康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2021年10月号


ノーマン・カズンズとプラセボ


下原康子

自らのからだを実験室にしてプラセボ効果を実証した人がいます。ノーマン・カズンズ(1915-1990)です。ノーベル平和賞の候補にもなった有名なジャーナリストで、核兵器廃絶、環境汚染反対運動などで活躍しました。日本では広島の原爆乙女をアメリカに招き治療を受けさせた人として知られています。『サタデー・レビュー』の編集長を30年間つとめた後、1978年にUCLA医学部の准教授になりました。

1.膠原病回復記[五百分の一の奇跡]

UCLAに招かれたきっかけになったのは、1976年にNEJMに発表した以下の論文です。これは1964年にカズンズが重篤な膠原病にかかったとき、いかにして回復に至ったかについて、当の患者本人が著した稀有な症例報告でした。

Anatomy of an illness (as perceived by the patient).
Cousins N. N Engl J Med. 1976 Dec 23;295(26):1458-63.


発表まもなく医学界はこの論文の話題でもちきりになりました。十数カ国の医師から3000通を越える投書が寄せられたのです。1979年、カズンズはこの論文に、闘病の中で痛感した現代医療の欠陥についての省察と提言を加えて、以下の本を出版しました。

『笑いと治癒力』 (岩波現代文庫)松田銑訳 2001
原題:Anatomy of an Illness as Perceived by the Patient,by Norman Cousins, 1979


『笑いと治癒力』
 書評(下原康子)

カズンズは冒頭で次のように述べています。

この本は1964年に私がかかったある難病のことを題材にしている。私は長い間、それについて書くことをはばかってきた。私と同じ病気に悩む人たちに間違った希望を持たせることになりはしないかと恐れたからである。私は、たった一つの症例というものが医学研究の中では小さな位置しか占めないことをよく知っていた。しかし、私の病気は一般紙でもトピックで取り上げられたので、多くの人が私に手紙を寄せて、医師が回復不能とした病気を“笑い飛ばして”治したというのは本当かと聞いてきた。私はより完全な説明を発表した方がいいと考えた。

幸せなことにカズンズの主治医は、原爆乙女の事業の参加者の一人でもあり、20年来の大親友でした。二人で医学論文を読んで議論を交すことも度々で、カズンズの医学への興味と理解力が並はずれていることをよく知っていました。彼はカズンズに「全快のチャンスは五百に一つ。こんな症状から回復した例はみたことがない」という専門家の見解を包み隠さず伝えました。カズンズは「私はその五百分の一になる」と決意します。即座に主治医と同盟関係をむすび、自ら考案した回復計画をスタートさせたのでした。

「第2章 神秘的なプラシーボ」では、プラセボについての見解とともに、人間の治癒力を思索するカズンズの印象的な言葉が数多く見出せます。

●プラシーボというこの奇妙な響きの言葉が医学に向かってまっすぐに指し示している行く手には、医学の理論と実践との革命に近いものが待ち構えている。

●プラシーボは薬というよりもむしろ一つの過程なのである。その過程は患者が医師を信用することから始まり、結局は患者自身の免疫・治癒組織を完全に機能させるまで継続していく。この過程が効果を発揮するのは、丸薬に魔力があるからではなくて、人体そのものこそ最良の薬屋であり、もっとも効験のある処方箋は人体の書く処方箋だからだ。

●医師こそがもっとも強力なプラシーボだ。

●プラシーボが大きな効果をあげ得るとすれば、それは同時に大きな害を及ぼし得ることにもなる。

●プラシーボの使用には内在的な矛盾がひそんでいる。「患者と医師とのよき信頼関係」がプラシーボの過程には不可欠だが、そのパートナーの一方が重要な情報を相手から隠しているとしたら、その関係はどうなるだろうか。もし医師が真相を告げたら、プラシーボの土台をくつがえすことになる。一方、真相を告げなければ、信頼の上に築かれた関係を脅かすことになる。

●われわれが最後に悟ることは、プラシーボは本当は不必要なもので、人間の心は小さな丸薬の助けなど借りなくても、困難だがしかしすばらしい自己の任務を果たすことができる、という事実である。

●プラシーボは、その各人の中に住んでいる医者なのだ。


2.心臓病回復記[私は自力で心臓病を治した]


新たなキャリアをスタートさせた3年目の1980年12月12日、カズンズは自宅で心臓発作を起こし、UCLAロスアンゼルス校附属病院に運ばれます。待ち受ける一個中隊の名医を前にして、カズンズは前代未聞の一言を発して周りを驚かせました。「皆さんの前にいるのは、おそらく今までこの病院に送り込まれたことがない頑丈な自己治癒マシンですよ」。まさしく面目躍如!

1983年に出版した本の中に、次のように書いています。

私はこの病気が一つの知的冒険のような気がした。多くの医師たちから「一生のうちに重病から立ち直るという大仕事を一回だけでなく、くりかえしやれるか」という質問の手紙をもらっていた。人体の力をふるいおこしたら、どこまで再生が可能か。それを試すチャンスがおとずれた。

『続・笑いと治癒力―生への意欲』ノーマン・カズンズ著 松田銑訳 (岩波現代文庫) 2004 
原題:The Healing Heart , by Norman Cousins, 1983


しかし、カズンズの心臓発作は、エビデンスに照らしてみても、明らかに手術が必要と思われる症例でした。「こんどは正真正銘の心臓発作だ。あのときとは違う。君はもう大将じゃないんだ。一兵卒で命令を受ける側だ」膠原病の主治医もそう言って釘をさしました。

カズンズには一兵卒になる気などさらさらありません。またしても主治医を同盟関係に引き入れ、自ら立案した綿密な計画のもと「再生の冒険」に乗り出します。それは「まさに人間の持っている肉体的、知的、精神的な力のすべてを要求する大計画」でした。

本書の魅力の一つは巻末の「主治医たちの感想」です。心臓病の主治医、セカンド・オピニオンの医師、医学的事業の仲間、膠原病の主治医 以上4人の医師が感想を寄せています。特に「医学の定説にそむくカズンズ氏はわれわれの心配の種であった」と正直に述べている主治医の感想は感慨深いものです。4人の医師の感想は「医師と患者の協力関係」についてより深く踏み込んで考える上でのヒントを与えてくれました。

比較的長い「序文」も見逃せません。バーナード・ラウン医師(『治せる医師・治せない医師』『医師はなぜ治せないのか』の著者。ノーベル平和賞受賞)が書いています。ラウン氏は、今年、2021年2月16日にマサチューセッツ州チェスナットビルの自宅で亡くなりました。99歳でした。


3.UCLAにおける活動

カズンズは最後になった著作の「第22章:学部長への報告書」でUCLAでの10年間の経験を5項目の活動にまとめて述べています。

@学生への講義 
A患者との面接 
B情動の生化学の研究への参加 
C医学校、医療機関の訪問 
D各種委員会への参加と活動。

『ヘッド・ファースト 希望の生命学』ノーマン・カズンズ著 上野圭一/片山陽子訳 春秋社 1992 原題:Head first; The Biology of Hope, by Norman Cousins, 1989

カズンズは「医療者のチア・リーダー」と「医療オンブズマン」を自認していました。余人を以てはかえがたい働きだったに違いありません。

1990年11月30日、UCLAロスアンゼルス校附属病院で心不全のため亡くなりました。享年75歳。

「死は敵ではない。不断の死の恐怖のうちに生きることが敵である」という言葉を残しました。まさにそのとおりを実践してみせた生涯でした。

4.「逸話」の再現

ノーマン・カズンズの「回復記」は、間違いなく他に類を見ない記録です。しかし、カズンズは、この事実にしても、医学的にみれば、それぞれがたった一つの症例の位置しか占めないことを知っていました。カズンズが2冊の回復記を書いた狙いは別なところにあったと思います。それは「逸話」の提供でした。

カズンズは、医師が患者の個人的な経験(逸話)を聞くことの大切さを強調しています。

『文学の中の医師』で、以下のように述べています。

私は現在、医科大学の医師のコースにおいて、作家のセンスで医師たちに教えている。この過程において、私がこの上なく興味深く思ったのは、彼らが実生活の事例よりも文学の中の逸話の方を真剣に受け止めたことだ。 幸いなことに、コースの終わりには、 彼らの多くが人々のそれぞれの体験についても顧みることができ、それらが重要であることを認識するようになった。

「小説を読むようにおもしろかった」というのが私の読後感です。主人公カズンズの生への意欲、信念、勇気、信頼に感動し、冒険心、快活さ、ユーモアに魅せられました。場面としては、心臓病入院中にカズンズのしぶとい“交渉”に辟易する主治医や、医療スタッフに対するカズンズの徹底した“わがままぶり”が、とても痛快で思わず笑ってしまいました。同時に、彼らがカズンズとの出逢いから多くを学んだことが、あたたかな共感を伴って伝わりました。

「カズンズの本にはプラセボ効果がある」これが私独自の結論です。