康子の小窓

闘病文学のページ

患者図書室司書が作成したページです。「闘病文学」というのは、
@闘病を支える読み物 A「生老病死」を考える読み物の総称です。

作成者:下原康子 作成期間:2009-2016


このページは、追加・更新を終了しました。新たに 康子の小窓 読書日記 をはじめました。

闘病文学作品(リスト) 文学の中の医学  詩の花束  本読む人 文学の中の医師


(1〜16:千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫通信」初出)
  テーマ 紹 介 図 書 収載年
 23 余命宣告された男のユートピア   秋元康『象の背中』 2016.4
 22 私の脳で起こったこと 樋口直美『私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活 2015.10
 21 医療における沈黙の壁 『沈黙の壁 語られることのなかった医療ミスの実像』  2014.11
 20 「医療社会学」の発見 レネー・C・フォックス  『生命倫理をみつめて 医療社会学者の半世紀  2014.10
  19 胃がん詩集 
澤居紀充『 胃がん詩集』  2014.9
 18 医者かぶれと医者嫌いの医学談義 モリエール『病は気から』  2014.7
 17 患者と医者のズレとすれ違い 久坂部羊『悪医』  2014.7
 16 働き盛りの医師の闘病記 『ある日突然、末期癌と知って』『できれば晴れた日に』『ある末期がん患者のつぶやき』『僕はガンと共に生きるために医者になった』 2014.2
 15 プラシーボ効果抜群のがんの本   『病の皇帝「がん」に挑む』 アトッサの闘い 2013.12
 14 文学者の闘病記 あるがままを生き抜き描く 山内令南/ 正岡子規/室生犀星 2013.10
 13 医療の世界をおもしろく学べる小説  『最後の診断』『 ストロング・メディスン』 『インフォームド・コンセント』『 感染者』 2013.8
 12 患者さんに顔が見える病理医  『堤先生、こんばんは』 『患者さんに顔のみえる病理医からのメッセージ』 2013.6
 11 ユーモアと癒し 『笑いと治癒力』他 2013.4 
 10 子どもにいのちと愛を伝える絵本 『お母さんぼく星になったよ』他  2013.2
 9 E.シュナイドマン「死」の3作品 『死にゆく時−そして残されるもの』他 2012.12
  8 死の受容 (吉岡昭正) 『死の受容 ガンと向きあった365日 吉岡昭正遺稿』  2012.10
  7 にとな文庫「闘病記コレクション」について 『「死」への準備教育のための120冊 』 2012.8
  6 同時代を生きたロシアと日本の文豪の本 漱石とトルストイ 『イワン・イリッチの死』 『思い出すことなど』 2011.12
  5 ちょっぴり風変わりな闘病記 『身体のいいなり』『 死の海を泳いで』『夫の死に救われる妻たち』 2011.5
  4 がんで散ったひとりの青年へ (永田松夫) (連載エッセイ 「にとな一期一会」) 2010.9
  3 「近代外科学の父」ジョン・ハンターと「疫学の父」ジョン・スノウ 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』 『医学探偵ジョン・スノウ』  2010.8
  2 がんと闘った誇り高きアマゾネス  
「柳原和子と小倉恒子」 柳原和子さんの手紙 2010.5
 1 がん哲学外来とことばの力    「樋野興夫氏講演会」  2009.8
  下原康子のエッセイ    典 拠 執筆年 
S-13 ドストエフスキー『地下室の手記』 第29回医学図書館サービス研究大会(2012)  2012.8
S-12 日野原先生と図書館 にとな文庫通信 No.17 (2011.12) 2011.12
 S-11 アリョーシャはだれか「ケアの達人 私のアリョーシャ論」その後 ドストエーフスキイ全作品を読む会報告(2010)  2010.8
 S-10 ケアの達人「私のアリョーシャ」論 江古田文学 27巻2号 (2007) 2007.10
S-9 アルセーヌ・ルパンとY先生 佐倉図書室通信 No.130(2003)  2003.8  
S-8 インターネット vs 一冊の本 佐倉図書室通信 No.111 (2001) 2001.11
S-7 『笑いと治癒力』(書評) いのちジャーナル No.46 (1998)  1998.8
  S-6  永遠の友と過ごした日々  ぱんどら No.10 (1997)  1997.11
S-5 『売血−若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか−』(書評) 佐倉図書室通信 No.54 (1996)   1996.12
S-4 『がんよ驕るなかれ』(書評) 佐倉図書室通信 No.39 (1995)  1995.8
S-3 ドストエフスキーと夢 図書館ニュース No.190 (1998)  1988.3
S-2 医学と文学  図書館ニュース No.182 (1987) 1987.6
S-1 『君と白血病』(書評) 図書館ニュース No.156 (1985)2  1985.2


余命宣告された男のユートピア
 
象の背中 
秋元康(あきもと・やすし)産経新聞出版 2006 

おニャン子クラブやAKB48の仕掛け人、時代の寵児である秋元康が余命半年と宣告された中年サラリーマンの物語を書いたとは意外である。仕事にも家族にも恵まれ、物分りのいい愛人までいる男に突然の末期がん宣告。彼はあっさりと延命治療をあきらめ、今までに出会った大切な人たちにじかに別れを告げようと決心する。打ち明けた最初の相手は愛人、続いて息子、初恋の人、仲違いして別れた友人、彼の子を産んだ同期の女性と続く。一方で、妻にはトイレで倒れて発覚するまで明かさないなど、男の身勝手さ(そのくせ誰からも愛されている)に女性読者の多くは憤慨するのではないか。余命半年だからこそ実現した男のユートピアなのであろう。「象の背中」という題名も腑に落ちない。象の連想で言えば「群盲象を評す」か。見えやすい背中しか描かれていない。

一方でこの作品には別の魅力がある。それは食べ物。食通の著者だけあって食べる場面が多い。ベーグル、蕎麦掻き、間人蟹、タンソテー、バジリコのスパゲッティー、カルメン(デザート)、旅館のシンプルな朝食、やきとり、筍ごはん、洋食屋のハヤシライスとロールキャベツ、ヴィンテージのワイン入りのビーフシチュー、シンプルな冷やし中華、すき焼き、しにせの水羊羹、枇杷、スイカ、氷白熊(かき氷)、重箱入りの好物のおかず(最期の晩餐)などなど。深い味わいには欠けるとはいえ、おいしそうな後味は悪くない。



私の脳で起こったこと

私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活 
樋口直美 著 ブックマン社 2015

著者の樋口さんは41歳でうつ病と誤診され、6年間誤った治療で苦しんだ後、49歳ころから自力で調べることによりレビー小体型認知症を疑います。50歳のとき専門医を受診。初めて正しく診断され治療が始まりました。この本は、診断がつく直前の2012年9月から2015年1月レビー・フォーラムで講演するまでの日記です。「執筆依頼を受け、参考にと見せた日記をこのまま出版したいと言われて驚きました」まえがきで樋口さんはそう述べています。読者としては、そのとおりに実現したことに感謝したいと思います。

日記からは、体調不良の波、幻視、意識障害、自律神経障害などに翻弄され、日々“困っている”樋口さんの悩み揺れ惑う心がリアルタイムに伝わってきます。程度の差はありますが、患者は病名以前に『困ってるひと』ではないでしょうか。診断がつかない患者は「コマッタさん」の扱いを受けがちです。「うつ病」や「認知症」など一把一絡げのレッテルを貼られ、その日からアウェイの世界に追いやられる、それは病気よりも辛い災害ではないでしょうか。医師には「どうしましたか」ではなく「何に困っているのですか」と聞いてほしいと望みます。樋口さんは「脳には無数に機能がある。レビーはそのいくつかのスイッチに時々、不具合が起こる、そういう病気」というイメージを得て精神的に楽になった、と言います。「脳科学者に質問してみたい」という樋口さんの期待がかなえられるとともに、研究者や医療者が樋口さんから多くのことを学んで欲しいと思います。

藤野武彦氏の解説からは医師としての感銘が伝わります。


この本は患者や家族に元気と勇気を与えるのは明らかだが、多くの医師・専門医、医療関係者にとっても異質ではあるが、質の高い医学テキストにもなっている」さらに「危険な戦争地域で取材するジャーナリストにも匹敵する<内なる戦争>を活写された著者を、新たな勇気あるドキュメンタリー作家と考えるのは私の“誤診”ではなかろう。

その診断にたがわず、本書は、第4回日本医学ジャーナリスト協会賞 書籍部門の優秀賞を受賞しました。

病気とは、意味とも価値とも幸不幸とも関係ない。意味があるとかないとか、価値があるとかないとか、幸せか不幸かとか、そういう次元のものじゃない。もっと膨らみ、広がり、深みのある、何か豊かなものを生み出す基になるものなのだと思う。

この一文は「闘病文学」の真髄を表現しています。樋口さんとの出会いに感謝します。

レビーフォーラム2015[講演1]樋口直美(レビー小体型認知症と生きる当事者)
レビー小体型認知症の語り (健康と病の語り ディベックス・ジャパン)




医療における沈黙の壁

沈黙の壁
 語られることのなかった医療ミスの実像
ローズマリー・ギブソン、ジャナルダン・プラサド・シン 著 瀬尾隆 訳  日本評論社 2005

WALL OF SILENCE : The Untold Story of the Medical Mistakes that Kill and Injure Millions of Americans ,Rosemary Gibson and Janardan Prasad Singh ,2003


1999年、クリントン大統領の要請により、米国科学アカデミー医学研究所(IOM)は医療事故対策に関する報告と提言をまとめて発表しました。(『人は誰でも間違えるーより安全なシステムを目指して』日本評論社 2000年)米国では毎年推計で9万8000人が医療ミスで死亡していることがわかり、医療の安全を確保する医療システムの改革が緊急の課題となりました。本書はIOM報告が提起した医療ミスの問題を受けて2003年に書かれました。「この本が多くの人の生命を救うものになるように」。著者(政策研究者とエコノミスト)がこの本に込めた願いでした。

「なぜ医療システムは防ぎうる被害を生んでしまうのだろうか」「社会の監視はどうあるべきか」「患者や家族ができることは何か」などのテーマを通して繰り返し現れてくる“沈黙の壁“。これこそが本書の究極のテーマである、と受け取りました。医療ミスの被害を受けた人々はもちろんのこと、本書は、医療者もまた沈黙の壁に苦しめられていることを取材しています。語られることが少ない医療者の沈黙の声を拾ってみました。

ある医療提供組織のCEOは傘下の病院が医療ミスの発生率を10%以下にするという目標を掲げたことを知り、怒りで真っ赤になって言った。「航空会社が航空機による事故の率を引き下げるという目標を掲げたら、いったい誰が納得しますか。そんな目標はまったく受け入れられないものです」(P.67)

あるベテラン医師が自省を込めて:「実際に研修医が常勤医に、あなたは間違ったことをしていないかと質したことで、常勤医がその当人を研修プログラムから放り出したり、厳しく叱責した例をいくども見聞きしてきました」(P.111)

ある医師の述懐:「時間が足りなくて自分にできる水準の医療を諦めざるをえないと思ったことが何回かある。そんなことを気にすることもできない状態に追い込まれたこともある。時には患者が死んでくれれば睡眠をとれるのにと思ったことさえある」(P.112)

著名な病院コンサルタント:「私は怖いものしらずの危ない人間だった。病院の組織再編に罪深い提言をしてきた。子どもが集中治療室の世話になり、何日も病院で過ごす間に、看護師の姿をつぶさにに見て初めて看護師の仕事がいかに重要であるかを理解した」(P.131)

ある臨床医の手紙:「言うなれば、私は守るべき走行レーンを外れて白線をまたいでしまった。その瞬間から私の言動は常に同僚から監視され、何かあればだたちに退職させられる立場に立たされた。ある問題を私がおおやけの場で提起したことが周りの人間を神経質にさせ、その原因を作ったのは私ではないが、「チームの一員」にしてはおけない人間ではないか、つまるところ、仲間とチームを守るためにはあらゆる犠牲を払う意思がない人間だと思われてしまった」(P.166)

幼い子どもを奪われた母の一言:「パン屋は自分の失敗を食べてしまうが、医師はそれを土に埋めてしまう」(P.223)

患者からの「責め」を自ら果たした女性医師:「私はミスがあったことを詫びる手紙を書いた。そのことは病院には知らせなかった。知らせたら訴訟を恐れて送らせなかっただろう。しかし、真実を伝えることなくして倫理的にすべきことはありはしない。それは医師である私の義務なのである」(P.229)

誤った処方で父を亡くした娘:「病院の人は父の死を招いた責任を認めました。かれらは謝罪しながら私たちといっしょに涙を流しました。私は、神が天から降りてきて私の肩にのしかかっていた重しをとってくれたかのように思えました。口ではうまく言えませんが、真実がわかってはじめて癒しが始まるということを実感しました」(P.231)

子どもを医療ミスで失った母:「エラーをおかした人には支えとなるものが何もありません。医学校ではそういう問題に対処する方法を教えていないのです」(P.233)

娘を医療ミスで失った母:「あの医師たちは娘が “先生たちが私を傷つけようと思ってしたことじゃないのだから許してあげるわ” と言ったのを聞いていないのです。この言葉には、とても深く豊かな意味がこめられているのに、医師たちは聞く機会を逸したのです。本当は締め付けられような苦痛を味わっているはずなのに・・・」(P234)

医療ミス問題の権威:「診療に懸念を抱かせる医師はあらゆる病院にいます・・・そのことは誰もが認めるのですが、その誰もが自分ではなく他の誰かのことだと思い込んでいるのです」(P.281)


第4章:自分を守る知恵  (P.293〜302)

1.医療ミスは起こりうるものだと理解しておくこと
2.身体を修理するなら家を修理するのと同じくらいの知識をもつこと
3.できる限り情報を集めて最善の医師を選ぶこと
4.専門医・認定医の意味を知っておくこと
5.診療録の写しを入手して自分で読むこと
6.日記に記録をつけること
7.信頼しても裏づけをとること
8.入院中にかかりつけ医と連絡をとる方法を確認しておくこと
9.誰かが入院するとわかったら、できだけ病院にいくこと
10.検査を受けて何の連絡もなかったら問題はなかったと思い込まないこと
11.自分の直感を大切にすること
 

「医療事故調査制度」で知っておくべき6つのポイント (追加:2015.10.15)

〜10月スタートの新制度に対する医療者の責務と患者の心得〜 
全文
(WHEDGE Infinity 2015年10月13日)


(1)医療事故調査の入口を閉ざさない
★医療スタッフの中に一人でも調査すべきと考える人がいる場合は調査すべきである。
(2)解剖はできるだけ積極的に実施する
★遺族側が、積極的に解剖を依頼する。
(3)事故調査には第三者の委員を複数配置する
★誰が見ても第三者と呼べる委員を複数名入れる。
(4)遺族からも事実経過のヒアリングを行う
★そばにいた遺族だけが知っている情報が存在する可能性に留意すべきである。
(5)事故報告書は確定する前に遺族に見せる
★ある程度、医療事故の中間報告ができるようなタイミングや、最終の報告書のドラフトができた段階で遺族に見てもらう。
(6)再発防止策が実際に進んでいるかを確認
★医療機関は努力の結果を遺族に報告する。遺族はその成果に対して感謝と激励の言葉を伝える。



「医療社会学」の発見
    生命倫理をみつめて 医療社会学者の半世紀
レネー・C・フォックス 著 中野真紀子 訳 みすず書房 2003

Renee C. Fox  CONVERSATION IN JAPAN
Interview made 12 and 27 April 2001 Tokyo
The human condition of medical professionals
 


合衆国における医療社会学者の最初の一人である。参与観察者として、独自の境地を切り拓いた。1928年、ニューヨーク生れ。ハーヴァード大学大学院社会関係学科入学。タルコット・パーソンズの下で医療社会学への道を切り拓く。 もっと詳しく

私が生まれて初めて読みきった “社会学” の本である。「闘病文学のページ」に関心を寄せてくださった、ある女性のブログの中でこの本と出会った。著者のレネー・C・フォックスとブログの女性は共に同じ医療社会学者である。“社会学” には縁がなく、関心もなかった私が、なぜこの本にこれほどまでに心惹かれたのだろうか。それは、おそらく、「医療というものの中に、医学的なものにとどまらない価値を持った、社会や文化の問題や抽象的な倫理問題を絶えず探求できる小宇宙を発見した」という著者の感じ方に共感したからだと思う。

私自身はこれまで、 “医療” や “医師・患者関係” を考えるためのヒントをもっぱら “文学” に見出そうとしてきたが、この本に出会い “医療社会学” という考え方・視点を発見した。一方で、表現を獲得できないまま、心の隅に押しやられていた想念を言い当てられた感もある。「言われてみれば図星」と感じられる指摘がいくつかあった。例えば「F第2病棟」の “文学的” なエピソードがそうだ。

患者たちは、ポリオをわずらったことのある著者を<この病棟の元患者社会学者>として受け入れた。患者独特の心理による洞察から、著者が社会学者として病棟を訪れることを、病状が悪化してふたたび病院に戻るときに備えて思いついた巧妙な方法であると結論づけたのだ。

そういえば、私自身、患者図書室で働いていたとき、司書というより、元乳がん患者としての方が受け入れてもらいやすかった。

「医学生の不確実性への訓練」における深い洞察にも目をみはった。医師・患者関係において「感じすぎる」ことと「感じなさすぎる」ことの間を揺れ動く行程の分析など、医療者が教育現場において、より深化させていって欲しいと思わせられる課題のいくつかが提示されている。患者にとっても、医療者を理解する上で、これまでなかった視点に気づくことができるという点で有益だ。関連のテーマが「付・医療専門職における人間の条件」にまとまっており、ここだけでも本書を読む価値がある。



澤居紀充 胃がん詩集(典拠:「吉田民主文学」26号 2016.9)
澤居紀充さんはHP主の図書館短期大学同級生でした。2018年5月5日に逝去されました。
   
精 錬


屋根裏の奥に這いこんで
古い蔵書を掘り起こした
胃がんで入院を待つ間

すべて清算し出直そうと思い
まず段ボール三〇箱ばかりを処分したが
古紙と変わらぬ値段に動揺した

その後なおも段ボール箱を開け
今度は一冊一冊点検するうちに
忘れていた「自分」が現れた

値段の問題ではない
時間の問題でもない
自分を捨てることはできないのだ

残すべき本を選び抜き
もう一度自分を精錬する
レアメタルのように


内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)

うつらうつらしていると
部屋の扉をたたく音がする
いまごろ誰だろう…

「ここを開けろ!」
「早く開けないか!」
それは箱の中から聞こえた

ぼくは誰も閉じ込めた覚えはない
しかしその音はいつのまにか
ぼくの胸の奥に移っていた

目が覚めると
なんとそいつが
ぼくの口から出てきた


手 術 台

車椅子から降りて
手術台に乗る
二等寝台車のように狭い
しかし固くもなく
冷たくもない
むしろ暖かだ
病衣の上を脱がされ
横たわる
柔らかなもので全身が覆われる
次に病衣の下が脱がされ
ぼくは今や素裸となる
素早く各種のモニター類が身体に付けられる
大腿四頭筋の太いのに
感嘆の声を挙げるのが聞こえた
きっと前日に病床に説明に来た手術場の看護師さんだろう
山登りの話をしていたのだ
山登りといっても海抜一二〇メートルの吉田山だが
手術に備えて毎朝登った 雨の日も
ちょっと不謹慎だろうと思いながらも
何となく得意になる
しかし左手の甲に点滴の針の痛みを感じたのを最後に
あとは何の記憶もない
麻酔から覚醒するときに
呼びかけに応えて
スペイン語でムイビエン(よろしい)と恰好をつけたが
声に出たかどうかは分からない
 

医者かぶれの兄と医者嫌いの弟の医学談義

病は気から 
Moliere "Le Malade Imaginaire", 1673
モリエール 鈴木力衛訳、岩波文庫、1970年)

あらすじ 

主人公アルガンは医者にだまされ自分を病気だと信じきって医者のいいなりになっている。そんな彼は自分のために娘アンジェリックを医者の息子と結婚させようとする。ところが医学校を出たばかりのその息子はたいへんな間抜けですることなすことトンチンカンな人物である。しかもアンジェリックには相思相愛の恋人がいた。一方、アルガンの若い後妻のペリーヌは、貞淑で献身的な妻を装いながら裏で夫の財産を狙っている。アルガンの弟ベラルドと女中のトワネットは、アンジェリックを苦境から救い、アルガンの目を覚まさせるために一計をめぐらす。 

この作品における風刺の最大のターゲットは医者である。モリエールは悪質な胸部疾患に悩まされ続けていた。モリエール一座の座長、作家、演出家、俳優を兼ねるという超人的活動のため、この作品の上演のころには、最悪の状態に至っていた。自らアルガンを演じたこの作品の4回目の公演で、激しい咳に襲われながらも最後まで演じきり、幕が下りると同時に倒れた。自宅に運び込まれてまもなく息をひきとったと伝えられている。余命いくばくもないモリエールがどこも悪くないのに重病だと大騒ぎするアルガンを演じたのは皮肉である。医者に失望されどおしで大の医者嫌いだったモリエール本人の発言はアルガンの弟ベラルドが代弁している。

<医者かぶれの兄と医者嫌いの弟の医学談義> 第3幕3場より

アルガン 少し筋道を立てて議論しようじゃないか。おまえは医学というものをまったく信じないのかね?

ベラルド ええ、兄さん、自分の身のためにも、信じる必要はありませんな。

アルガン なに?おまえは世界中で認められ、昔から尊敬されてきたものを、真実とは思わないのか?

ベラルド 真実と思うどころか、ここだけの話ですが、医学なんて人間世界に存在する最大の気違い沙汰のひとつだと思いますよ。ものごとを哲学者ふうに考えれば、人間が身のほどもわきまえず、ほかの人間の病気をなおそうなんて、こんなばかげたことは絶対にありませんよ。

アルガン 人間がほかの人間の病気をなおすのが、どうしていけないんだ?

ベラルド 人間のからだがどういうふうにできているか、これまでのところ、まだだれにもわからない神秘だからですよ。自然がわれわれの目の前に、厚いとばりをおろしたので、われわれにはさっぱりけんとうがつかないというわけで。

アルガン じゃ、おまえに言わせると医者たちはなんにも知っちゃおらん、というのだな?

ベラルド いいえ、兄さん。かれらの大部分は古典の教養をじゅうぶん身につけています。きれいなラテン語をしゃべり、ありとあらゆる病気にギリシャ語の名前をつけ、それらを定義し、分類するすべをわきまえています。しかし、病気をなおすことにかけては、まったく無知なのです。 

アルガン しかし、いずれにしろ、その点について、医者はほかの連中より詳しい知識があることは認めざるをえないだろうな。

ベラルド 兄さん、あの連中は、いま私が言ったようなことは心得ています。だが、それで大した治療ができるわけじゃありません。かれらの技術が優れているといっても、それは子どもだましのハッタリ、中身のないおしゃべり、もっともらしい言葉をならべ、効果のない約束をするにすぎないのです。

アルガン しかしだね、おまえみたいに賢くて、学問のある人は世間にたくさんいるけれど、病気になると、みんなお医者さんにかかるじゃないか。

ベラルド それは人間が弱いということを示すものであって、医術が正しいということにはなりませんよ。

アルガン だが、医者は自分の技術が正しいと信じているにちがいない。自分が病気になったときも、その技術を適用しているんだから。

ベラルド それはですね、医者のなかにも、ありふれた間違いを犯しながらそれをうまく利用する連中もいれば、間違いを犯さずうまくやって行く先生もいるからですよ。たとえば、あなたのビュルゴン先生は、どう見てもあまり頭の切れる人じゃありませんね。頭のてっぺんから足の先まで、典型的なお医者さんで、数学のありとあらゆる証明より、自分の法則を信じている人なんです。その法則を検討するなんて、許しがたい犯罪だと思い込んでいる。医学には、なにやらあいまいな点も、疑わしいことも、困難な問題もないと信じこみ、猛烈な先入見や、確固不動の信念や、乱暴きわまりない常識と理性で、むやみやたらと浣腸や刺絡をやってのけ、その結果がどうなるか、考えてみようともしないんです。あの連中になにをされようと、決して悪く思っちゃいけません。良心になんのやましさも感じないで、あの世に送ってくださるんですから。あなたを殺すにしても、自分や妻や子どもたちを、いざとなったら自分自身を殺すのと同じやりかたで、やってのけることでしょうよ。
]
アルガン つまり、お前は昔からあの先生に含むところがあるんだね。ところで、実際問題として、おまえは病気になったら、どうするつもりだい?

ベラルド なんにもしませんよ。

アルガン なんにも?

ベラルド なんにも。じっと安静にしていればいいんです。自然のままに任せておけば、体調の乱れも、おのずから徐々に回復していくものです。あせったり、いらいらしたりするから、なにもかもだめになってしまいます。患者の大部分は、病気のために死ぬんじゃなくて、薬のために死ぬんです。

アルガン しかし、その自然とやらにも、なにかで力添えしてやることができると思わんかね?

ベラルド いやはや、兄さん、それはまったくの妄想ですよ、われわれはとかくそういう妄想にとらわれがちですがね。いつの時代にも人間のなかに美しい想像がもぐりこんできて、こちらも悪い気がしないもんで、ついそれが真実だと思いこみたくなるんです。医者が自然に力を添えるとか、自然をやわらげるとか、害になるものを取り除くとか、欠けているものを与えるとか、自然を修理して円滑な活動を回復させるとか言ったり、あるいはまた血液を正常化するとか、内臓や脳髄を緩和するとか、脾臓を収縮させるとか、肺臓を修復するとか、肝臓を治療するとか、心臓を強化するとか、自然のままの体温を還元して、これを保存するとか、長命の秘訣をわきまえているとか言ったりするときは、医学の夢を物語っているにすぎないのです。しかし、事実や経験に照らし合わせてみると、そんなものは何ひとつありません。いってみれば、美しい夢からさめて、うっかりそれを信じたことを不愉快に思う気持にそっくりなんですよ。

アルガン つまり、おまえの頭のなかには、ありとあらゆる学問が詰め込んである、というんだな?今の時代のどんな偉い医者よりも、おまえのほうが学があるというわけか?

ベラルド 兄さんの大好きな偉いお医者さんは、言うことと、することが、まったく矛盾しているんです。おしゃべりになることを聞いていると、世界でも一流の人物らしく思えますが、実際におやりになることは、無知蒙昧の一語に尽きますよ。

アルガン ほほう!おまえはどうやら大博士らしいな、そういう先生がた一人がここにおられて、おまえの議論をたたきつぶし、偉そうな口をきけないないようにしてくれたら、さぞ愉快だろうが。

ベラルド いいえ、兄さん、私はなにも医学そのものをやっつけるつもりはありません。人間は、覚悟のうえなら、だれしも好きなことを勝手に信じたらいいでしょう。私はただ二人だけで話し合って、兄さんの迷いを覚ましてあげようと思っただけなんです。気晴らしに、こういう問題をよく取り上げるモリエールの芝居でも見せてあげたいものですね。

アルガン あんな芝居を書くモリエールというやつは、よっぽどどうかしているんだよ。お医者さんのような立派な先生がたをからかうなんて、はなはだもってけしからんと思うね。

ベラルド モリエールは医者をからかっているんじゃありませんよ。医者の愚かしさを槍玉にあげているんです。

アルガン 医学がどうのって、口を出すのは生意気千万だよ。お医者さんの診断や処方をひやかしたり、医学者仲間にたてついたり、ああいうごりっぱな方々を自分の舞台に引きずり出すなんて、ばかもいいところだ。頭がよっぽどおかしいんだ。

ベラルド いろんな職業の人たちを芝居に登場させるのは、あたりまえのことじゃありませんか。お医者さんと同じくらいりっぱな家柄の王侯貴族でさえ、毎日のように舞台に出てくるんですからね。

アルガン まったくどうもけしからん話だ!わしがもし医者だったら、あいつの思い上がりを叩きのめしてやる。あいつが病気にでもなったら、面倒も見ないで、そのまま死なせてやる。なにをしようと、何を言おうと、処方なんかおことわり、刺絡ひとつ、浣腸ひとつしてやるもんか。わしはあいつに言ってやる。「くたばれ、くたばれ!医学をばかにするとどんなことになるか、これでわかったろう」ってな。

ベラルド いやに憤慨なさるじゃありませんか。
]
アルガン そうとも、あいつは無分別な男じゃ、お医者さんたちがお利巧なら、わしの言ったとおりになさるだろうよ。

ベラルド モリエールさんはお医者さんたちより利巧だということになるでしょうね。面倒をみてくれなんて頼まないんですから。

アルガン 薬ものめないとは、あいつもかわいそうに!

ベラルド そんなものを欲しがらないのは、それだけの理由があるからですよ。モリエールの説によると、薬は丈夫で頑強な人だけがのむべきもの、病気ばかりでなく、薬も耐えられる余力のある人が服用すべきものなんだそうですよ。しかし、かれ自身は、自分の病気に耐えるだけの体力しかないんだ、と言っているそうです。

アルガン なんてまあ、ばかげた理屈だろう!しかしまあ、あの男の話はもうやめようじゃないか、腹が立って、腹が立って、またもや発作が起こりそうだからな。



患者と医者のズレとすれ違い


    悪 医   
久坂部 羊(くさかべ よう)朝日新聞出版 2014

1955年大阪府生まれ。大阪大学医学部卒。医師、作家。外務省の医務官として9年間海外で勤務した後、高齢者を対象とした在宅訪問診療に従事。現在は大阪人間科学大学教授。専門は高齢者医療、終末期医療。 2003年、老人の麻痺した四肢を切り落とす医師が登場する『廃用身』で作家デビュー。『悪医』は第3回日本医療小説大賞

医 師
「残念ですが、もうこれ以上、治療の余地はありません」 
[低い確率の方が当たった...不運としか言いようがない...]
患 者 「先生は、私に死ねと言うんですか」 
[早期だから、95パーセント治るといったじゃないか、信頼してまかせたのに...]

医者は悪徳医者ではないし、患者もクレイマー患者ではない。いずれも、真面目で誠実、読者の身近にいるよき日本人である。治せない医者とその事実を受け入れられない患者。決して稀とはいえない、むしろ、ざらにあると言ってもいい状況における両者の関係。小説『悪医』は、すれ違ってしまった患者と医者の、その後の葛藤と苦悩をどちらか一方に偏ることなく、それぞれに丁寧に描いている。

難治がん告知 医師が研修 患者に寄り添い、うつを和らげる 
(6月29日読売新聞くらし面)

「乳がんを告知した患者が突然、病室から姿を消し、探し回った。やっとみつけた彼女は、中庭の片隅にぽつんと一人座っていた。そんな姿を見て、少しでも相手をつらくさせない伝え方はできないものか、ずっと頭のどこかで気になっていた」そうした体験をもつ医師は少なくないだろう。日本サイコオンコロジー学会が主催する「がん診療医向けのコミュニケーション技術研究会」では、2日間で講義や模擬患者面接などを通じ、難治がんの告知の際の注意すべき点を学ぶ。全国で約900人が受講しているという。

難しい告知の際、正確な説明や精神的ケアのために、医師はたくさんの言葉を重ねなくてはいけないと考えがちだが、ショックで頭が真っ白な状態の人に、いくら情報を提供しても伝わらない。患者のペースに合わせるためには、むしろ、沈黙の時間が大切である。




働き盛りの医師の闘病記

医師は病気のプロ。患者を治し命を救う。とはいえ、その仕事の中には常に「死」が存在している。患者は情報弱者ゆえの気後れと「死の観察者」に対する畏敬のため、医師を自分たちと同じ等身大の人間と見ることがなかなかできない。しかし、闘病記においては両者の心はじかに触れあう。40代という働き盛りに末期がんに直面した4人の医師の闘病記を紹介する。彼らは医師−客観的な観察者として自らのがんに向き合い詳細に記録する一方で、突然命を断ち切られる不条理、キャリアが終わる無念、残してゆく家族への哀切たる思いをそれぞれ異なる表現とスタイルで綴った。



ある日突然、末期癌と知って (碧天舎 2004)
横山 邦彦(放射線科医 すい臓がん 享年43歳)

自分で撮ったCTで進行膵臓がんを知ったその日から書き始めたブログ風の日記。リズムを刻む独特の表現に思わず引き込まれる。

電線の鳩が雨に濡れている/もしも生まれ変わったら/鳥になりたいと思ったが/鳥もなかなかつらかろな/雨が降っても宿もなし

自身の精神状態さえ冷徹に分析するこの人は芸術家でもあった。余命を知って童話を書き(『老人と鍋』碧天舎2004)、55万円のヴァイオリンを買った。ブラームス、バッハに慰み、「なぜ書くのか、誰に読ませるというのか」という自ら発した問いの答えを『きけわだつみのこえ』にみつけた。民間療法を薦める母と末期がんと言いだせない息子との噛み合わないそのまんまの会話。お互いの気づかいが深いあまり生じてしまう辛い情景、にもかかわらず、理解や納得を超えた深い愛情に一瞬心がなごんだ。
 



できれば晴れた日に  (ヘルス出版 2009)
自らの癌と闘った医師とそれを支えた主治医たちの思い
 
板橋 繁(呼吸器内科医 胃がん 享年46歳)

@ 初発のときからの日記 A 再発後の自らの振り返り B 没後、医師たちが加えた追記。3つの時間軸で“そのとき”を記録するという構成。板橋医師とかかわりの深かった医師たちが提案した斬新な方法によって、この闘病記は患者と医師の協働による、かってない全人的で完璧なカルテになった。注目すべきは、“そのとき”ごとに患者と医師の間で生じた複雑で微妙なすれ違いであろう。


上司は私の仕事を縮小しようとする。善意とわかってはいるが、私の希望は仕事を続けることだ。

モルヒネの使用に抵抗するのは、癌に降参したくない気持からである。患者になって初めて気づいた。

不治の病になったその時から人は死に始める。死の瞬間まで死に続ける。癌は慢性の死なのである。

「できれば晴れた日に」というタイトルは、三男が小学二年生のときに書いた「なつ休み」という作文「どこかに遊びにいきたいです。できれば天気のいい日にパパといきたいです。」からとられた。


ある末期がん患者のつぶやき
メディカル・サイエンス・インターナショナル 2000
高地 哲夫(麻酔科医 肺がん 享年43歳)

『LiSA』(麻酔を核とした総合雑誌)に10回(1998〜1999)連載された。「麻酔科医へのメッセージ」がはっきりと読み取れる。

<治癒の可能性のあるがん>の告知と<治癒の可能性のないがん>の告知とはまったく別ものです。前者は論理的スタイルの説明でいいですが、後者は時間をかけ段階を追って少しずつ察してもらうようにしてください。

患者さんを対象にした研究を計画するときには、自分が被験者になってもいいプロトコールにしてください。自分がされたくないことを弱者である患者さんに行うことだけは、絶対にしないでください。

呼吸や循環を思いのままにコントロールできる楽しみを早く卒業して、患者さんが少しでも苦痛のない安楽な術後経過が送れるような工夫をすることに喜びを見出してもらいたいと思います。

あなたが終末期の患者さんを受け持っておられるとしたら、処方箋を手にとる前に、今日は十分に話を聞くことができたか考えてみてください。終末期医療はまさに<一期一会>なのです。



僕はガンと共に生きるために医者になった 

肺癌医師のホームページ
 (光文社新書 2002)
稲月 明(内科医 肺がん 享年42歳)

「お父さん、なにかしたいことある?目標は?」
「そうだな、ホームページを作ることかな(本当の目標は、来年の君の十歳の誕生日まで生きていることなんだけど、ちょっと難しいんだ)」
 

病室でHPを開設し、啓蒙的な文章を発信。HPを通して繋がる一期一会をいつくしむ最後の日々。


医師としてのこれまでの経験は、自分の癌を受け入れるための修行であったように思われます。

冗談ひとつ言わない私は職員の方々にもつきあいにくい医師だったでしょう。それでも私は職員の方から、主治医になって下さい、と頼まれるような医師でありたいと常に考えて仕事をしてきました。やっと一人前になり、故郷の地域医療に貢献できると思っていたのに、お別れになってしまいました。




プラシーボ効果抜群のがんの本

   病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘
The Emperor of All Maladeies :A Biography of Cancer

シッダールタ・ムカジー 著 
田中文 訳 早川書房 2013
 
シッダールタ・ムカジー Siddhartha Mukherjee 
1970年ニューデリー生れ。腫瘍内科医・がん研究者。現在はコロンビア大学医学部准教授・同メディカルセンター指導医。ダナ・ファーバーがん研究所とマサチューセッツ総合病院における研修中から書き始められた本書は2011年にピュリッツァー賞、他数々の賞を受賞した。訳者の田中文(タナカフミ)は東北大学医学部卒の医師、翻訳家。


1995年、私(HP主)が乳がんになったとき読んでいた、杉村隆『がんよ 驕るなかれ』(日本経済新聞社 1994)の中で次の一節に出会った。


がん細胞には多重な遺伝子変化があり、多段階の発がん過程があり、複数の発がん要因があり、しかもそれがあり続ける、したがって多重な原発がんが発生する。(杉村隆)

人間というものは、今日、普通に元気そうに存在しているんだけれども、それは未発−未だ発せざる−がんと共存しているものであるというふうに認識した。(司馬遼太郎


病気の説明でもなく治療の情報でもない、この抽象的な表現が、一見奇妙だが、私の気持ちを落ち着かせ不安をやわらげた。現在の患者は、がんと闘う以前にあふれるがん情報と闘わなくてはならない。がんについて正しくイメージするための表現、ことば、本が必要だ。このたび、まさにぴったりの本が出版された。“がんの伝記”という副題が本書の神髄を表している。がんと人類の4000年の苦闘を綿密に調査し再現しようという途方もない企画。ムカジーはそれをこともなげになしとげた。小説のように語り、絵画のように描き、音楽のように奏でた。アトッサの闘いの章のごとくに。科学者の知性と芸術家の感性が見事に調和した奇跡の1冊である。

冒頭の杉村先生の一節はムカジーの表現によれば「発がんのマーチ」であり、司馬氏の一節は「がん細胞はわれわれ自身のゆがんだバージョン」となる。ムカジーの魔法によって、堅苦しい知識たちが教科書の箱から次々と飛び出してフォークダンスを始め、その輪が大きく広がっていく。

この本が生まれたきっかけは、著者が受け持った患者の一言だった。「このまま治療を続けるつもりだけど、私が闘っている相手の正体を知らなくちゃならない」本書はこの質問への長い回答であり、思い浮かべた読者は患者や家族たちだった。かれらの知りたいという要求に最大限真剣に向き合い応えたかった、という。壮大ながん劇場で繰り広げられる情熱的なダンスとスリルに満ちたバトル。その一方で、地下水のように音もなく静かに流れているもう一つの物語がある。主人公は、ロバート、ジミー、カーラ、かれらの前の、そしてかれらの後の患者たちである。その中に私もいる。

私が乳がんになった1990年代は、根こそぎ手術(ハルステッド法)は過去のものになり、化学療法が脚光を浴びていた。そのころ、日本において“闘うな”という奇妙な旗印を掲げた戦士が現れた。『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠氏である。主張や理論はともかく、「医師陣営を敵にまわし患者側から発言する無頼派の論客」というイメージはなんとも頼もしかった。抗がん剤治療を受けながら『がん放置療法のすすめ』を読んでいるがん患者は少なくない。がんと対話しているがん読者は「近藤誠の正しい読み方」を会得していると思う。

比喩、隠喩、例え、ユーモアなど文学的要素が濃いことも本書の大きな魅力である。古今東西の古典からの引用も多い。その中から一つ選んで掲げる。

敵を知り己を知れば、百戦して危うからず。敵を知らずして己を知れば、一勝一負す。敵を知らず己を知らざれば、闘うごとに必ず危うし。(孫 子)




文学者の闘病記 あるがままを生き抜き描く


癌だましい
山内令南 (『癌だましい』文藝春秋 2011)

山内 令南(やまうち れいなん1958-2011)岐阜県生、岐阜大学医療技術短期大学部看護学科卒。2011年「癌だましい」にて 第112回文学界新人賞を受賞。受賞第一作「癌ふるい」を脱稿後に食道がんのため死去。2012年のNHKニュースウォッチ9で、この作品と作家に強く惹かれたという担当ディレクターの取材による特集が放映された。

令南は母を看取った後、自らも51歳で末期の食道がんの宣告を受けた。『癌だましい』の主人公の麻子は45歳で、やはり末期の食道がんである。彼女の唯一の楽しみは食べること。「腹減った。食いてえ。もっともっと、食いてえ」とひたすらに喰らう。その描写のあまりの執拗さには目をそむけたくなった。しかし、読み終えたとき、小説の印象は大きく変わっていた。麻子の食べ物に対する凄まじいまでの執着は、最後まで紙とペンを傍らから離さず、「私の使命は書くこと」というメモを残した令南の「もっともっと書きたい」という激しい情熱と軌を一にする。それは「生き抜く力」の表現だった。死病に取りつかれながらも食い道楽を極め、最後の最後まで新聞の連載に執念を燃やした正岡子規にも共通するものが感じられる。



癌ふるい
山内令南 (『癌だましい』文藝春秋 2011)

「癌だましい」で受賞後の第1作。脱稿後まもなく逝去した。全篇がメールの文面で構成された小説である。「こんにちは、ご連絡したいことがあり、メールにて失礼いたします」あっさりとがんを知らせるメールに対し、一週間以内に27人が返信した。それぞれの返信の末尾に付与されたプラス・マイナス評価は、令南から読者へのメッセージであろうか。『癌だましい』の息苦しいまでの気迫が、ユーモアとアイロニーにとって代わり、死を目前にして書かれたのが信じられないような不思議な明るさに満ちている。前途が開けた矢先の作家の死。がんによってさらに大きく花開いたであろう才能が惜しまれる。医療やケアの関係者は、付与された点数からなんらかの示唆を受け取ることができるかもしれない。「もし、私だったら返信に何をどう書くだろうか?」令南の仕掛けたふるいに挑戦してみてはいかが?



病牀六尺 
正岡子規 (ワイド版岩波文庫 1993)

俳句、短歌、評論、随筆など多方面の創作活動で日本の近代文学に大きな影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である正岡子規は、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。『病牀六尺』は新聞『日本』に連日連載。最終回の127回が掲載された2日後に子規は亡くなった。


悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

究極のコロンブスの卵である。65〜69回では“看護論”さらには “女子教育論”が展開されている。

看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。傍らの者が上手に看護してくれさえすれば、病苦などはほとんど忘れてしまうのである。

病人の看護と庭の掃除とどっちが急務であるかという事さえ、無教育の家族にはわからんのである。ましてどうして病苦を慰めるかという工夫などは固より出来るはずがない。(略)ここにおいて初めて感じた。教育は女子に必要である。

看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、そうではない、やはり普通学の教育をいふのである。

病気の介抱に精神的と形式的の二様がある。(略)もしいずれか一つを択ぶという事ならばむしろ精神的同情のある方を必要とする。



われはうたえども やぶれかぶれ
 
室生犀星 (講談社文芸文庫 1993)

室生犀星(むろう さいせい1889-1962 )石川県金沢市生まれの詩人・小説家。昭和36年夏、家族に肺がん宣告。本書から犀星も自らの病について知っていたことがうかがえる。

患者心理の優れた描写が随所にみられるが、圧巻はコバルト照射に向かうエレベーターで毎日のように出会う色黒で眼球がぎょろりとした老人との攻防である。老人は先に乗り込むと即座にボタンを押し、私(犀星)を置き去りにした。次の日もそして次の日も。私はここ二十年なかったほどの憎しみを覚える。さて次の日、こんどこそ私が先に乗り込む。エレベーターの中で二人はあからさまに睨み合う。やがて老人の姿は見えなくなる。私は病院中を捜し歩く。


私はこの男と睨み合い憎しみあうことで患者という弱りはてた世界から縋りついた人間くさい物をたよりにしていた。

それぞれに死をまもる孤独の病院にいては、憎しみでさえ一つの冷酷な友情に変貌しつつある。




医療の世界をおもしろく学べる小説

最後の診断
The final diagnosis by Arthur Hailey, 1959

アーサー・ヘイリー 著 永井淳 訳  新潮文庫 1975

「病理医の仕事と役割をみごとに描いた」との評価が高い小説。「病理診断」を中心テーマに据え、病院を改革する外科医と保守的な老病理医の対決をメインプロットに、様々な職種や立場の人物を配して、病院という組織の俯瞰図を描こうとしている。卓越したストーリーテリングにぐいぐい引き込まれ、しばし暑さを忘れた。半世紀も前の病院が舞台とはとても思えない。もちろん、恋愛もある。老病理医ジョー・ピアソンの造形がみごとだ。やや類
型的な人物が多い中、その圧倒的な存在感で作品を成功に導いた。しかし、物語の中では闘いに敗れ、病院を去ることになる。後任の若きコールマン医師に向かって語りかける場面は圧巻である。


身をもってそれを体験し、時流に取り残されるという過ちを犯した老人の忠告を聞いてくれ。決して私の二の舞にはなるな!その必要があったら押入れの中に閉じこもれ!本を読み、学び、聞け。


ピアソンが自身に下した「最後の診断」であったろうか。優れた翻訳で読めるのもうれしい。


ストロング・メディスン 
Strong medicine by Arthur Hailey, 1984
アーサー・ヘイリー 著 永井淳 訳  新潮文庫 1988

MRとして製薬会社に入社したシーリア。男性社会の偏見、利潤追求と社会的使命との相克、自社の起こした薬害など、様々な試練を経て苦悩しながらも、自らの倫理観に背くことなく、一つ一つ苦難を乗り越え、ついにCEOにまで上り詰める。我が国においては女性のクエスト物語は現在でも斬新だ。「ヒロインにシーリアという妻シーラに似た響きの名前を与えたのは偶然ではない」とは著者の弁。小説から30年経た現在の我が国において、シーリアの
ようなトップがいたらありえない事件が起こった。高血圧治療薬の臨床研究を実施した5大学でデータの改ざんが発覚、一部調査中という。全大学において大手製薬会社の同じ元社員の関与があり、総計11億円の寄付金が5大学に支払われていた。日本の臨床研究が信頼されなくなるという危機感から厚労省が検討委員会を立ち上げた。9月末までに対応と防止策をまとめるという。徹底した事実解明が今後の鍵を握っている。注目していきたい。


インフォームド・コンセント
Informed consent by Neil Ravin, 1984
ニール・ラヴィン 著 李啓充 訳 学会出版センター 1998  

わかったようでわからない言葉、IC。国立国語研究所は「納得医療」という言葉を提案した。なるほど、と思ったが、誰が何をどのように納得するのか、と考え始めるとわからなくなってくる。一方で、本書の訳者の李啓充氏が提案するICは「医者の勝手にはさせない」。実にあからさまでわかりやすい。まさしくそういう患者(弁護士)が登場する。大の医者嫌いで、とりわけ医者の説明不足には手厳しく容赦がない。その背景には兄の原因不明の死に立ち会った経験があった。この扱いにくい患者を一人の若い医者が、しごく単純な方法「正直に説明すること」によって治療の協力者に変えてしまう。二人は連れ立って医学図書館に行く。患者はIndex Medicus (現在ならPubMedだろう)で文献をチエックしリストを作る。医者は患者に代わってそのリストの文献をコピーしながら「大学病院はあなたを研究者に変えてしまった」と苦笑する。ICの実現を一つのエピソードで具体的に描いた小説。医学図書館が一役買っているのがうれしい。

巻末に付録として、ケネス・B・シュワルツ「ある患者の物語」が入っている。シュワルツ氏は医療問題が専門の若き法律家だったが、40歳にして末期の肺がんで亡くなった。この手記は、1995年7月ボストン・グローブ紙に掲載され大きな反響呼んだ。


感 染 者 
Omega by Patrick Lynch, 1997
パトリック・リンチ 著 高見浩 訳  飛鳥新社 2002

ロスの病院で、首に外傷をおった黒人少年が死亡する。あいついで足に銃弾を受けた警察官が死ぬ。いずれも手術は成功したのに抗生物質が効かなかった。外傷外科医マーカスは耐性菌を疑うが、彼に反目している感染予防の女性医師パトゥーは、あくまでも手術時の汚染を主張する。その最中に、マーカスの娘サニーが耐性ボツリヌス菌を発症する。絶体絶命のマーカスの前に謎の美女が現れ、究極の抗生物質オメガの情報をもたらす。製薬会社の陰謀と政府機関の画策。鍵を握る化学者の殺害。サスペンス映画さながらの展開となる。圧巻は、マーカスと保健総監マーシャル・ウェストの対決。オメガを今、目の前の患者に使いたいマーカスと人類の未来のために秘密にしたいウェスト。正直、どちらが正しいのか判断できなかった。「非認可業者の製造する“リボマックス”の最初のコピー商品が、上海と杭州で公然と販売されはじめた・・・」物語はこの一文で終わっている。




患者さんに顔がみえる病理医


堤先生、こんばんは o(^-^)o 若き女性患者と病理医のいのちの対話 
堤 寛 著  三恵社 2011

非常に稀ながん(悪性パラガングリオーマ)にかかった36歳の女性、為後久視(タメゴクミ)さんと病理医である堤寛先生が交わした500を超すメールがそのまま1冊の本になった。2005年7月、堤先生は淡路島で地域医療を実践している大鐘稔彦先生(『孤高のメス』の作家・高山路欄氏)から、患者であるくみさんの病理診断に関するセカンドオピニオンを依頼される。「病理診断書」とそこに添えられた長い手紙が二人の対話の始まりだった。その手紙には、見ず知らずの若い女性の希望を打ち砕きかねない、厳しい情報が、包み隠さずに書かれていた。

あなたがどのような感性をお持ちの方か全くわからずに、このような手紙を書くことにおおいなる躊躇を感じますが、私には他にどうしたらいいのかわかりません。何も応えないのは最悪ですし、ウソをつくわけにもいきません。

伝える人と受け取る人、双方の心中察するに余りある。

先生のやさしいお気持ちが伝わり、恐さより先に暖かい気持ちになりました。私は、先生の書いてくださったこと、しっかりと受けとめたいと思います。でも怖いです・・・

私たちはあなたの腫瘍から勉強させていただく立場です。感謝するのは私たちかもしれません。
「先生のおかげで、いろんなつかえが流れていきました・・・」


お互いをインスパイアする関係、人と人との“相互投資”、その実践のすばらしさに感動した。また、冒頭で述べられた一文
「くみさんとの交流は、患者を治療することのない、患者に触れることのない病理医だからこそ可能だった」という意味がよく理解できた。堤先生が尽力し、くみさんが切望した、標榜科として「病理診療科」は、くみさんが亡くなった翌年、2008年4月に実現した。

波の間に 小さき漁 飛びはねり まっかな太陽 恐れもせず (短歌:為後久視)


患者さんに顔のみえる病理医からのメッセージ
 
あなたの「がん」の治し方は病理診断が決める! 

堤 寛 著  三恵社 2012

病理医が書いた、患者さんのための本格的な「病理診断」に関する本。本邦初ではないだろうか。

病理医は患者さんに触らないし治療もしません。でも病理標本から病気の姿・タチがみえ、生命予後の予測もできます。病気の本当の状態を知りたい患者さんに、専門家としての自分の判断や考えを客観的に伝え、納得してもらうことが、病理医なら適切にできます。病理医を活用してください。患者さんに顔をみせる病理医の活動に注目してほしいと願っています。

目からうろこのメッセージだ。「病理外来」への期待が膨らんだ。その一方で、病理医は守備範囲が広く、病理検体の利用や廃棄、院内感染対策、死因究明などにおいても重要な役割を担っているという。しかし、病理医の数が圧倒的に足りないという厳しい現実があることも知った。「がん哲学外来」の著作が多い樋野興夫先生も「患者さんに顔のみえる病理医」である。樋野先生が変化球なら堤先生は直球。アプローチの方法は異なるが、患者や社会に対する、医師としての強い使命感と実践力、根底を流れるあたたかな情熱に共通するものを感じた。

★病理診断の特色ならびに病理診断を病理医から直接お聞きになる意義について(日本病理学会HP)
http://pathology.or.jp/ippan/outpatient-01.html




ユーモアと癒し

「最新の正しいがん情報」と「闘病を励まし支える読みもの」がにとな文庫における収書の両輪です。開放的な図書室ではありますが、「病気の本だけ?」と立ち去る方も少なくありません。一方で「現実を受け止める気持ちになれる本は?」「心の立て直しに役立つ本は?」などと聞かれることもあります。今回は、「闘病を励まし支える読みもの」の中から、ユーモアにスポットをあてた本を選んでみました。

笑いと治癒力 [膠原病回復記] (岩波現代文庫)
ノーマン・カズンズ 岩波書店 1999

カズンズは広島の原爆乙女をアメリカで形成手術を受けさせたことで知られるジャーナリスト。1964年、専門医から見放された重い膠原病から自ら考案した治療計画(“ビタミンC大量投与”と“笑い”)によりみごと生還。医師は前例のない治療に目を丸くしながらもカズンズの生への意欲と精神力を信じ、協力者として支えた。読者の性急な誤解を恐れ、1976年にやっとこの時の回復記を権威ある医学雑誌「New England Journal of Medicine」で発表した。この論文に提言を加えて出版されたのが本書である。人間の治癒力に対しての深い洞察が読者を励まし明るい気持ちにさせる。

ノーマン・カズンズとプラセボ
文学の中の医師



ベッドサイドのユーモア学  
柏木哲夫 メディカ出版 2005

『癒しのターミナルケア』『死を学ぶ 最後の日々を輝いて』などの著者の一冊。真似してダジャレの一つ、川柳の一句をひねってみたいような気持になる。ユーモアには治癒力に加えて感染力があるようだ。

お守りを 医者にも付けたい 手術前
寝て見れば 看護師さんは 皆美人
見舞客 化粧直して すぐ帰り
カタツムリ あれで結構 あせってる
オレの妻 きっとオレより 患者好き
お母さん 何を着てても 白衣以下
患者より 医者の気持ちが わからない
私って 深みないけど 幅がある


にとな川柳


悪魔のささやき医学辞典 
稲田英一 編 メディカルサイエンスインターナショナル 1996 (続編もあり)

ユーモアとアイロニーの世界は患者にとっても医療者にとっても大切な逃避場所。悪魔のささやきの中から神の福音が聞こえる? A.ビアス二世編『悪魔の医学辞典』に触発された麻酔科医が編んだ日本版。

【にゅういん】入院 admission
犯罪を犯していないのに、日常の自由を奪われること。刑務所よりも待遇は劣っており、料金を十分に払っているのにもかかわらず、しばしば食事が供給されなかったり、高度の食事制限が行われたりする。逆に空腹でもないのに食事が与えられることもある。(中略)有名人の場合には、特別に面会謝絶の許可がおり、記者会見や法廷での尋問を避けることができる。(服役者)


言いたくても言えなかったひとこと 医療編
ライフ企画 1997

ロボットのように診察する医師が 売店であんぱんを買っていた なんだかほっとした。
ドクター、その嘘は私(患者)のためになる嘘ですか?それともドクターのためになる嘘ですか?


こころの処方箋 
河合隼雄著  新潮社 1992

ほがらか癒しの河合節でこころを治療。[ベッドサイド必携 こころの処方箋カレンダー]があればいいな。

100%正しい忠告はまず役に立たない
100点以外はダメなときがある
マジメも休み休み言え
「理解ある親」をもつ子はたまらない
自立は依存によって裏づけられている


こんなとき私はどうしてきたか(シリーズ ケアをひらく) 
中井久夫 医学書院 2007

精神科医、文筆家、ギリシャ詩翻訳家。『看護のための精神医学』、『災害がほんとうに襲った時』など。

(患者への状況説明で)
「あなたは一生に何度かしかない、とても重要なときにいると、私は判断する」

精神保健いろは歌留多

論より実感
ちりも積もればある日爆発
スパイスだけで料理はできない
つらいときにも動物園
迷ったら森の奥に逃げるな
ひとのせいにすると世界が敵に見える


おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒 江國滋闘病日記 
江國滋 新潮社 1997 

がん告知後の医師の第一声

「高見順です」「は?」「癌ですか?」「食道がんです」実にあっさりとしたがん告知の後で、同じ医師が「こんなあとナンですが」と手ずれした江國滋著『日本語八ッ当たり』の初版本をさしだして一言。「サインをお願いできませんか、サインペンと筆ペンどちらがいいでしょうか」

残寒やこの俺がこの俺が癌
「センバツ」や判官びいきの癌患者
永き日や卑屈と深謝紙一重




子どもに“いのち”と“愛”を伝える絵本
(にとな文庫で所蔵している絵本より)

<ぼく>
『お母さんぼく星になったよ』白潟翔弥 金沢倶楽部 2011
<おかあさん>
『お父さん・お母さんががんになってしまったら』 Couldrick, Ann 作  阿部まゆみ, 田中しほ 訳 わたなべじゅんこ 絵 ピラールプレス 2005
『おかあさんが乳がんになったの』  アビゲイル&エイドリエン・アッカーマン  石風社  2007
『月のかがやく夜に : がんと向きあうあなたのために』 リサ サックス ヤッファ 作 向山雄人日本語版監修 遠藤惠美子訳 こばたえこ絵 先端医学社 2001
<おばあちゃん・おにいちゃん>
『おじいちゃん わすれないよ』  ウェステラ・ベッテ 金の星社  2002
『ぶたばあちゃん』  マーガレット・ワイルド  あすなろ書房  1995
『おにいちゃんがいてよかった』  細谷亮太 作 永井泰子 絵   岩崎書店 2003
『アニーとおばあちゃん』 マイルズ・ミスカ 作  ピーター・パーノール 絵  あすなろ書房 1993
<ともだち>
『レアの星 友だちの死』   パトリック・ジルソン  くもん出版  2003
『わすれられないおくりもの』  スーザン・バーレイ 作・絵 小川仁央 訳  評論社 1986
『チャーリーブラウン なぜなんだい ともだちがおもい病気になったとき』 
チャールズ・M・シュルツ  岩崎書店 1991
<いのち>
『ぼくのいのち』  細谷亮太 作 永井泰子 絵  岩崎書店 1999
『100万回生きたねこ』  佐野洋子 作 絵    講談社 1977
『葉っぱのフレディ』  レオ・バスカーリア 作 みらいなな 訳  童話屋 1998
『ラブ・ユー・フォーエバー』  ロバート・マンチ 作 梅田俊作 絵 岩崎書店 1997
『エリカ奇跡のいのち』 
ルース・バンダー・ジー 作 ロベルト・インノチェンティ 絵  講談社 2004
<からだ>
『からだをまもる免疫のふしぎ 第1版』   日本免疫学会  羊土社 2008
<参考図書>
『大人が絵本に涙する時』  柳田邦男 平凡社  2006
『小児科医が見つけたえほんエホン絵本』小児科医と絵本の会  医歯薬出版 2005
<雑 誌> 
がん看護 18巻1号(2013)〜
新連載:がん患者と子どもに対する支援 親ががんであることを子どもに伝えるためのサポート 
第1回:小林真理子 親のがんを子どもにどう伝え、どう支えるか 
<インターネット> 
Hope Tree(ホープツリー
パパやママががんになったこどもたちのために何ができるかをみつけるために、さまざまな情報でお手伝いをするページ。登録するとメールマガジンで配信される。




E.シュナイドマン「死」の3作品

   エドウィン・シュナイドマン Edwin Shneidman

1918年生 カリフォルニア大学ロスアンゼルス校(UCLA)死生学(Thanatology)名誉教授。ロスアンゼルス自殺予防センター長、国立精神保健研究所の自殺予防研究センター長、ハーバード大学客員教授など歴任。1968年に自殺予防学会を創設。『自殺と自己破壊行動』誌を創刊し編集長も務めた。臨床死生学者として遺族への後治療(postvention)に力を注ぎ、また法的な死の判定における心理学的剖検(psychological autopsy)の必要性を提唱し続けている。『白鯨』の作家ハーマン・メルヴィルに傾倒し、熱烈なコレクターでもある。
死にゆく時−そして残されるもの 
Death of Man ,1973 白井徳満・白井幸子・本間修 訳 誠信書房 1980

原題は『人間の死』アーノルド・トインビーが序で「これほど興味をもって読んだ書物はない」と書いた本書は、1973年度米国出版賞(科学部門)にノミネートされた。様々な死を扱っているが、病者の観点からは<第1章:死にゆく人−そして死に続くもの>が興味深い。E.キューブラー・ロスの業績を評価しながらも『死ぬ瞬間』の5段階(否認、怒り、取引、抑うつ、受容)に関しては「これらが死にゆく過程に特有な心の動きとは思わないし、この順序で起こるとはさらに思わない。死に直面した人の心の動きは、定まった一つの方向に向かうというよりは受容と否認の両極間を行き来している」とした。

死に直面した48歳のリンパ肉腫の女性と著者の対話に胸を打たれた。会った最後の日「私の面接は皆さんのお役にたちましたか?」とたずね、「さようなら、いとおしい先生」と別れを告げた。本書の目的について「人生観に活力を与えるような死への展望を与えること」「死の恐怖に対する神経的なこだわりを減らしていくこと」と述べている。<第14章:文学にあらわれた部分死>では『白鯨』の作者メルヴィルが取り上げられている。他の箇所でも随所に引用がある。難解で敬遠していた作家だが、本書で関心を持った。<第9章:両様にとれる死> の好例として、志賀直哉『范(ハン)の犯罪』の全文を掲載
<第15章:大量死─核の時代の子どもたち>では広島・長崎の原爆投下に対するアメリカの学生たちの意見が収められているのが興味深い。


死の声 遺書・刑死者の手記・末期癌患者との対話より 
Voice of Death
, 1980 白井徳満・白井幸子 訳 誠信書房 1983

ロスアンゼルスの検視官事務所の倉庫で、偶然めぐりあった数百通の自殺者の遺書が著者の進む方向に大きな影響を与え、本書のきっかけとなった。本書を記するにあたり著者は次の4点を目標にしている。@死と遺書に関する知識を読者と分かち合うこと A自殺者と末期患者、それに刑死者の心理にに関し著者が築いてきた理論を同じように読者と分かち合うこと B状況に応じ本書の各所で、できるだけ読者に死にゆく人びとの遺した生の記録に接してもらうこと C生命に危機をもたらすさまざまな状況が相互にどれほど共通する一面をもっているか。それでいて、個々の状況が他のすべての状況とどれほど異なる独自なものかを示すこと。病者の観点からは<第5章:悪性腫瘍(白血病で死が迫る若き精神科医の類まれなる手記)>と<第6章:自己哀悼、前哀悼(夫の死に向き合う妻の成長の物語)>が、「死への道しるべ」と呼ぶにふさわしい内容である。『笑いと治癒力』の著者ノーマン・カズンズが本書を次のように紹介している。


シュナイドマン博士は、死の問題をその陰うつな足かせより解放した。こうして私たちは、もはや忌み嫌う必要のなくなった死の問題に近づき、そこから知識を得ることができるようになった。この複雑で困難な問題に、博士以上に見事に取り組んでいる人を私は知らない。



生と死のコモンセンスブック シュナイドマン九○歳の回想
A Commonsence Book of Death, 2008 高橋祥友 監訳 金剛出版 2009

「自分の死」を目前にした著作。自らの仕事を振り返り検証する一方で、<第2幕『人間の死』35年後の再考>としていくつかの考察を短い章にまとめた。<第2幕第7場:適切な死−まずまずの死の基準>で提示している「よい死の基準10項」が興味深い。個人的には同じ章の以下のエピソードが心に残った。末期がんのイタリア系煉瓦職人が『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んで次のように語る。


先生がどうして私にこの本を読むように薦めてくれたのかよくわかります。人生は長い川を下る旅のようなもので、本当の終わりはない、たくさんの冒険が待っている旅で、そこで出会うひどい仲間が実は最高の親友であると気づくような旅だということを私にわからせたかったのですね。そうではありませんか?






死の受容
(連載エッセイ  にとな一期一会  21 2012.10)


死の受容 ガンと向きあった365日 吉岡昭正遺稿 
毎日新聞社 1980 
吉岡 昭正(よしおか あきまさ)昭和2年(1927)東京生まれ。26年東大医学部卒、同年第一内科入局、39年順天堂大学助教授、47年医学教育研究室室長・助教授、53年4月同教授。53年8月6日死去。当時、日本における唯一人の医学教育の専任教授であった。東京女子医科大学創立者の吉岡荒太、弥生夫妻は伯父叔母にあたる。

死の受容
 [転載:P.182-185]

彼は50歳の医師である。彼は内科医として、今まで大勢の患者さんに接してきた。軽い病気で説明をしただけで、安心して帰って行った患者さんもいた。慢性の成人病で、長期間にわたって外来診療に通って来た患者さんもいた。重症で亡くなるまで面倒を見た患者さんもいた。問題が解決して喜んだ患者さんもいたし、手遅れでどうにもならない患者さんもいた。言うことを素直に聞いてくれる患者さんもいた。指示に従うような顔をして、実は従わない患者さんもいた。始めから反抗的で手に負えない患者さんもいた。本当にいろいろな患者さんがいた。その一人一人にいろいろな喜怒哀楽があった。彼は彼等の喜怒哀楽と共に過ごしてきた。あるときは励まし、あるときは慰め、あるときは忠告し、あるときは彼自身も途方にくれた。しかし、いま彼は一度も経験したことのない患者を抱えることになった。しかもその患者は手遅れの癌患者であった。というのは、その患者は自分自身だったのである。

昨年(昭和52年)8月、彼は今まで経験したことのない左上方の腹痛を感じた。その一週間後から便に血が混じるようになったので、注腸(肛門から造影剤を注入して、腸を調べる]線検査)を行った。症状から見て、結腸癌が疑われたからである。レントゲンテレビに映る腸の映像から、それが確かめられた。診断がついた10日後に、癌病巣は切除された。手術時、肉眼的には遠いリンパ腺や肝臓への転移は認められず、一応根治手術であると判定された。手術後1カ月で退院し、体力は徐々に恢復し、また元の仕事に復帰した。もうこれで大丈夫という楽観的な感じと、手術で一応全部取れたにしても、再発の可能性も多分にあるという悲観的な感じが、交互に去来する毎日だった。彼は毎日働いた。以前と同様に仕事を続けた。

そのうち血液の検査で、ある異常が出てきた。それは肝臓への転移を疑わせる所見だった。しかし主治医は診察と他の検査結果から否定した。彼は否定されたことを喜んだ。だが、彼の医師としての目は、その否定を完全に受け入れたわけではなかった。血液の異常は次第に明瞭になってきた。自分でお腹を触ってみると肝臓の腫瘍がはっきり触れるようになってきた。勿論、術後も制癌剤や免疫療法も行ってきたのだが、それらに絶大な力がないことも知っていた。腹に触れる肝腫瘍も、今まで大勢の患者で経験して来た肝転移のそれと、まったく同じものであることが、彼にはよくわかっていた。「死の受容」ということについて、彼は今までいろいろの本を読んでいた。そして自分が死病にとりつかれたとき、はたしてそれを受容できるものかどうかについて考え続けてきた。しかし、今それが現実の課題になった。患者さんが死を受容して死ねるように、医師は援助できるだろうか、ということを、彼は常々考えてきた。しかし、今、医師としての自己と、死にゆく患者としての自己との二人の自己という形で、この課題に直面せねばならなくなった。眠れぬ夜もあった。医師が癌患者の家族に対して行う配慮を、彼は自分の家族に対して行わねばならなかった。患者の不安と、医師としての冷静さとが、奇妙に混じり合った状態だった。これから強くなって行くであろう症状についての不安もあった。今まで大勢の患者で経験しているいろいろな病状経過が、自分の予後にオーバーラップされて、脳裏を去来した。幸福な死とは何だろう。幸福な死などというものは、はたしてあるのだろうか。多くの患者さん達も死んで行った。強い不安と苦しみと悩みの中で死んで行った人もある。幸福そうに大往生を遂げた人もある。人間誰しも死ぬ。それが50歳という過去の平均寿命と同じで、現在の平均寿命より短いとしても、多少早くなってきただけだ。もっと若く死んだ患者さんもたくさんいたではないか。また、毎日20名以上の交通事故死もあるではないか。

彼は考えた。「お前は今まで、生きたいと思ったように、本当に生きて来たか」その問いに自答した。「私はイエスといえる」「それでは死ぬまで、命の続く限り、それを続ければいいではないか」「なるほど、そうかもしれないが・・・」彼は今苦闘している。何とか満足の行く答えを出そうと努力している。答えが出せるかもしれない。出せないかもしれない。答えは死後に持ち越されるかもしれない。「医師が死にゆく患者に対してどんな助力ができるか」という彼の課題に対する解決は、彼の死ぬ前にはつかないかもしれない。が、私は望んでいる。何とかして死ぬ前に答えを出してくれることを。






にとな文庫「闘病文学コレクション」について

病は「生きる意味」を学びなおす学校です。優れた教材を提供したいという思いから、にとな文庫では、がんの闘病記に加え、より普遍性の高い「闘病文学」コレクションの構築を企画しています。新着図書や関連本のリストを本紙に掲載するほか、次号よりその中から数冊を選んで紹介する「闘病文学のページ」を設けます。本号では、選書の参考している本(にとな文庫所蔵)を以下に掲げました。

「死」への準備教育のための120冊 
編著者 アルフォンス・デーケン+梅原優毅 吾妻書房 1993

死への準備教育のために有益と思われる書籍120冊を12ジャンルに分類し、1冊ごとに見開き2ページで内容を紹介している。闘病文学の選定に参考になるジャンルは、1.死の思索 2.自分の死をみつめる 5.さらば、愛する者よ 11.文学のなかの死 等。内容の紹介がある120冊の他に同様のジャンルにそって約500冊のブックリストが収録されている。

小説で読む生老病死
著者:梅谷 薫(柳原病院院長)執筆協力:川上 武(医事評論家)医学書院 2003

近現代の日本文学の中から19の作品を取り上げ「生・老・病・死」の4章に分類し、その作品の成立過程や魅力、医療・看護・福祉の側面から見た問題点などをやさしく解説している。手に入りやすい文庫になった作品が多く選ばれている。

終末の刻を支える 文学にみる日本人の死生観 
編者:ターミナルケア編集委員会 ターミナルケア 第10巻6号増刊号 2000

小説22作品、ノンフィクション・随筆12作品について、各執筆者が自ら選んだ作家の死生観を解き明かしていきながら、おのずと執筆者自身の死生観をも表出するという趣向の評論集。いのちの言葉を生み出す死−闘病記と「意味の実現」(柳田邦男)では選りすぐりの闘病文学が紹介されている。

病気になった時に読む がん闘病記読書案内

第1章で、主ながんを14の部位に分け、パラメディカ店主選定の闘病記とライフパレット選定によるネット闘病記を紹介している。間に挿入されたパラメディカ店主執筆の「医師自身の体験による闘病記」(芸人、僧侶、作家による、もあり)が興味深い。

生きる力の源に がん闘病記の社会学
著者:門林道子 青梅社 2011

550冊の闘病記を社会的視座から分析するという、かってない画期的・本格的な研究書。豊富な参考文献や索引(全10章の各末尾、および巻末の詳細な参考文献、「調査に用いたがん闘病記」の索引など)は、闘病文学選定に非常に有益な情報を提供している。

「生と死」の現在 (同時代ノンフィクション選集 第1巻)
柳田邦男 責任編集

巻末の『「生と死」の現在』関連作品年表が参考になる。柳田邦男氏が収集してきた図書を元に作成したリストである。

[日野原先生おすすめの図書のリスト]

医学生・研修医のために私が選ぶこの10冊(医学書院/週刊医学界新聞 第2384号2000年)
(含む:日野原重明 研修医にぜひ読んでもらいたい本 [20冊] JIM 10(3) 2000)
日野原重明が若手ナースにすすめる高齢者を知る60冊 Nursing Today 19(3):22-37 2004





同時代を生きたロシアと日本の文豪の本

   イワン・イリッチの死
レフ・トルストイ(1828-1910) 米川正夫訳 岩波文庫

時を超越して読者の前に甦る、それが古典である。19世紀ロシアの平凡な一俗人を描いた何の変哲もない物語。それが文豪トルストイの天才にかかると、これほどまでに身につまされる物語になる。役所での出世と快適な私生活のみに人生の意義を認め、そうした成功に満足しきっていたイワン・イリッチが不治の病(がん?)にかかる。肉体的苦痛、快適な生活への執着、妻や同僚の欺瞞的態度などに苦しみ、虚偽の意識と死の恐怖に追い詰められる。トルストイが意図した、物語最後の素朴な百姓との邂逅によって信仰を見出すという結末よりも、病中の真実味あふれる苦悶の心理描写にこそ病者の、ひいては人間の普遍が感じ取れる。小品(岩波文庫100頁)ながら、広大なロシア文学の中でひときわユニークな輝きを放つ日野原先生おすすめの1冊。
 
 
  
思い出すことなど
他七編 岩波文庫
夏目漱石(1867-1916) 

漱石は、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。本書は1910年「修善寺の大患」の闘病記で朝日新聞に連載された。漱石は当時、前期3部作最後の『門』を執筆中だった。このとき危篤状態を脱していなかったら『こころ』など後期3部作は存在しなかった。イワン・イリッチと漱石、俗人と非俗人、正反対に見える二人だが、私には病がお互いを接近させているように感じられた。時を得た読書は人生の醍醐味である。日野原先生のおすすめなしには縁がなかったこの本は、私にとって「漱石再発見」のきっかけになった。
  
 





ちょっぴり風変わりな闘病記

    身体のいいなり 
内澤旬子 著 朝日新聞出版 2010

「闘病記」嫌いの闘病記。曰く「顰蹙を買うことを承知で言わせていただくと、人間なんてどうせ死ぬし、ほっておけばいつか病気に罹る可能性の方がずっと高い生き物なのに、なぜみんな致死性の病気のことになると深刻になり、治りたがり、感動したがり、その体験談を読みたがるのかが、わからない」 全編を通してこういった調子で書かれている。「同病者の参考にはなりません」とのことだが、相性の合う人が読めば、なかなかに勇気づけられる一冊である。 著者にとっては、「乳がんより辛いのは腰痛とアトピー性皮膚炎」「乳がんより悩ましいのは仕事とお金の苦労」「乳がんの治療よりうっとおしいのは乳房再建を決断する面倒」だったようだ。「乳房再建の費用が、いっそ一千万円とかなら考えるまでもなくあきらめられるのに・・・」共感する人もいるかもしれない。 「自分自身を客観的に眺められる力」「転んでもただでは起きないたくましさ」「自分の意志の力を信じながらも、周囲に頼ることができるしなやかさ」を感じた。自立しているが孤独ではない。男まさりだけれど色っぽい。幸せな生き方って何だろう、改めて考えさせられた。
 
 
   死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々 
Swimming in a Sea of Death: A Son's Memoir by David Rieff
デイヴィッド・リーフ 著  上岡 伸雄 訳  岩波書店 2009  

「私は生活の質などに興味はない。自分の命を救うために、あるいは長引かせるために、打てる手はすべて打ってもらいたい――それがどんな大博打であっても」自分だけは「確率の例外」になるという意志と自信に支えられ、治る見込みの薄いがんとの闘いに2度までも勝利したスーザン・ソンタグであってみれば、最後のがんにおいても再び確率に挑み、生き続けることが彼女の生き方だった。しかし病状は刻々と悪化し、今度ばかりは「例外」になることはなかった。本書は、そういう果敢な母と一緒に「死の海」を泳いだ息子(ジャーナリスト)の手記である。最後まで生を求める母に対して「どう対処すればよかったのか、自分は正しかったのか、母が求めた役割を演じられたか」著者の揺れ動く真情は、多くの家族にも共通する思いかもしれない。 今、ソンタグが生きていたら「東日本大震災」や「原発問題」についてどのような発言をしただろうか。
  
 
  
夫の死に救われる妻たち
 
Liberating Losses:When Death Brings Relief 
ジェニファー・エリソン、クリス・マゴニーグル 著 木村博江 訳 飛鳥新社 2010

夫の死に安堵と開放感を感じる妻は少なくないだろう。しかしそれは周囲にも自分自身に対しても認められない感情である。妻はその感情を恥じ、罪悪感から自分を責め続け、長い間その状態から抜け出すことできない。看取った後までも妻の闘病は続くのである。 本書は、そういう妻たちに「それでかまわないのですよ」と優しく語りかけている。著者は二人とも良心の呵責に苦しんだ体験をもつ当事者であり、カウンセラーと看護師の資格を取得した後に、専門家の立場からこの本を書いた。 日本語のタイトルにドキッとしてやや構えたが、読み終わったとき、原著の「死が安らぎをもたらすとき」という副題が胸にストンと落ちた。 
  




がんで散ったひとりの青年へ


がんで散った一人の青年へ

連載エッセイ  にとな一期一会   (2010.9)

永田 松夫(千葉県がんセンター)

32年余りの外科医としての仕事の中で、私は一度だけ患者のベッドサイドで泣いたことがあります。胃がん末期の青年を看取ったときのことでした。20年近くも前のことだったでしょうか、細々した記憶は薄れましたが、その想いはいつまでも消えません。その2年ほど前、30歳前の青年が上腹部の症状で胃内視鏡検査を受けたところ、早期胃がんが見つかりました。ある大病院のある外科の外来を受診しました。そして、私たちのチームが担当することになりました。胃の中ほどにある一見浅そうに見えるがんです。胃がんを扱う医師なら常識ですが、若年で浅い陥凹をもった早期がん様の胃がんは油断がなりません。そのままおけばいわゆるスキルス胃がんになる、転移もしやすい、そういうがんでした。どういう巡り合わせか、その外科の高名な大先生が術者、私はその前立ち(第一助手)で手術をしました。がんの境目から何cm離して胃を切るかがなかなか難しいところです。術者としては、患者は若いし、術後のQOLを考えれば、少しでも胃を残したほうがいいと考えたと思います。胃の上部ぎりぎりで切断して、胃を少し残しました。

要するに、胃全摘術を避けて、胃亜全摘術にしたわけです。私は汗をかきながら、前立ちとしての仕事をするのが精一杯で、大先生の手術に口を差し挟むような余裕はありませんでした。そういう時代ではありませんでした。術後は順調に経過して、通常通り退院しました。後日、切除胃の病理所見のレポートをみると、切除断端にはなんとかぎりぎりがん細胞はありませんでしたが、リンパ節転移が広がっていました。当時の第3群と呼ばれるリンパ節にまで転移があるという結果です。彼は早稲田の大学院で動物を使ってなにかホルモンの分子生物学的な研究をしている、と話してくれましたが、私にはよく理解できませんでした。軽率なところのない、礼儀正しい、典型的な優等生タイプの好青年でした。私は彼にがんであるということは知らせていましたが、詳しい転移状況のことは知らせませんでした。敬愛する先輩からは、「あのタイプのがんなら胃全摘にすべきだった。それはもうしかたないが、若いんだから、かえってきちんと正確なことを説明したほうがいい。ああいうがんはまず確実に再発するんだから」といわれ、その言葉に頷きながらも、迷いつつ、最後まで詳しい説明はできませんでした。

それでも外来では私を兄のように慕ってくれ、心から信頼してくれ、一点の疑念も挟まずに、補助化学療法を受けてくれていました。頭脳明晰で、明るく、このがんを必ず克服するんだという気持ちが痛々しいほど伝わってきました。しかし一方では、心の底に黒雲のような不安があったことは間違いありません。明るく振る舞いながらもふっと見せる影のある表情からそれを読み取ることができました。彼には以前から同じ研究室に結婚を約束した女性がいましたが、術後しばらくして二人は結婚しました。優しく、もの静かで、しっかりした女性でした。再発する可能性が高いことを説明しないまま、「化学療法を受けているので、できればしばらく妊娠は待ったほうがいい」等とアドバイスのつもりで、私はできるだけやんわりと繰り返し言いました。しかし、しばらくして彼女は身ごもりました。二人とも人工流産などは全く考えていませんでした。私は「あれだけ言ったのに!」と心の中で思いましたが、その後次第に、彼は自分のいのちに限りがあることを知っていたのだろう、自分は生きられないが、自分の分身をこの世に残そうと考えたのだろうと思いました。その後の彼の様子からそう判断しました。そして、彼女もそれを理解し、許していたように思います。

胃と脾臓の間のリンパ節に再発を起こしました。先輩の言ったとおり胃全摘術をしていれば、このかたちの再発は避けられたのかもしれませんが、今更どうしようもありません。化学療法も効果なく再入院することになりました。最後には脾臓と胃が穿通して大出血を起こしました。繰り返しの吐血で、見る見るうちにベッドが真っ赤になりました。ベッドサイドに張り付いて、急いで輸血をすること以外、私にできることはありませんでした。しかし、輸血量を上回る吐血が止まらず、彼は苦しむばかりでした。血圧は低下するものの、意識は全く清明で、今やすべてを理解していました。鎮痛剤や鎮静剤を投与しましたが、苦しみは全く軽減せず、もっと強いものを与えてくれと彼は頼みます。もう1-2時間も持たないだろうと思われた頃、吐血を繰り返しながら、はっきりした意識の中で、私だけに話がある、家族は席を外して欲しいと言いました。家族が出て行って、二人だけになり、私は彼のすぐそばに近寄りました。

「どうした?」と訊いてみると、彼は「先生、いままでがんばってきたけど、もうこれ以上は無理です。楽にして、お願いだから」と虫のような声ながら、繰り返しはっきりと懇願しました。私は言葉に詰まりましたが、もうこれ以上彼のために何ができるのだろう、彼の頼みをきいて、楽に眠らせてあげることしかないと寸時に心を決めました。家族が再び入った後、私は彼が眠れるまで十分な量の鎮静剤を投与しました。彼が眠りに落ちるのを見守りながら、どうしようもない気持ちになって涙が込み上げてきたのです。周りも気にせずに子供のように泣いてしまいました。彼はほどなく逝きました。家族の承諾があって、病理解剖をさせてもらいました。経過と解剖所見を大先生に報告しにいきましたが、「あ、そう」といつもの冷たい表情のまま言っただけでした。このことがあって、しばらくして私はその病院を去ることを決めました。
 




[近代外科学の父」ジョン・ハンターと「疫学の父」ジョン・スノウ

古今東西あらゆる人物にいつでもどこでも気軽に出会える、読書はそんな贅沢を実現します。
「自殺未遂を3回も繰り返したが、後年がんになって本を読む時間が欲しくなり生きたくなりました」ある患者さんの一言です。今回は「にとな文庫」の新着本から18〜19世紀のロンドンで活躍した二人のジョンをご紹介します。「古典教義を鵜呑みにせず、自分の見たものしか信じず、名利を追わず、道理にかなった結論に到達するまでとことん追求」した二人。ともに科学的根拠に基づく研究方法で近代医学に大きな足跡を残しましたが、時代を先取りした天才の常、生前にふさわしい評価を受けることはありませんでした。

 
John Hunter
(1728-1783)

外科医・解剖医・博物学者
解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯
ウェンディ・ムーア 著 矢野真千子 訳 河出書房新社 2007 

解説に「奇人まみれのイギリスにあってすら、彼の奇群をぬいており、その証拠に彼はその後の小説などに多くのモデルを提供している」とある。最初の医学修行は解剖用の新鮮な死体の調達だった。そのため当時横行していた死体泥棒ビジネスに手を染めた。屋敷には珍獣(生死をとわず)や人間の死体が運び込まれる専用の裏口があって、中であやしげな実験が進行中という評判が立ち、後にこの屋敷は『ジキル博士とハイド氏』のモデルになった。世界中から時には非合法な手段も使って14000点もの標本を集めた。彼自身は「ドリトル先生」のモデルにもなった。無類におもしろい奇人伝だが無論それだけではない。治療といえばもっぱら瀉血で、外科医が刃物を扱う職人だった時代に後の「近代外科学の父」が何を成したのかがメインテーマだ。「生命」に魅せられ、ダーウィン『種の起源』より70年も前に進化論を見出していたというのにも驚く。
  
 
 
John Snow
(1813-1858)
医師・産科医・麻酔科医

医学探偵ジョン・スノウ
コレラとブロード・ストリートの井戸の謎
サ ンドラ・ヘンペル 著 杉森裕樹 他訳 日本評論社 2009 \2800  

19世紀半ば、産業革命まっさかりのロンドン。多くの市民はディケンズの小説で描かれた悲惨な環境にいた。コレラが大流行を繰り返していた。当時コレラの原因は「瘴気説(澱んだ空気)」が主流だった中で、ジョン・スノウは自ら編み出したスポット・マップ(疫学の手法)を使い飲料水が原因であることをつきとめた。疫学の誕生である。
ハンターが亡くなって30年後にスノウは生まれている。二人のジョンを繋ぐ一本の糸がある。医者修行時代、スノウが学んだハンター医学校はハンターの兄ウィリアムが創設した学校で弟のジョンもそこで教えていたのだ。破天荒なハンターにひきかえ、スノウは禁酒家で菜食主義者。物静かで礼儀正しい人物だった。「コレラの発生が過去になるころにはぼくの名前は忘れ去られているだろう」と言ったそうだがその予想は大きく外れた。生涯独身。病弱で、結核、腎臓病をわずらい45歳で早世した。本書は綿密な資料研究をもとに書いてあるのでやや堅苦しく、特に前半は退屈に感じたが後半のコレラの謎解きで充分におつりがくる。 
  
 


がんと闘った誇り高きアマゾネス 柳原和子と小倉恒子

「にとな文庫」で人気なのが「闘病記」だ。例年、続けて貸出ベストテンに入る二人の女性がいる。ともに長い闘病を通して常に積極的に治療に臨み、その経過や気持をリアルタイムで語り、書き、闘う患者たちの希望の星として輝き続けた。奇しくもそろって57歳でその誇り高き生涯を終えた。


   柳原和子(1950-2008) ノンフィクション作家 

「にとな文庫」開設2年目、戸惑ってばかりのそんな時に支えあう会「α」の講演会(2007年3月3日)で柳原和子さんに出会った。
「知識や言葉やテクニックに惑わされない眼力を持て」「この治療(この医師)と決めた自分に責任を持て」など力強い発言に魅了される一方で、「私の信頼に応えて!」という医療(医師)への柳原さんの切なる思いに胸を打たれた。2007年9月、思い切って出したメールに返信が届いた。柳原さんらしい一節を(天国の柳原さんにお許しを願って)紹介する。


誇りと、完全治癒とどっちとる? 選択できるとしたら、わたしはどっちをとるだろうか?うん、完全治癒をとってそれから誇りのたてなおし、ってな感じかなあ。ほんのしばらくの寛解っていうのなら、断然誇り!だけれどもね。いや、数年間の寛解ならちがうかな?むずかしいですね。でも、がんはいずれにしても不可解だから、人間そのもの、ってな感じですよね。

著作:『がん患者学』『百万回の永訣』など。
 
  
小倉恒子
(1953-2010) 千葉県松戸市出身 耳鼻咽喉科医 

千葉県がん患者大集合(2008年9月14日)で小倉さんの講演を聞いた。輝くショートカット、優雅なミニワンピース、ピンと伸びた背筋(ダンスの名手と知って納得)、張りのある声。ミゼラブルながん患者にはとても見えない。話を聞いてますます驚いた。乳がん発症は1987年。それから再発、再々発をねじ伏せながら耳鼻咽喉科医として働き、発症当時3歳と5歳だったお子さんを社会人に育て上げられたのだ。その間なんと20余年!講演で二つのメッセージを受け取った。患者会から学んだという「お互いにケアする関係−ケアの連鎖」。だからこそ、厳しい治療の最中でも乳がん患者の電話相談、講演等ボランティア活動に熱心に取り組まれていたのだ。日本における抗がん剤承認の遅れを訴え続けた小倉さん。もう一つのメッセージは講演最後の迫力に満ちた一言だった。
「医療従事者のみなさん、末期だからと思って捨てないでくださいね。がんばってますから。行政の方も捨てないでくださいね。ちゃんと税金払ってますよ」

著作:『Will−眠りゆく前に』『怖くない抗がん剤』など。
  
 




「がん哲学外来」と ことばの力
樋野興夫先生講演会 (平成21年6月23日、千葉県がんセンター)


がん哲学&哲学外来―時代は何を求めているか―
 

1.「がん哲学」とは

「癌病理を通して人生を見る」という「がん哲学」の考え方は目から鱗でした。
「細胞レベルで起こるがんのメカニズムは人間社会でも起こる」「家庭内のグレた子ども(がん細胞)とつきあうには共存しかない」「一個の花を研究すれば、宇宙までわかる。最も個別的なものが普遍的である」など。胸にストンと落ちる、待ち望んでいたことばを聞いたような気がしました。発がん研究者の一番の社会貢献は「がんがどうして起こるか、発がんをどう思っているかを国民に伝えること」と語られた樋野先生。その暇げな風貌の中に科学の伝道者(Origin of Fire)の情熱が仄見え、なるほどこれぞ「がん哲学外来」と納得しました。

2.人生のお手本

樋野先生流には「人生の扇の要」。志を高く持つために優れたお手本を必要とするのか、あるいは優れたお手本が高い志を育むのか、どちらにしろ、人生において具体的なお手本を持つことが大切であるというメッセージが伝わりました。ちなみに日野原重明先生のお手本はウィリアム・オスラー博士。樋野先生のお手本は新渡戸稲造・南原繁・吉田富三です。実は私にも心密かに憧れている人がいます。突飛に思われるかもしれませんが、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の末っ子アリョーシャです。(少女のころは怪盗ルパンと赤毛のアンでした)

3.ことばの力

「がん哲学外来」のモットーは「患者さんのことばを聴くことと核になる言葉を与えること」
「傾聴」と「ことばの処方」から成る治療を提供する外来という表現もできます。精神科外来とは一線を画するこの外来、一見誰でも真似できそうですが、決め手になるのは「核心的ことば」とことばを発するその人。このアイディア、コロンブスの卵とはいかないようです。そういえば「この本と出会えてよかった」という一言が「にとな文庫」で働く私のやりがいです。「本」を介して「ことばの力」を提供できるのではないか、そう気づいてとても励まされました。

以下の本をにとな文庫で所蔵しています。

がん哲学外来 メディカルタウンを追い求めて to be 出版 2008
がん哲学 がん細胞から人間社会の病理を見る to be 出版 2007
われ Origin of Fire たらん がん哲学余話    to be 出版 2005
がん哲学外来の話                小学館 2008
がん哲学外来入門                毎日出版社 2009
がん医療入門 (樋野興夫・木南英紀 共著)    朝倉書店 2008

平静の心 オスラー博士講演録  Osler,William 日野原重明 訳 医学書院  1983