文学の中の医学 last



失われた世界 脳損傷者の手記
A・R・ルリヤ 著 杉下守弘・堀口健治 訳 
海鳴社 1980


20数年前、大森図書館(現医学メディアセンター)で出会い、それ以来、数回読み返しているこの本で「文学の中の医学」の連載を終えたいと思います。残念ながら現在は絶版で佐倉図書室にはありません。本書はソヴェト時代の代表的神経心理学者、アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤが1971年に著した「失われた世界と取り戻した世界 一戦傷軍人の病歴」の日本語訳です。ルリヤは『認識の史的発達』『言語と精神発達』『人間の脳と心理発達』などの著書がありますが、中でもこの本は今日に至るまで比類ないその内容で白眉と評されています。内容は第二次大戦で左大脳半球損傷を受けた若きロシア軍人ザシェツキーが受傷後に生じた失語および種々の症状について書き記した20数年にわたる自己観察の記録をもとにルリヤがまとめ、解説をくわえたものです。高次脳機能障害の人が自ら書いた稀有の記録です。

この本は一瞬にして、人生を完全に破壊された人の物語である。頭と大脳を貫通した弾丸が或る男の人生に与えた障害のありさまを記述したものである。弾丸は集め切れないほど彼の世界を多くに分散してしまった。この本は自分の過去を取り返し、未来を自分のものにするために、すべての力を費やしている男の物語であり、勝利はなかなか得られないが、闘いはやめない、そういう男の物語である。この本の主人公は恐ろしい大脳損傷の結果による自分の人生の歴史を毎日毎日記述した。その25年間の仕事がこの本である。(ルリヤ「本書について」)

私たちのこの地球は、無限の宇宙の中ではまさに微小な粒子にすぎないものであることを私は知っている。しかし、現実には人々はこのことについてほとんど考えることはない。(同様に)人の頭蓋を裂き開き、脳組織を切断・燃焼し、記憶・視覚・意識を損なう銃弾や砲弾、あるいは爆弾の破片に関して、人々は特に関心を示さない。これはそういうことか?なぜ私は病気になったのであろうか?なぜ記憶は機能せず、視覚はもどらないのであろうか?なぜ頭の痛さはいつまでも続き、いつも騒々しいのだろうか?なぜ私は人間同士の会話を聞きもらしたり、すぐ理解できないのだろうか? (ザシェツキー「読者へ」)