文学の中の医学

医学の説より出でたる小説論
 (森 鴎外)


明治21年、ドイツ留学を終え帰国した27歳の森鴎外は、陸軍大学校教官になり医学者として本格的なスタートを切る。同時に、読売新聞に下記の論(全文)を発表し文学活動をも開始した。人間探求において医学と文学の双方が必要であることを明快に説明している。

エミル・ゾラは仏蘭西プロワンスの人なり。今の所謂自然主義の小説をば、ゾラ名づけて試験小説となさむとす。この名はゾラがその小説論の首篇に冠したるところにして、これを生理学者クロオド・ベルナアルが試験医学に取れるなり。クロオド・ベルナアルのいはく。今の学は観察と試験とに基いたり。人力の化すること能はざる宇宙間のものに逢えば学者これを観察し、人力の能く化すべき宇宙間のものに逢えば学者これを試験す。医の人身の真作用をしらむとするや、その観察の力を補ふに試験の法を以ってす。かの病院、講堂、業室の中にいりて、生活の臭穢にして蠕動する彊界を経るは、先ず庖厨を通りて燭光かゝやげる大廈に入らむとするが如しと。

ゾラはこの言を挙げて、直にこれを小説に応用したり。この小説の人物はゾラが分析と解剖とを経たるものなり。ゾラが人情を分析するや、殆液の酸滷を択ばず。ゾラが世態を解剖するや、殆刀の鈍鋭を問うことなし。しかして此分析、解剖の結果は即是れ「エチュウド」なり、小説なり。ゾラは此論をなして、「ルゴン・マカルド」の大作を出し、おのが実行の績を示しつ。ルゴンが福と題したる首篇より土地と題したる新篇に至るまで、化学所の日記にあらざるときは、解剖局の週報ならむとおもはるゝ叙法を用ゐたり。されど世の人はこれを厭わず。其故は奈何。かの鏡前に嬌態を弄する赤条々の淫女ナナが活膚は解剖卓上の冷肉におなじからざればなり。

夫れ分析と解剖とは作者の用をなさゞるにあらず。されどゾラが直に分析と解剖との結果を以って小説とせむといへるは妥ならず。蓋し試験の結果は事実なり。医は事実を得て自ら足れりとすれども、作者はこれにて足れりとすべきにあらず。無慙なる事も正史にて見るときは厭はしからず。支那炮烙の刑、西斑牙「アウト・ダフエエ」の獄、皆正史なるがために読まるゝなり。かの日刊新聞の雑報に見えたる醜事も亦然り。願うに事実なるを以っての故のみ。小説を作るもの若事実を得て満足せば、いづれの処にか天来の妙想を着けむ。事実は良材なり。されどこれを役することは、空想の力によりて做し得べきのみ。ドオデエがゾラに優れるはこゝに得る所ありてならむ(明治二十二年一月)