文学の中の医学 Q


白い航跡 上・下巻
吉村 昭 著 講談社文庫 1994

 下記のホームページで森田先生がとてもおもしろくこの作品を解説されています。お許しをいただいて転載します。
森田保久の高校生物関係の部屋
http://homepage3.nifty.com/ymorita/hisa1.htm
脚気と悪者森鴎外 (全文)

参考文献
『白い航跡』吉村昭著(講談社)
『世界の科学者100人』竹内均監修(教育社)

森鴎外って知っていますか? そう、夏目漱石と並んで明治の文豪として有名です。では、彼の本業を知っていますか? 彼の本業は作家ではないのですよ。そうそう、よく知っていますね、彼は医者、陸軍の軍医です。しかも、最終的には陸軍軍医総監(陸軍軍医の最高職)にまでなります。私も高校生のとき、『舞姫』を読みました。そのときの感想は正直に言って「ひどい人だ」でした。
さらに、軍医として彼が犯した過ちを知ったときは、「とんでもないヤツだ」と思いました。病気の原因の一つが細菌によるということは今では常識です。しかし、これは1876年に、コッホが見事に証明してみせるまで、なかなか明らかにはならなかったのです(今からたかだか120余年前のことです)。それまでは病気の原因に、悪い空気や生活環境や果ては悪霊まで持ち出していました。当然その治療方法は、せいぜい患者自身の体力に頼るものであり、意味のないもの、さらにはかえって病気を悪化させるものまでありました。コッホの登場により病気の原因がはっきりすると、まずその予防法(例えばコレラに対しては汚染された川の水を生のまま飲まないこと、ワクチンなど)が、さらには治療法(細菌だけを殺す薬:サルバルサンの開発や後に抗生物質など)が確立されていきました。これとほぼ同時期に日本では江戸時代が終わりを告げ、新政府による明治が始まりました。医学においても西洋の知識を急速に取り入れるため、日本はめざましい進歩を遂げたドイツ医学を学ぶことにしたのです。ただ、海軍だけは航海術とともに昔から結びつきの強かったイギリスに学びました。このころのイギリス医学は原因の追及よりも治療に重点を置いたもので、ドイツの華やかさに比べればやや見劣りがしました。

このような中で、政府、陸軍、海軍ともに優秀な人材をそれぞれドイツやイギリスに派遣し、第一線の医学を学んで日本に持ち帰らせました。北里柴三郎(コッホ)、森鴎外(コッホ)、高木兼寛(セント・トーマス病院)などが有名です。西欧では全く見ることがなかった病気が日本にはありました。脚気という病気です。この病気は、手足のしびれ、動機、足のむくみ、食欲不振という症状で、進行すると歩行困難になり最後には心不全で死亡するというものです。西欧にはなくアジアにだけ存在するので風土病であると考えられていました。この脚気が日本の軍隊で猛威をふるい、深刻な事態となっていました。一端患者が出始めると次々と患者が増えていくことから、伝染病という見方も有力でした。ひどいときには、兵士の大半が脚気にかかり、とても戦争などすることができる状態ではなく、軍隊の存亡に関わる問題となってきました。

そんな中で、海軍医務局長の高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、西欧と日本の軍隊の違いは食事にあるとして、白米ではなくパンを中心とした食事(後に同じ麦ということで麦飯に変えている。当時の日本人の中には「パンを食うぐらいなら死んだ方がまし」というくらい洋食が苦手だったらしい)をとれば、脚気にかからないことを証明し、脚気の解決法を明らかにしました。その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくなりました。しかし、ドイツの細菌学を中心とした陸軍軍医の上層部には納得できませんでした。病気の原因もはっきりしないまま、食事の改善などということで、病気が治るはずがないと考えたのです。彼らにはコッホ以前の迷信的な治療法のように感じられたのです。また、脚気の病原菌が発見されたという誤報もあり、高木兼寛に対して、露骨に反対をしました。

ここで登場するのが、悪役の森鴎外です。ドイツに留学中の森は、高木兼寛に反対する論文を送ってきました。これは、高木批判の大きな力となりました。さらに、帰国して一等軍医となった森は、脚気の原因は細菌であるという信念のもとに、徹底的に高木を攻撃しました。
こうして、陸軍の中央では麦飯の導入には徹底して反対していました。ところが、実際に現地で兵を管理している地方の軍医たちにとって相変わらず脚気は脅威でした。そこで、独自に麦飯を取り入れ、大いに効果を上げて脚気の患者を減らしていました。

しかし、戦争が起こると話は変わります。日本から離れた場所で行動する軍隊に後方から食料を送るのは中央の権限です。ここでも森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。森鴎外らが高木の成果に対して柔軟な姿勢をとっていれば、死なずにすんだ多くの人間の命を奪ったのです。しかし、森鴎外は生涯、誤りを認めませんでした。さらに、脚気については、思わぬ展開もありました。

東京医学校(後の東大医学部)を卒業し、医学校の緒方正規の世話でドイツに留学していた北里柴三郎は、留学先のドイツで恩師である緒方の「脚気の病原菌説」を誤りであるとして否定しました。日本では、恩を仇で返したとされました(真実を求めるのに恩など関係ないと思うが)。帰国後、伝染病研究所をつくり、内務省に所属させようとしていた彼の計画を、東大と文部省が反対し、彼は窮地に立たされました。この窮地を救ったのが福沢諭吉です。私財を投じて伝染病研究所を自分の所有していた土地につくりました。また、その後も北里の力になり続けました(これに恩義を感じた北里は後に慶応医学部の初代部長を引き受けています)。こうして、活躍の場をあたえられた北里は、香港でペストの原因であるペスト菌を発見しました(世界で最初ですが、確認したのはコッホです)。しかし、またもや日本の東大を中心とした医学会は北里の発見したものはペスト菌ではなかったとして批判しました。また、森鴎外もこれに同調し、辛辣な批判をしています。結局森鴎外は、陸軍軍医の最高位まで出世し、文豪としても名を馳せましたが、医学の歴史の中では、百害あって一利無し(無いわけではないと思うけど)という人物だったように思えます。