頭角をあらわした市瀬文夫は東京美術学校洋画科に入学し、在学中にも今でいう日展に連続入選を果たし、トップの成績で卒業しました。卒業と同時に市瀬文夫は結婚します。相手は富士見台のキャンプ場で出会った岐阜県中津川の女性でしたが、偶然にも二人が並んだ瞬間を熊谷元一が写真にとっていました。それが機縁で文通が始まりゴールインに至りました。昭和14年、市瀬文夫は和歌山県立粉河高等学校の図画教師になります。ある秋晴れの日曜日、自宅に遊びに来ていた生徒たちと談笑しているうちに、文夫は飯田中学時代の思い出がしきりに思い出されてなつかしくてなりませんでした。そんな時です。
トントンと戸口を叩き、「ごめんなんしょ、ごめんなんしょ」と叫んでいる声。
「ごめんないしょ。市瀬文夫君はおいでかな」
その声で市瀬先生は、突然わーつと大きな叫び声をあげて階段を飛び降り、戸をあけて「やっぱり熊谷元一君だ。なんと嬉しい不意打ち訪問。どうぞ、さあどうぞ上がってください。おーい文枝、熊谷元一君が来てくれたぞっ! 熊谷くんだあ!」
泣きださんばかりの感激です。夢じゃないかとほっぺたをつねります。つい今しがた遠い信州の故郷を思っていた、その目の前に、いちばん懐かしい親友が現れるなんて! 友情に理解のある粋な神様のお引き合わせなら、その神様に感謝です。やや、興奮から冷めた文夫は、生徒たちがアキレ顔しているのに気がついて、
「ああ、紹介するよ、こちら熊谷元一さんだ。中学時代の先輩でね、自転車通学でいつも一緒だった。そして僕ら夫婦を結び付けてくれた恩人、月下氷人なのだよ」
「おいおい、そのくらいにして、この俺が、突然に和歌山へ来た訳を聞いてくれよ。ようやく仕事にありつけたんだ。こう見えても今は拓務省の嘱託だよ。官費出張で和歌山県の農村調査にきたんだ」
そうなんです。熊谷さんは飯田中学を卒業後、小学校教師になりましたが、社会思想事件に関連して学校を追われ、上京して職を探しながら浪人暮らしをしていたのです。
(実際は、郷里で家業を手伝いながら、カメラで村人を撮っていた)
「挿絵や写真をもって雑誌社や出版社回りをやっていたけど、思わしくなくてね。やけのやんぱち駄目を覚悟で、拓務省に提出した履歴書に、特技は写真撮影と書いたのが大当たりだったのさ」
(実際は、評論家・板垣鷹穂に送った写真が評価され、朝日新聞社が写真集「会地村」を出版。内外で高い評価を得て拓務省の満州事業嘱託に推薦された)
「採用されてよかったですねえ。よーし、いい事を思いついたぞつ! 熊谷君の就職祝いだ。五平餅だ! おーい文枝、ミカン山行きは五平餅に変更だぞ。さあ、きみたちもお手伝いしなさいよ。水汲み、マキ割、竹の串作り、それぞれ分担をきめるぞ」
「オーケーです」「はーい」「はい」
生徒たちの元気な声を聞くと、市瀬先生もねじりはちまきして行動開始です。
「おーい文枝。ご飯が炊けたら『半殺し』の練り作業は俺がやるからな」
「はーい。お願いしまーす」
「熊谷君は大事なお客様だから、五平餅が出来るまでその辺を散歩しててください」
よほど楽しい五平餅会だったのでしょう。熊谷元一さんからの手紙が今も保存されていますので、朗読してみましょう。
「突然の訪問だったのに大歓迎してくれて有難う。紀伊の国で食べた五平餅は格別にうまかったよ。死ぬまで忘れないだろう。僕は、こんどは満州開拓村の視察団に入れられた。満州はバカ広いところだというが、まあよく見てくるよ。ではまた逢う日まで、身体に気をつけて、いい絵を描いてくれ。文枝夫人にも、どうぞ宜しく。昭和14年 市瀬文夫様 熊谷元一」


市瀬文夫は、昭和15年9月召集され昭和19年2月20日ニューギニヤ・マダン島において戦死しました。享年29歳。ちなみに警察官だった私(下原敏彦)の叔父・下原忠男も市瀬文夫同い年で、同じ年の年2月トラック島付近で戦死しました。(山本茂実著『松本連隊の最後』角川文庫に記載あり)

(飯田市在住の郷土史家・鈴木藤雄氏より資料提供を受けました)