文学の中の医学
ノーマン・カズンズ『文学の中の医師』


医学と文学

(東邦大学医学部図書館ニュース No.182 1987.6)

下原康子

だからといって名医であるというわけでもないだろうが、患者の立場からみれば、小説などをよく読む医者の方がどこか信頼しやすい気がするのではないだろうか。私自身文学好きで、なおかつ医学図書館に勤めているせいもあって、ことあるごとに医学を文学にひきよせたがる傾向がある。医学と文学のかかわりについては、渡辺淳一氏が明快にのべているので代弁してもらおう。

「医学部に入ったころ、医学と文学はかけ離れたものだと思っていた。しかしその後、臨床に慣れ親しむにつれ、両者は相反するどころかかなり近いものだと思いはじめるようになった。医学も文学も本質的に「人間とは何か」という問いかけから発している。そのアプローチの仕方に医学は肉体的な面から、文学は精神的な面からの違いはあるが、目的とするところは人間であり、その点でまさに同じである。(『医学と文学』)」

あえて私見を加えれば両者とも死が重要なテーマになっている。人は限りある生の中で人間とは何かを問う。生に限りがあるからこそこの問いが生れるのである。死がなければ文学もない。死からの逆照射により生の意味や価値も明らかになる。だから本物の文学は必ずどこかに死を宿しているといえる。医学が治療可能な患者しか相手にしないのであれば、それは機械の修理と同じで文学とは無縁かもしれない。しかし、たとえ医学がさらに発展し、より高度な治療が受けられるようになったにしろ、永久に死を免れる人はいないのである。今日、健康そのものの人だって、明日どうなるか100%の保証はない。死を切り離した医学はありえないのである。

このごろよくいわれるようになった死の医学は、文学との距離をさらにせばめた。すでに肉体的アプローチが不可能となった人にとって、精神的アプローチの意味はかぎりなく大きいはずである。医学から文学への接近の必然性(哲学や宗教に関しても同様の傾向がある)は納得できるように思う。その接近を「文学作品の創造」というたいへん積極的なかたちで表す医者が多いのもうなずける。森鴎外、斎藤茂吉、北杜夫、加賀乙彦、なだいなだ、渡辺惇一、国外ではチェーホフ、カロッサ、モーム、クローニン。これらの著名な作家は医者でもあった。魯迅、安部公房、手塚治虫らは本質的には医者であるより文学者だったのであろう。しかしながら彼らの文学が医学から受けた影響は小さくはなかったろうと思われる。

『狂人日記』『阿Q正伝』を書いた中国の作家魯迅は日本に留学し医学を学んだが、途中で断念し文学運動を志した。彼はなぜ小説を書くかという問いに「私の小説の材料は多くの病態社会の不幸な人々からとった。それは病苦を摘出して治療の必要を知らせることにあった」と答えている。医学を断念し文学の道を選んだのは、その時の魯迅にとって、祖国中国への使命を文学者として担うことが医師になるよりずっと緊急・重要に思われたからであろう。医師にはならなかったが、彼の創作方法が医学の影響を受けていることは、先のことばからも十分うかがえる。

『月と六ペンス』『人間の絆』を書いた英国の小説家サマセット・モームは早くから自分の中に文学の才能をみとめており、作家になる決心を固めてはいたが、生活のために一応医学を学んだ。したがって医学にはあまり熱心とはいえなかった。しかしロンドンの貧民窟に住み、外来患者係の実習生や産科助手(62人の子供をとりあげたそうである)をつとめながら得た体験が、処女作『ランベスのライザ』に結晶したのである。この作品の成功によってはっきり作家として立つ決心をしたのだが、医者をやめたことについては後年、むしろこのすばらしい人生経験の供給所を自ら閉したことを後悔している。モームの精神的自伝といわれる『人間の絆』の主人公は、若き日のモームの投影と思われるが、さまざまな彷徨の末、画家になる夢をあきらめる。物語の最後では、健康で働き者の妻を得、片田舎の平凡な医者としての生活に幸せをみいだす。実際のモームとは逆の道を歩むのが興味深い。モームの作品の中には医学への特別の関心はみあたらず、医学の影響が特にめだつということもないが、モーム独特のシニカルなリアリズムには医学が一役買っているかもしれない。

同じイギリスの作家A・J・クローニンの小説になると医学への思い入れがたっぷりでヒューマンな香りに満ちている。代表作といわれる『城砦』は理想主義的な夢をいだいた才能ある青年医師の物語である。彼が世間や医師界や自分の心とのたえ間のない戦いをとおして傷つきながら成長してゆく様を描いている。ストーリーの展開にやや通俗的な感じはあるが、前半の遮二無二がんばる主人公の姿はさわやかでユーモアもあり感動させられる。クローニン全集は医学部図書館で所蔵している。特に医学生やナースをめざす若い人たちにすすめたい。

ドイツの作家、ハンス・カロッサは父親のあとを継いでごく自然に医者になった。多忙な結核医であった彼が公けにした作品は、10指に満たない。しかしそのどれもがじっくり時間をかけて醇化させた珠玉の名篇である。彼は職業的な作家ではなかった。生涯の大半、医業に忠実で50才になるまでただの一度もベルリンへ行ったことがなかった。純粋に自分の体験だけを作品に結晶させたのである。大橋病院元院長の関清教授はカロッサの『幼年時代』を愛読されていた。作品の舞台となったカロッサの故郷ケーニヒスドルフを訪れた時の思い出を楽しそうに話されたのを思い出す。

私の大好きなロシアの作家、アントン・チェーホフも医者だった。祖父の代までは農奴であったくらいだから家は貧しく、チェーホフは若い時から一家の重要な働き手だった。モスクワ大学に在学中からユーモア雑誌や新聞に短篇や雑文を書きまくり原稿料をかせいでいる。やがてだんだんに認められ、本格的な文学をめざすようになる。作家として確固たる地位を築いた後も、医師としての社会活動、コレラに対する防疫やききんによる難民救済などに熱心だった。「僕の正妻は医学で文学は妾だ」と言ったそうだが、その意味するところを理解するのは難しい。彼はよく作品の中で労働の重要性を作中人物に語らせているが、自身のまじめな仕事(労働)として医学を考えていたのかもしれない。作品への医学の影響についても、とても一直線式な解釈はできないのだが、ただ多くの短篇や中篇の中に、病人の状態や心理のすばらしく正確な、文学においてはとりわけ新しい観察が見られることは確かである。彼自身若くして結核を病み、44才でこの病にたおれた。

医者としての経験が文学のかっこうの素材、モームのいうところの人生経験の供給所になること、医者としての人間観察が文学に多面性とユニークさをもたらすことは、以上の作家(少数ではあるが)の例からうかがえる。私のような小説好きで書くことにも少しばかり興味のある者にとっては、医者はうらやましい職業なのである。