熊谷元一研究
文芸研究U/W下原ゼミ通信 No.28(日本大学藝術学部文芸学科・下原ゼミ2017年5月19日発行)


熊谷元一研究 新資料 <熊谷元一が感銘を受けた本>

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932
板垣鷹穂
分野:研究者, 美術関係者 (学) 没年月日:1966/07/03
東京写真大学教授、美術評論家の板垣鷹穂は、7月3日午前零時35分、ボーエン氏病のため東京・信濃町の慶応大学病院で死去した。享年71才。板垣鷹穂は明治27年(1894)10月15日、東京に生れ、独協中学、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部(美学専攻)に入学、在学中の大正9年、東京美術学校講師(西洋美術史、西洋彫刻史担当)となり(大正15年まで)、大正10年東京大学を中退、大正13年文部省在外研究員としてヨーロッパに留学、西洋美術史を研究し、大正14年帰国した。著作活動は、大正12年「新カント派の歴史哲学」(改造社)にはじまり、近世ヨーロッパ美術の研究を中心とした研究を数多く発表した。中期以後は、建築・都市・写真・映画などの新しい表現分野についても積極的に評価し、広い視野にたった評論活動を展開し、戦後は、東京大学講師、武蔵野美術大学講師、早稲田大学教授、東京写真大学教授などを歴任し、美学、美術史を講じて後進を指導、晩年は芸術家の<個性>の構造解釈に深い関心をよせ、最後の論文は「Individuality and society -A Methodological essay on the history of Italian art(個性と社会)」(ANNUARIO 3 ローマ日本文化館)であった。
主要著作年譜
新カント派の歴史哲学(改造社・大正12)、西洋美術主潮(岩波書店・大正12)、近代美術史潮論−民族性を主とする(大鐙閣・大正15)、フランスの近代画、西洋美術史要、K・シュミット:現代の美術(訳書)、芸術と機械との交流(岩波書店・昭和4)、国民文化繁栄期の欧州画界、イタリアの寺(芸文書店)、現代日本の芸術(信正社・昭和12)、ミケランジェロ(新潮社・昭和15)、造型文化と現代、建築(育生社弘道閣・昭和17)、芸術観想(青葉書房)、写実(今日の問題社)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(新潮社・昭和20年)、芸術概論(理想社・昭和23)、肖像の世界(六和商事出版部・昭和25)

東京文化財研究所アーカイブ
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9243.html
出 典:『日本美術年鑑』昭和42年版(145頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)

熊谷元一が27歳のとき感銘を受けた本である。 
昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき出会ったのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だった。写真の一部を板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。本書のなかで熊谷が、特に深い感銘をうけたのは【解説】の項にある「グラフの社会性」(初出:東京朝日新聞学芸欄1931/12/14-16)であった。(矢野敬一『写真家・熊谷元一とメディアの時代』に詳しく述べられている)



以下、「グラフの社会性」の箇所を転載する。(典拠:垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932)

1.
かつて、小説と映画との間にその社会的優位性を比較する議論が、日本の文壇を賑わしたことがあった。言葉を透して表現される藝術よりも直接のイメージによって校正される藝術の方が、より現代的である――という意向が、この機会に繰り返し説かれた。故平林初之輔や大宅壮一氏などは、映画の優位性を主張する側の人達であった。そして、それに対して、小説の使命を複雑な心理描写に認める岡田三郎氏や、消費的な形式について小説と映画との差異を主張する中村武雄氏などが、独特の社会的優位性を小説に強調する人達であった。けれども、この問題に満足な回答を興へ得るためには、映画と小説との各々の藝術的特質や両者の間の影響関係を、もっと詳細に分析しなければならない。そして、例えば、同じ、「言葉」を表現手段とする藝術の中で、過去の小説と現代の小説との間に見出される形式上の相違を注意したり、現代の社会生活とブルジョワ・ヂャーナリズムとの聯関する関係を解剖したりすることが、是非とも必要なのである。

然し、これらの分析を別としても「現代の特質」を理解する上で特に興味を惹く著しい現象は、現代藝術に対して直接間接の影響を映画が興へていることと、現代人の理解力が特に映画的に訓練されていることとである。断るまでもなく、映画の表現中に聯覚的要素が摂取されて、本来の視覚的要素との間の構成関係がきわめて複雑化し特殊化された現状としては、他の一般藝術にその具体的な影響を看ることはできぬであろう。けれども無音映画時代の、文字とイメージとの組み合わせから成る形式は、社会生活上の一般的な表現技法として、既に普及しきっているといえる。そこで、この新しい表現方法を応用してヂャーナリズムに一新生面を開く試みが「グラフ」として誕生し定期刊行物に流行しはじめた。そして、現代の時間的に切りつめられた生活を営んでいる読者は、簡潔明快に内容の表現されているニュースや、世相の断片の手際よいモンタージュによる「現代社会の横顔」にグラフ形式の便利さと面白さとを痛感しているのである。スペインの革命、ニューヨーク株式取引所の混乱、ドイツの経済的恐慌、上海の暴動等のニュースから、ソヴェト五カ年計画の現状、ハリウッドの新流行、東京の消費的生活などのプロフィールまでを、個別的に、あるいは、社会的機構の性格描写として組み合わせながら、どんなに目新しい試みでも考案することができる。グラフの持つヂャーナリズム的効果は、かかる表現技法の自由さにあるといえよう。

2.
断るまでもなく、グラフがヂャーナリズムの流行となるためには、写真の撮影やグラビュールの製版に関する技術上の発達が、前提されていなければならない。そしてその上に、映画的訓練を経た現代の読者層にアピールし得るだけの、新しい感覚を示すものでなければならない。かかる意味から、まず最初に注目すべき現象は、現代の写真に窺われる「藝術的特質」であろう。

二十世紀の初頭時代に標榜されていた所謂「藝術写真」なるものは、写真それ自身の特質を生かすよりも、むしろこれを殺して、出来るだけ絵画を模倣しようとする試みであった。そして、その模範に選ばれた絵画も、印象派以後の気分本位の画風を持つものであったため、必然的に、調子の柔らかいニュアンス(色合い)が悦ばれ、ソフト・フォーカスレンズが愛用される結果となった。然るに、ピューリスムの運動が絵画に現れる頃から写真の傾向にも著しい変化が生じ、映画の影響が窺われはじめてからは、カメラ技法の特質を強調した新しい試みが、次々に考案されるようになった。所謂「カメラの眼」を透して現代的感覚に順応する形式が、ここに生まれて来たのである。そして写真藝術に於けるこの新しい感覚は、小型撮影機の著しい新保によって助長された。

加ふるに、写真の生作品を藝術として発表する形式が現代では非常に変わってきた。かつては、絵画の展覧会にならつて「写真展覧会」を行うことが、唯一の発表形式であつた。けれども現代のごとく、進歩した製版技術によって「写真集」の刊行され得る時代では、大量的に生産されて普及にも便利なこの方法が、より適当な発表形式と考えられるべきはずである。そこで最近になって、この種の刊行物が著しく増加し、中には極めて優秀なものが見出されるやうになった。古いところでは、例のモホリ・ナギの「絵画・写真・映画」から、ドイツの建築家メンデルゾーンによって撮影され出版された「アメリカ」や純粋映画作者レジェーの「パリ」などがあったが、その後の刊行物では、無産階級者の顔を効果的なアングルからクローズ・アップに撮ったシルスキーの「平日の顔」鉄材の示すマチリアルの持ち味を写したレンゲルバッツの「鉄」、際どい瞬間写真ばかり集めた「危機の一瞬間」(編集者ブコルツ)、ユダヤ人街の情調を巧妙なモンタージュに表現した「ウィルナ」(フュスリ絵本叢書)等が、その主な作例である。

かかる写真集の新機運と共に、挿絵を必要とする一般の定期刊行物も、新しい写真の撮影技術と編集法と感覚とを、極めて敏感に摂取しはじめた。建築と工芸とに関する現代藝術関係の雑誌はいうまでもない。通俗的なニュースはや流行を扱った雑誌から左翼運動の機関紙までが、等しく写真の用法を形式的に純化しはじめた。かくて写真は、その藝術的写真の発表手段として刊行物の形式を求めたばかりでなく、一般ヂャーナリズムや宣伝用の機関紙とも密接な関係にむすばれるようになつた。そしてこの場合、これらの刊行物には、窺われる編集の形式には、一般社会人の映画による視覚的訓練が、高度に予想されているのである。

3.
写真を応用したこの新時代の流行は、刊行物の輸入と共に日本にも伝わり、日本特有の迅速さで普及と模倣が行われはじめた。月刊物としてのヂャーナリズムを代表する二大雑誌「中央公論」と「改造」とのうち、前者は1931年の1月号から、後者は4月号から、共にグラフを載せはじめた。「改造」は4月号に労農ロシアの大規模なグラフを208頁の附録として組み、6月号にはドイツの時事画報を掲げた。これに対して「中央公論」は、7月号の「近代構成美」、9月号の「世界舞台に登場する人々」10月号の「大東京の性格」等に於いて各々一種の目新しい試みを示している。その他の月刊誌では「犯罪科学」が、はじめから、写真についての独特な編集ぶりを示していた。古いものにはモホリ・ナギの模倣などが目立ったが、12月号以来の新しい試みは、 その出来栄えは別として 一種の興味を喚起する。

12月号の巻頭に載せた20頁のグラフは、村山和義氏の編集と、堀野正雄氏の撮影とになる「首都貫流」である。これは、試みそれ自身の面白さにも拘わらず、出来栄えは極めて拙劣であった。一般の批評として編集のアマチュア的平凡さと、撮影の平面的な稀薄さとが致命的な欠点として指摘された。特にカメラ技法においては、中央公論の「大東京の性格」に私自身が拙い編集を試みた際にも感じたことだが、効果的なアングルの欠けているいることが、カメラマンの努力にも拘わらず感じられる弱みであった。

また、1932年1月号の同誌が掲載している伊奈信男編集の「危機を探る」は、この雑誌に相応しい試みでもあり、編集の形式も相当に要領が良いが、言葉の用法は余りに甘すぎた。そして、特に、ここに収められた危機の写真の半数以上が、全部上記の単行本「危機の一瞬間」1冊の中から転載されていることも、現代日本の流行現象として如何にも性格的である。なほ、かかる模倣的現象として殊更私の興味を惹いたのは、村山和義氏も伊奈信男氏も、その最後の頁の編集形式を、等しく、上記ユダヤ人街の写真集「ウィルナ」に負うていることで、新しい試みが一つの「流行形式」となるまでの具体的な経路をここに窺うことができる。然し「「犯罪科学」のように、グラフに興味を持つ人たちが毎月入れ代って編集を行う試みは、一つの興味深い方針でもあり、また今後各方面でも流行することと思われる。大宅壮一氏、吉田謙吉氏の如く、既にグラフの試みに進出している人達は、いうまでもないが、なほ、広く一般文壇の人達が、この試みに参興するようになつたら、ヂャーナリズムの新形態として、極めて興味ある着想ではあるまいか。

4
絵画から写真へ、写真からグラフへの道
1932年に入ってからは、既に「経済往来」の如きも、資本主義形態のプロフィールを扱ったグラフを計画しているし、他の月刊雑誌も、追々この流行に参加することであろうが、かかる性質の雑誌以外にグラフ専門の刊行物も、既に様々の新しい試みを行いはじめている。例えば、数年前から時折、一種の試みを示している「朝日グラフ」の如きも、最近には、東京の断片を扱った敷度の編集を発表している。「窪川いね子と東京を歩く」や下村千秋氏を動員したルンペンものがこれである。その他、シルスキーが無産階級者の顔について行ったクローズ・アップを「財界の巨頭」応用した模倣形態などもあつたように記憶する。

この種のグラフ物は――婦人雑誌の革新を企画した「婦人画報」の如く――なほ今のところ「朝日グラフ」の追従者以上に出ないものが多いが、中で一つ「ソヴェトの友」が、特殊な位置に立っている。これに類する刊行物としては、既にソヴェト連邦自身の宣伝機関誌として「建設期のソヴェト連邦」が各国語で出ているが、これよりも遥か低廉な売買を必要とする「ソヴェトの友」には、編集上の著しい制約が加えられている。しかし、かかる経済上の制限を別問題としても、編集形式上なお改善の余地は多い。中でも説明と写真とがあまりに錯雑して盛り込まれていることと、強調すべき部分と単なる装飾的要素との区別が著しく不明であることとが、特に甚だしい缺點であろう。

なお「ソヴェトの友」に関連して考えられる問題は、プロレタリア藝術の中に写真を摂取する方法がもっと広く応用されてもよかろう、と思われることである。昨年の「プロレタリア美術展覧会」には、写真を組み込んだ一つの試みが出ていた。また、劇場同盟が映画同盟の助演を求める習慣も前から行われているし、プロキノの写真展覧会も――出来栄えは拙かったが――すでに展かれている。更に最近には、プロ・フォトという一つの團体ができあがったようである。本年の秋になって開催されたプロレタリア美術展をみると、政策の範囲が非常に拡大されて、質的にも多くのヴァラエティが現れはじめている。そこには、焼物の茶器から託児場の建築設計までが陳列されているが、中でも最も注目すべき一つの試みは、農業争議を扱った絵巻物であった。この作品は多くの部分がカットされていたので全体の出来栄えは解からないが、昨年出ていた類似の作品よりも優秀なように推察された。

けれども、絵巻物の形式は、形式それ自身が既に甚だしく古風であり、有閑階級の特殊性に基づいて発達したこの形式を、プロレタリア藝術に取り入れることも無理である。私の考えとしては、ここに写真と文字と絵画とのモンタージュを行って、もっと力強い特有の形式を創案する方が、より効果的であり新鮮味も多いと思う。そして、かかるモンタージュの形式は、そのままを製版の原稿として大量的に生産することが可能なはずである。絵画から写真へ、写真からグラフへの道が、ここにもまた求められるのではあるまいか ?
 (この項おわり)