闘病文学のページ




柳原和子さんの手紙 (2007.3.10〜07.11.24)

『がん患者学』『百万回の永訣』の著者である柳原和子さんは2008年3月2日に永眠されました。以下は亡くなる前年の7ヶ月間に柳原さんからいただいたメールの一部です。今もなお、柳原さんとの心の対話は続いています。(2016年4月6日 下原康子)

柳原和子様へ 下原康子より (2007.3.7)

はじめまして。下原康子と申します。61歳。乳がん体験者(12年前)です。長年勤めた医学図書館を定年退職し、昨年5月より千葉県がんセンターに開設された患者図書室「にとな文庫」で働いています。ご講演を聴き、翌日のテレビを見て以来、ふと気がつくと、柳原さんと会話している自分がいます。柳原さんは理想的な本当のチーム医療を自らの命をかけて実現しようとなさいました。そのことを多くの医療者に知って欲しいと願います。御題目のチーム医療はいらないのです。柳原さんは天性の勘とジャーナリストの経験からつちかわれた眼力で優れた医師をみつけられました。そのこと以上にユニークなのは柳原さんが彼らにご自身を理解させたことです。私の魂に近い部分で革命が起きているようです。柳原さんは革命家。一人一人の心の中で革命が起きなければ何もかわらない。柳原さんは荒野で叫ぶ予言者の声。その声に魂を貫かれた医師、医療者、患者たちの数は少なくはない、と思います。ありがとうの一言を伝えたくてメールしました。お返事の必要はありません。仕事柄、文献探し・文献集めが得意です。ご用がありましたらどうぞご連絡ください。 


     柳原和子さんから下原康子へ (2007.3.10〜2007.11.24)

メール拝受。これまた恥ずかしいほどの賛辞にとまどっています。まったく、からだで感じたことしか語っていないので、それが他の人にとってどうなのか?について吟味するだけの、つまり取材したり現場に行ったり、他の人たちのこころと目と言葉のやすりにかけていないので、すべてに自信がありません。自信がないなら話すな!って怒られそうなので、どんどん講演断ってます(笑い)。だから講演が下手になったことはわたしにとってとてもすてきなことでした。もっともっと厳しい寒風にさらされて思想というのは鍛えられていかなければならない、言葉は鍛えられなければならないのに、わたしのはあたたかい部屋に閉じこもって言いたい放題ってところが脆弱です。あんまりはびこってはいけないの。いつも負け犬の遠吠えっていうところが役どころ、はまりどころ、って自覚しています。だから革命家、なんておそろしい賛辞をわたしにむけて語らないで。もっとも厳しく、冷めた視線で歩く道をはずさぬように忠告する友だち、としてさまざまなこころのやすりになってください。わたしのほうがほんとうに、教えていただきたいことばかり、と思っています。朝日新聞で記事を読んだあの方ですよね?いろいろ、現場での実感を教えてください。

NHK「百万回の永訣」について
まあ、テレビ番組はスタッフの世界だから。同じ出演者で同じ時間撮っても、その編集によって、つまり切り取りかた、場面の並べ方、ナレーション、音楽によってまったくちがった印象になるのが映像っていうか、作品ですから・・・。今回の反響を見つめながら、やはり日本人は弱い者に対してやさしいというか、抵抗する人に対して冷たいというか・・・。同時に、患者はやはり治りたいのだ、というか。一縷の希望を近畿大学に求めて殺到しているというか。でも、こんなにぐちゃぐちゃな身をさらしてなお、誇り高い、というもっともわたしが愛するというか大好きな言葉、求めてやまぬ言葉で語ってくれた下原さんにありがとう。

誇りと完全治癒どっちをとる?
番組の中より、私とメール交換、電話、直接京都で会うってなことしたほうがはるかに愉しいよ、って言いたいところですが、辟易とするかもしれません(笑い)。おそろしい、意地悪なんですよ、本音の所では・・・。遠くにあって眺めている方が、いいっていう悲しい人間なんですね、わたしは。まあ、皆に見透かされていると想像していますが(笑い)。そう、どうあったとしても誇り高く、生きたいですね。でも、ときどき誇りと、完全治癒とどっちとる?って選択できるっていうときに、わたしはどっちをとるだろうか? うん、完全治癒をとってそれから誇りのたてなおし、ってな感じかなあ。ほんのしばらくの寛解っていうのなら、断然誇り!だけれどもね。いや、数年間の寛解ならちがうかな? むずかしいですね。でも、がんはいずれにしても不可解だから、人間そのもの、ってな感じですよね。

太刀打ちできる?なんてのは、偉そうにする男や立場の人に向かって空威張りするときだけですよ。友だちにまでそ、そんな。とはいっても、きわめてささいなことにこだわってごちゃごちゃするので、すみません。でも、やっぱりたくさんの人に理解されたい。理解されなくってもいいから、たったひとりの白馬の王子様に・・・。馬鹿にされそうだなあ・・・? 昔、そういう原稿を書いたら、ほとんど女性運動の人たちに馬鹿にされて、蔑まれてしまった・・・。うん、わが欲望ははてなしですね。図書館っていうせかいを見てこなかったのは残念。また、必ず見学に行きますね。

わたしはね、知識と情報は使いこなせてなんぼ、だと思うの。情報があっても、使ってくれない医療者を相手に情報をふりかざしても絶望ばかり。今ある情報を使いこなしている医師が生きた情報としてわたしたちにフランクに、口伝えで教えてくれるといいよねえ。愉しいね、下原さん。新たな角度の視点をもった人とこうして交信できる歓びを噛みしめています。

書くこと・図書館
革命家、芸術家、文芸家・・・。下原さん! 言葉が大げさすぎます。ふつう以下だから、あんな力のこもった文章書くので、文芸、芸術の人たちはもっとさりげない文章を書きますよ。恥ずかしいばかりです。でも、読んでくれてうれしいです。なんだか、たまらない文章ですが、わたしらしい文章ですよね。また、怖い「批評」というか、中傷の噂の嵐になるかな?でも、まあ、いいか。治療のことで、今は、ぼうぼうと頭のすみっこで考えています。化学療法を辞めようかな、と思っているので、自然療法をどのように徹底するのか?そのためにどういうライフスタイルにすればいいのか?

日本において評価と稼ぎを気にしないプロフェッショナルは公務員だけです。本における評価と稼ぎは書評の数、質、部数、読者数、ということになりますが、つまり、評価と稼ぎにおいてなにもならない本をだしても、それはなかった、というより、次の仕事をするときに低い水準の仕事の場しか与えられない、ということです。こころざしがあればそれでいい、というのはプロの仕事ではない、ということです。そのこころざしの低さとこころざしのはざまで苦しみ続けるのがプロフェッショナル、ということでしょうか。わからないでしょうが・・・(笑い)。
読者が協力しないかぎり、作家は死ぬ、という構造になっているのですね。文字どおり、活きている、生命が医療費、お金と直結しているわたしにとっては活きていなくていい、というお達しのようなものであります。これまた、わからないでしょうが・・・(笑い)。あなたはやはり、あなたらしい反応だなあ、と微笑みました、思わず。こころからありがとう、と感じています。わたしのようなつたないもの書きに対する過分なまでの賛辞。でもね、わたしはプロになりたかったの。まずは自分で生きる、生きられる人として生きてみたかったの。図書館は、そういう意味でわたしたちの敵なのよ?

読者の多くが団塊の主婦と老人で、その人たちが自らは買わず、図書館で一般本を読む。専門書や全集を図書館は扱ってほしいけれど、ふつうの商品本まで図書館で読む。こまった時代ですけれど、じつは健全なんですけれどね。でも、書き手はジリ貧でありますね。
魂をゆさぶる言葉や感動をよびさます言葉は、まったく基本であり前提でしかないの。今のわたしはね、ある種、本におけるひとつの大きな存在意味、読者の怖いものみたさ、ゲテモノ趣味を満足させているだけかもしれないの。そこをどう突破するのか? 言葉の意味、表現の意味を問い続ける。ただし、あなたのような読者、つまりわが姉のような人なのですが、厳しい視線を他者に浴びせかけて、真贋をかぎ分けながら、しかし、自らはきちんと生き抜いている人がわたしにはかぎりなく、おそろしいです。重たいです。あなたに、嫌われない本を書き続けるのは、死ねという要求にこたえるに等しい重たさがある。そこのところ、笑ってしまうほど、わたしは後悔しているんです。もっと楽しい人生をわたしのために選んであげたかったなあ、って。すべてが経済にからめとられている現代社会では勝者、少なくとも六ヶ月先の生命と収入が確保されているような生活者でなければ、楽しくはないんですね。

理想論というか、制度的にはそうでしょうが、現実には利用者からの要望があれば、それは優先されていると思いますし、それでいい、というふうにある面では思います。つまり、これは図書館とはどういうところか、という原則論に触れるところなんですが。現実にはコンビ二です。現実を見ずして、ものごとを理想論的に語ってもなにひとつ動かないわけで・・・。新聞代を節約して老人、退職者が図書館を利用し、受験生が勉強に利用し、子どものある種の遊び場でもあり、映画館やオーディオルームでもあり、市民たちの集いの場でもあり・・・。今、姉も、ほとんどを図書館で読み、音楽も図書館で借りている。

昔、英国にいたとき、その図書館に感動したものです。インテリでも英国では自宅にあまり本を置いてはいなかった。どうして? と聞けば図書館で夜遅くまで勉強してくるから、ということでした。大学だけでなく市内の図書館です。つまり、原則的にはもの書きは食べない、別の仕事をもって書く、またはベストセラーを書く努力をする、ということに尽きます。ベストセラーを書くというのは、なにも=世間にこびる、というわけではないので、誤解しないでね。あれはほんとに大変な作業です。でもまあ、日本では有名な人の本が売れる、という傾向が強いから、作品が強化されていかないことにもなりますし、わたしのような人も作家という肩書きで仕事ができている、ということになる。まあ、読者能力が落ちている、というのは真実で、それはまた作家能力を貶めている、ということになり、そのことが世間から知性という言葉を排除した遠因になっているし、これからが怖い、ということにつながっていくのではないか、と感じています。

論理的思考?あれは近代が作り上げたひとつの虚妄です。多くの女性たちにとっては、それはとてもむずかしい姿勢です。しかし、今のところ、それしかツールを考え出せずにいるから、支配的になっているだけで。まあ、国際社会における英語と同じです。エスペラントが普及しなかったこと、地方言語が衰退して、復活しようとしているけれど、しかし、人はどうしたって同じ機軸をもって、理想を前提に語り合わなければならないから、基本を決めた。でも、その基本に追いつけぬ人が大量に出て、あふれて、その人たちは劣等感にさいなまれて生きるしかないという構造になってる。でも、医学・医療をはじめとする専門分野はやはり論理的思考法を身につけた人でないと困るんですね。ぎりぎりまで論理で追い詰める覚悟をもった人でなければ、困る。情と勢いと経験だけでは、やはり困るんですね。

司書が医療スタッフになるからには
医療スタッフになったという下原さん。医療が開かれたと考えるべきなのか。なんにも、わかりませんが、友達として、あなたがたがとりあえず仕事をする人として社会に認められる、社会が認めた、ということとしておめでとう、と拍手。でもまあ、とりあえず、わたしとはますます遠い存在になった、というか。社会はそういうふうに進んでゆくのだな、と実感を深めたというか。誰だって、患者よりも医療者になりたいよね。人を救う側、と社会が認められる側として存在したいのだよね。それこそが、生きる、生きている意味ということかもしれないなあ。

メールというのは真意を決して伝えぬツールですが、まあ、下原さんは基本的に、心底からのぶりっ子である、とはわたしの偏見? です(笑い)。ぶりっ子であるだけでなく、それを現実に貫き通す、という凄みすら感じます。貫き通す、つまり信念としてそこにある、ということですね。信念を抱いた人は着々とそれを積み上げて実績をつくりあげてゆくので、それはまったく、すばらしいことです。そうした人々の多くの業績が歴史をかえてきました。当事者というのは、まったく、狭い視野のなかで右往左往することが多いので、しかもエゴイストになりがちですから、社会的な視点から遠くなりがちですからね。でも、被害者運動や少数派の運動もまた、歴史をかえてきているのも事実ですが。

あなたはわたしとはほんとうに、まったく対極の価値観というか、経験を蓄積してきたということで。だから、そうした視点が大事なわけで、でも、まあ。語る自由と、わかるかどうか、わかることがどういうことなのか、わかりあえるかどうか、己の心身をゆだねあえるかどうか、わかりあえることがどういうことなのか、はすべて同列には語れぬことではないか、とわたしは感じています。
語る自由は制度とかシステム、社会を俯瞰する視線として、また客観的な情報や認識、知識の視覚をひろげてゆくという意味で、必要ですが、弱さをゆだねるときには、決してわかりあえない、という自覚、絶望を深々とかかえこんでいる人かどうか、が重要な鍵になります。そういう人は、着々と傍らで力になることを黙々とさがしだして、実務、実行する、これはほんとに驚くべきことです。頭さがります。おそらくは、どんなに時代が進んでも、一対一の人間関係の内側には、複雑に入り組んだ上下格差、乖離があるわけで、その人生体験において被差別の側にあっても、たとえば、個人的なかかわりの中では上位に立つこともあるし、また、別の側面では同じ人間関係の中でも下位に甘んじることもある。

健常と病、病の中でも致死性の存在の人は、それはもう過去の情報、知識、あらゆる文化的蓄積を駆使したとしても理解を超えた存在とわたしは感じています。そうしたレベルでいえば、語る権利は誰にもあるし、わたしにはもう奪われてしまいましたが、というか、そうした冷静さが消えてしまいましたが、きっとそうした姿勢こそが重要なので、体験者よりも未体験者のほうが力になる、やさしいということは往々にしてあるわけですから。人間のそうした複雑さをわたしは大事にしたいと思っています。愉しい問題提起でした。ありがとう。わたしもあなたのように、がん患者さんとの日々がわたしにさまざまなことを教え、支えられています、というようなことを素直に言える側にありたかった。つくづく、うらみがましい、愚痴っぽい毎日の後悔であります。

わたしには、下原さんが患者側かどうか、判断する材料はなにもなく、医療スタッフになる以上、半端でなく、きちんとプロとして、文科系としての医療やってほしいです。医療側からお金もらう以上、患者の視線で、なんてのはごめんです。あなたが、司書として誰にもできぬプロの領域をきりひらいてくれること、こころから期待しています。でも、遠いのは事実です。わたしたち過酷系患者がひそかに恐怖感を抱いているのが、初発がんであまり過酷な治療でなく寛解し、患者のため、と体験を生かして医療現場に働く方々なんです。それが何故なのか? 下原さんならその恐怖感を断ち切る仕事人になってくれる、と期待しています。わたしには、なにか言える資格はありません、どうぞいい仕事を!理想と志のない医療スタッフは始末におえません、わたしはあなたより先に死ぬ人として前を歩いている、ということかな? まあ、そうですね。(笑) でも、全体としてあまり気持ちのいい感じではないです、今日のメール内容は。ともかく、司書としてできるすべてをやりぬいてください。患者と医療者のために。

なにひとつあなたは悪くなく、謝ることはない。おそらく自分でもちんぷんかんぷんなはずで、そういうときは謝らない。あなたが素直すぎて、困ります。が、素直はいちばんの力なんだから、仕事にうちこんでください。司書を医療チームに入れたのは医療側の英断であって患者側の努力といえるのかどうか。メディアがとびつきそうなイベントであろうと、それを含めて彼らは努力したわけで、問題はここからです。誰のためになにをやるのか? 患者経験を司書としてどう生かすのか? 病院の患者図書館がふつうの図書館となにが違うのか? がん関係の本が並んでいるからいいのか? 全国、全世界の医療情報をあなたが検索できるようになってほしい。誰もが知るサイトにつなぐだけではダメ。プロとしてのあなたに期待しています。議論は率直に、謝ることは決してない。