文学の中の医学 P


海からの贈物
アン・モロー・リンドバーグ 著  吉田健一 訳 新潮文庫 1967

著者は、太平洋横断旅行に最初に成功したことで有名なリンドバーグ大佐の夫人。夫人自身も、世界の女流飛行家の中では草分けの一人であり、第二次世界大戦ではヨーロッパに渡って、フランス、ドイツなどの罹災民の救援事業に挺身し、戦災を受けた各国の状況に関する貴重な報告書を出している。しかし本書で語っているのは、経歴などというものを一切取り捨てた一人の女性、一人の主婦である。家庭から離れ、一人海辺で過ごした日々の中で、現代に生きる人間の誰もが直面しなければならないいくつかの重要な問題に思いをめぐらせ、海から授かった贈り物、貝たちに託して内省的に語っている。現代社会とか、世界平和とかいう大きな問題がいかに我々の生活と密接に結びついているかを本書は示している。また、そういうものがすべて我々の生活を出発点にしているという事実を著者は瞬時も見逃さない。そのことが、この書に説得力を与えている。(訳者 あとがき抄)

  ほら貝が死んで小さなやどかりがそこを住居にした。やがてやどかりはもっといい家が、生活があると思ったのか、この住いを捨てた。この住いには無駄なものは何もないが、その構造は細部に至るまで一つの完璧な調和をなして美しい。ほら貝の簡素な美しさは私に、問題を解決するための第一歩は、自分の生活を簡易にし、不必要なものを捨て、気を散らすことのいくつかを切り捨てることなのだということを教えてくれる。 
 
つめた貝は私たちに孤独を教える。頂点の黒い目は私を見つめ、私もそれを見つめる。時には、威厳に充ちて空に輝く満月になり、また輪を描いて段々に拡がって行く波に取り囲まれた島にもなる。その島はだだそうしているだけで充足して波間にその姿をあらわしている。私たち人間は皆、孤独な島であって、それらが同じ海の中にある。
   
日の出貝は華奢でさわるだけで壊れそうだ。この貝は、二人が出会ったときの最初の美しく純粋な瞬間を思い出させる。しかしその完璧な融合は、日の出貝がそうであるように容易に傷つき、人生や時間の経過の中で押し潰される。日の出貝に似た純粋な関係を呼び戻す一つの方法は、それと同じ状況を再現することである。たとえ質素な宿屋の一晩でも、日常の束縛をすべて後にして、二人きりで過ごすのは素晴らしい。日の出貝の奇跡には永遠の価値がある。
   日の出貝は美しいが排他的で限られた恋人同士の世界である。長い結婚生活を表すのに適した貝は牡蠣である。浜辺のどこにも転がっているが二つと同じ形のものはない。それぞれの生活を続けていく必要から生じた不恰好なでこぼこした独自の形をしている。生きている間は、岩にしっかり根をおろしている。
   たこぶねはアオイガイ(タコの仲間)の雌が卵を育てるためのゆりかごである。学名Argonautaは黄金の羊毛を探しに行ったギリシャ神話の舟に由来している。白くて軽い半透明な殻にはギリシャの柱のような溝がある。この美しい貝が呼び起こす影像もまた美しい。それは人生の午後を迎えた二人の新たな成長、日の出貝や牡蠣の関係を超えて成熟した「人間と人間の、人間としての関係」である。そのためには、男も女もそれぞれに「自分だけで足りる世界」を持たなければならない。