熊谷元一研究

南信州新聞(2010年12月1日)

    熊谷元一先生と四足のわらじ

下原 敏彦
 

2010年11月6日、101歳で逝去された熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」にたとえられていた。三足とは、童画家、写真家、教師の人生である。昭和28年、村の小学校に入学した私たち一年生は、幸運にもこの三足の恩恵を受けることができた。

童画家としての先生からは、自由に描く楽しさを教わった。先生の絵画指導で、多くの子が賞状を手にする栄誉を得た。私もその一人だった。新聞社が主催した「第一回版画コンクール」では、共同制作の作品紙版画「どうぶつえん」が全国第一位になった。写真家としての先生からは、貧しかった時代にあって、本当に多くの写真を残していただいた。1955年出版の岩波写真文庫『一年生』は、ひろく世に知られ私たちの一生の宝物となった。

教師としての先生からは、人生の糧となることを学んだ。叱るより褒める教育だった。「ほう、面白いじゃないか」寡黙だが、その一言に自信がもてた。先生の教育は学校に止まらなかった。退職後の人生そのものが教育だった。一つのことをつづけること、観察することの大切さ。いくつになっても目標を持つことの大事さ。継続は力、その実践教育は、還暦を過ぎた今日まで、私たちを励まし、勇気と希望を与えてくれた。

今年の夏だった。記念文集『還暦になった一年生』の刊行を終えほっとしていると、先生から電話があった。「おもしれいことを思いついたんだ」先生は、うれしそうにおっしゃつた。なんと、またしても新しい写真集の企画が浮かんだというのだ。101歳を過ぎたというのに、尽きぬ興味と意欲に驚いた。周囲の人たちの困惑を思って苦笑した。が、なにか新しい力をもらったようで元気がわいた。「はい、手伝います!」私は、思わず返事した。

思えば、それが先生との会話の最後になった。先生の訃報を知ったのは病院のベッドの上だった。脊椎手術で身動き不自由な体だった。葬儀の日、無念な思いで病室の窓の秋空をながめたていたら、重大なことを思いだした。先生との約束である。先の貞子奥様の葬儀のとき、先生から「わしの葬式のときバンザイで送ってくれ」と頼まれた。皆には断られたらしい。「おまえさんが是非やってくれ」ユーモアのある先生だが冗談は言わない。私は、笑ってあいまいにうなずくほかなかった。だれかやってくれただろうか。葬儀が終わる時刻、私は、天高くひろがる西空に、小さくバンザイを告げた。

後日、先生の最期の言葉を伝え聞いた。見舞った曾孫さんに「わしはいくつだ」と尋ね「101さいだよ」といわれて「そうか、そんなに生きたのか」と、しみじみつぶやかれたという。先生は三足のわらじの他に、人を楽しませる、思いやるわらじも履いていた。先生は四足のわらじを履いていたのだ。

退院の日、小春日和の日差しの中で、ふとそんなことを想った。そうして、四足のわらじに改めて感謝したい気持ちになった。先生、本当にありがとうございました。