ある医学図書館員の軌跡
にとな文庫通信 No.17 (2011.12)


日野原先生と図書館 
 一粒の麦地に落ちて


下原康子

千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫」の閲覧テーブルに、日野原重明先生直筆のはがきを入れた写真たてが置いてある。達筆で大きく「過日は患者図書室の働きについての参考資料
(「患者図書室のアピール」をお送りいただき非常に参考になりました。御礼まで」とある。日本一有名で超多忙な医師の日野原先生と一人の患者図書室司書の間にいかなる縁が?と不思議に思われるかも知れない。実際にお会いしたことはないが、40年近い医学図書館員としての歳月を通して、日野原先生から仕事に限らず生き方に至るまで多くのことを教わってきた。励ましもいただいた。感謝と敬愛の気持を込めてここに記しておきたい。

ライブラリーは生きたバンクです。 

私が病院図書室で働き始めたのは1970年代だが、当時、図書室のある病院はまだ少なく、あってもその組織基盤は脆弱で周囲の認識も低く、病院図書室の担当者の多くは孤立無援で孤独感を味わいながら働いていた。そんな中、1976年に8人の志の高い若き女性司書たちの呼びかけで「病院図書室研究会」が発足した。その翌年、同研究会第2回総会で「W.オスラー博士と医学図書館」という特別講演をされたのが日野原重明先生だった。(ほすぴたるらいぶらりあん (5):1-4 1977)日野原先生が生涯の師と仰ぐウィリアム・オスラー博士は、臨床家でありながら、アメリカのメディカルライブラリーを成長させた最大の人物としても有名である。博士は自ら主催した「医学図書司書協会総会」で聴衆は非常に少ないのにあたかも大聴衆の前であるかのように気負って講演したという。日野原先生もまた誕生したばかりの草の根研究会で少ない会員にむけて「私はオスラーを知るようになってからライブラリーを愛するようになりました」と語られた。講演最後のメッセージは今でも斬新である。「ライブラリーは生きたバンクです。司書の皆さんは親切で有能なバンカーになりなさい」

時を経て1996年、病院図書室研究会創立20周年記念式典が開催された。聖路加国際病院トイスラーホールを埋めた会員の中に私もいた。日野原先生が「21世紀の病院と医学医療情報」という記念講演をされた。冒頭で再びオスラー博士との出会いを語られた。そして、1995年の地下鉄サリン事件のとき、すぐに聖路加国際病院の若い医師が病院図書室に走って中毒の原因を探す作業を始めたこと、その後の活動のヘッドクウォーターの作業が病院図書室で行われたこと、などを述べられた。(ほすぴたるらいぶらりあん 21(1):6-16 1996)災害時の対応や危機管理に際して真っ先に必要とされる情報、その情報ソースを図書室も担っているのだ、と胸が高鳴ったのを憶えている。日野原先生は演壇もマイクも使わず、壇上の聴衆に近い場所に立って語られた(と思う)。歯切れのよいやさしい語り口とやわらかなしぐさ。泉のように湧き出るスピーチに聞き入った。後になって、絵画や挿絵で見たことのあるイエス・キリストの説教の姿が交じりあってそのときの私の印象はかたち作られたようだ。

患者さんのための病気の本『君と白血病』

1978年、勤め先の大学病院で出産した長男が「好中球減少症」という聞きなれない病名を告げられた。血液疾患というだけで「白血病恐怖症」にとりつかれた私は、医学図書館で手当たり次第専門知識をかき集めた。成長するにしたがって正常値になったことを思えば、生半可な知識など無駄だったとも言えるが、自力で調べることができたおかげでそのころの先の見えない不安を乗り越えることができた。医学図書館の一般公開を願う気持ちが生まれたのはこのときだった、振り返ってそう思う。当時、私がお守りのように携えていた本があった。『君と白血病』(細谷亮太訳 医学書院1982)である。1970年代にMayo医科大学の学生だったLynn S.Bakerが「患者に近い知識状態の自分が医学を理解して本が書けるのなら、それは誰にでもわかるものになるはず」と考え実行に移した。形式・内容ともに優れた、当時の日本では考えられもしなかった「患者さんのための病気の本」がこうして誕生した。

訳者の細谷亮太先生はDr.Bakerと同年代である。『You and Leukemia』との出会いは1976年。Mayo Clinicを訪れた日野原先生が小児科医局のおみやげにとこの本を持って帰られた。翌1977年、細谷先生が渡米のため聖路加病院小児科を離れるとき、お別れの記念にと後に日本語訳出版のきっかけになる翻訳ノートを残された。このペン書きのノートは若い医師や看護師によく利用されたという。私の長男の主治医もこのノートのコピーを利用していたと聞いた。それから30余年、長男(りょうた)が父親になった現在、子どものがんは7〜8割が治癒するまでになった。そして「患者さんのための病気の本」も数多く出版されるようになっている。思えば『君と白血病』は私にとって、現在働く機会を与えられている「患者図書室」へと導いてくれたバイブルだったと思う。そのバイブルをいち早くわが国にもたらしたのが日野原先生であった。

「よど号」機上で読んだ『カラマーマーゾフの兄弟』

「生活習慣病」の名付け親である日野原先生は、よくも悪くも習慣が人に及ぼす影響について深い洞察を持たれていたと思う。とりわけ読書の習慣化の重要性を説かれ、医学生・研修医・若手ナースに向けて一般教養の本をリスト
(*)にして紹介されている。

ところで、このリストの中にドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が入っている。この本は私の「無人島に持っていきたい一冊」なのだが、日野原先生にとっては「死を覚悟したとき読んだ一冊」であった。

1970年3月31日、日本内科学会総会(福岡)へ出席するために搭乗した旅客機で日野原先生はよど号ハイジャック事件に遭遇し人質となった。機内で赤軍派の一人が「本が読みたければ自分たちが持ってきたのを貸し出す」と言ってきた。レーニン全集など思想的な本が多い中に『カラマーゾフの兄弟』があった。犯人から本を借りたのは日野原先生一人だったという。今年の2月、『ドストエフスキーを読みつづけて』(下原敏彦・康子 D文学研究会)という本を自費出版した。私の執筆部分は2割ほどだが、その中の1篇、現在の患者図書室での体験から生まれた「ケアの達人 私のアリョーシャ論」(アリョーシャは『カラマーゾフの兄弟』の主人公)を日野原先生に読んでいただきたくて思いきってお送りした。間もなく封書の手紙が届いた。直筆で「長年ドストエフスキーの作品を愛読してきた者としてこの本を戴き嬉しく思います」とあった。小さな患者図書室の窓から感謝と敬愛のまごころを日野原先生にお届けしたい。

*日野原先生おすすめの本のリスト


●医学生・研修医のために私が選ぶこの10冊(医学書院/週刊医学界新聞 第2384号2000年)

(1)W.オスラー「平静の心」(日野原重明・二木久恵訳、医学書院)
(2)細川宏「病者・花(細川宏遺稿詩集)」
(3)アン・リンドバーグ「海からの贈り物」(吉田健一訳、新潮文庫)
(4)V.フランクル「それでも人生にイエスという」(山田邦夫、松田美家訳、春秋社)
(5)S.クイン「マリー・キュリー」(田中京子訳、みすず書房)
(6)E.フロム「愛するということ」(鈴木晶訳、紀伊国屋書店)
(7)夏目漱石「思いだすことなど」(岩波文庫)
(8)E.エリクソン「老年期─生き生きしたかかわりあい」(朝長正徳・朝長利枝子訳、みすず書房)
(9)神谷美恵子「生きがいについて」(みすず書房)
(10)P.A.タマルティ「よき臨床医をめざして─全人的アプローチ(日野原重明・塚本冷三訳、医学書院)

●研修医にぜひ読んでもらいたい本[20冊]
JIM 10(3) 2000
●日野原重明が若手ナースにすすめる高齢者を知る60冊 
Nursing Today 19(3):22-37 2004

2017年7月18日、日野原先生は105歳で逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

追 記
読売新聞 編集手帳 (2017.7.19)

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の巻頭に新約聖書を引いている。<一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし>。日野原重明さんはその一節を印象深く読んだという。◆これほど異常な状況下の読書もない。1970年(昭和45年)3月、赤軍派にハイジャックされた日航機「よど号」の機中である。ましてや、人質の乗客に向けたサービスで用意したものか、犯人から借りた本である。◆「業績をあげて有名な医師になる。そういう生き方は、もうやめた。生かされている身は自分以外のことにささげよう」◆当時58歳の日野原さんは心に誓ったという。「よど号」から生還したとき、名声と功業を追い求める麦は一度死んだのだろう。“生涯現役”の医師として、健康で豊かな老いのあるべき姿を体現しつづけた。誓いどおりの第二の人生に、どれだけ多くの高齢者が励まされたことか。日野原さんが105歳で死去した◆いまでは、語感も軽快な「アラハン」(=100歳前後の人)なる言葉が少しも不自然に聞こえない。その人が残した麦の実の、なんと豊穣なことよ。