文学の中の医学 B


病は気から (「気で病む男」という訳もある)
モリエール 鈴木 力衛 訳  岩波文庫  

あらすじ

主人公アルガンは医者にだまされ自分を病気だと信じきって医者のいいなりになっている。そんな彼は自分のために娘アンジェリックを医者の息子と結婚させようとする。ところが医学校を出たばかりのその息子はたいへんな間抜けですることなすことトンチンカンな人物である。しかもアンジェリックには相思相愛の恋人がいた。一方、アルガンの若い後妻のペリーヌは、貞淑で献身的な妻を装いながら裏で夫の財産を狙っている。アルガンの弟ベラルドと女中のトワネットは、アンジェリックを苦境から救い、アルガンの目を覚まさせるために一計をめぐらす。

この作品における風刺の最大のターゲットは医者である。モリエールは悪質な胸部疾患に悩まされ続けていた。モリエール一座の座長、作家、演出家、俳優を兼ねるという超人的活動のため、この作品の上演のころには、最悪の状態に至っていた。自らアルガンを演じたこの作品の4回目の公演で、激しい咳に襲われながらも最後まで演じきり、幕が下りると同時に倒れた。自宅に運び込まれてまもなく息をひきとったと伝えられている。余命いくばくもないモリエールがどこも悪くないのに重病だと大騒ぎするアルガンを演じたのは皮肉である。医者に失望されどおしで大の医者嫌いだったモリエール本人の発言はアルガンの弟ベラルドが代弁している。

アルガン なに? おまえは世界中で認められ、昔から尊敬されてきたものを真実だとは思わないのか?
ベラルド 真実と思うどころか、ここだけの話ですが、医学なんて人間世界に存在する最大の気違い沙汰のひとつだと思いますよ。ものごとを哲学者ふうに考えれば、人間が身のほどもわきまえず、ほかの人間の病気をなおそうなんて、こんなばかげたことは絶対ありませんよ。

一方で、作品中随一の活躍をみせるりこうな女中トワネットのフットワーク抜群のセリフが光っている。

アルガン ピュルゴン先生は預けた金の利子だけで、年にたっぷり八千リーブルものみいりのあるかたなんだぞ。
トワネット よっぽど人を殺したんでございましょうね、それほど大金持になるためには。
クレアント この方はすぐれた医者であるばかりでなく、堂々たる雄弁家でいらっしゃる。こういう先生の患者になったら、さぞ気持のよいことでしょうな。
トワネット ほんとうに。演説がお上手なように、治療もお上手でしたら、それこそすばらしいと思いますわ。

アルガン 先生、先生はご子息を宮中におあげになって、侍医の資格をとらせようというお気持はありませんか?
ディアフォワニュス先生 素直に言って、われわれの職業は、高貴な方のお相手をつとめると、あまり愉快なものではありません。やはり、一般大衆のなかにとどまっていたほうがいい、とわたしはかねがね考えております。大衆というものは便利なものですよ。われわれは自分たちの医療行為について、だれに責任を負う必要もなく、医学の一般法則さえ守っていれば、なにごとが起ころうとも、決して心配する必要はありません。高貴なかたがたをお相手にした場合は、病気になられたとき、医者に向かってぜひなおしてくれとおっしゃるもんで、その点、どうにも具合が悪いんですよ。
トワネット たしかにへんでございますわね。先生がたお医者さまに病気をなおしてもらおうなんて、どうかしているんじゃないでしょうか。先生がたは、何も治療するためにおそばについていらっしゃるわけじゃないんですもの。先生がたは年金をお受け取りになって、薬の処方をなさればいいんですわ、病気がなおるもなおらないもすべて患者の責任でございますもの。