ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.39 1995.8



杉村隆『がんよ驕るなかれ』(私の履歴書)
 杉村 隆 著 日経サイエンス社 1994


下原康子

昆虫少年だったという人をなぜか信用してしまうくせが私にはあるが、杉村学長はいまだに昆虫少年でいらっしゃるようだ。大学時代に終戦を迎えられ、大変な時代を生きていらしたわりには、とても自由でのんきで楽しい履歴書だと感じた。ユーモア感覚も素晴らしい。こうして書評を書くなどという暴挙が許されるような気にさせられてしまった。反面、筋の一本通った厳しさが全編を貫いている。その厳しさはとりわけ研究者に向けられていて、「人まねでない独創的な研究」の大切さがくりかえし強調されている。とはいっても、先生ご自身の研究の進め方は、「何となく研究がおもしろいからやっているうちにおもしろいことが見つかってきた」ということが多く「犬も歩けば棒に当たるという言葉が人生にとっては大切」とおっしゃる。 化学物質で胃がんを作るのに成功された時も「胃がんに関する論文を一つも読んだことがなかった」そうだし、発がんプロモーターを探す研究の時も「あまり論文を読むのはよそう。とにかく探そう」ということで実験を始められたという。図書室で文献検索を仕事にしている司書が目をむくような話だ。

ところで、今回この本をとりあげたのには特別の理由がある。というのは、私自身がん患者になってしまったのである。この本を三分の一ほど読み残したまま当病院に入院することになった。4週間あまりの入院で、その間、佐倉病院の多くの医療スタッフの皆さんのお世話になった。また暖かい励ましをいただいた。乳がんだったが、幸い早期にみつかったので、退院後1週間ほどで職場復帰がはたせた。しかし、再びこの本を手にとる気持ちになるまでには数日かかった。がん患者になった自分自身を客観的に観ることは恐怖や不安が邪魔をするのでとても難しい。『がんよ驕るなかれ』という題名さえがんを怒らせそうで気になった。「がんよ、お願い、おとなしくしていて」というのがん患者の心情なのである。しかし、それでも最後まで読み終えた。それどころか、がんについて書かれたところをとりわけ熱心に読んだ(ただし、専門に及ぶところは飛ばした)そして知りたかったことを知りえたという満足感を抱いた。

「がん細胞には多重な遺伝子変化があり、多段階の発がん過程があり、複数の発がん要因があり、しかもそれがあり続ける、したがって多重な原発がんが発生する」この何度かくりかえし出てくるフレーズは気をめいらせるに十分だが、これほど面倒な過程で発生するのなら、さぞかし時間がかかるであろう。「わたしはけっしてがんでは死なない、寿命で死にます」年輩のがん患者の方から聞いた印象的な言葉を思いだした。科学的根拠がなくもないと納得した。通常、患者が医者から病状について説明を聞くとき、基礎医学まで立ち入ることはまずないと思う。しかしがん患者にかぎってはその必要性を感じる。「なぜ? どうして私が? これから先どうなる?」という悲痛な疑問に答えは与えられない。がんは突然人生の行く手に不気味な怪物となって立ちはだかるのである。せめてその正体を知っておきたいと思わないだろうか。

「人間というものは、今日、普通に元気そうに存在しているんだけれども、それは未発−未だ発せざる−がんと共存しているものであるというふうに認識した」これは杉村先生のご著書『発がん物質』の感想として作家の司馬遼太郎氏がよせられた言葉である。「このような鮮明な日本語の表現が我々にはなんとなくできなかった」という著者の感想が私には興味深く思われた。しかしながら、患者が欲しているのはこのような表現であると思う。これは知識ではなく知恵であり、知恵は人に勇気を与えるからである。「心のこもった人の情報が心のこもった人に重要な情報として伝わる」と書かれているのも同様の意味に理解した。先生は現在『Toho University NOW』に毎回『学長室の窓から』というエッセイを執筆していらっしゃる。自由闊達な楽しい文章でいつも楽しみに拝見しているが、やはり厳しい面も感じる。「驕るなかれ」というのは自分自身に向けて発すべき言葉かもしれない。