康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2022年7月号〜9月号


がんと闘った三人の誇り高きアマゾネス


下原康子

第1回 千葉敦子
第2回 柳原和子
第3回 上坂冬子




第1回 千葉敦子(1940-1987)



1940年 中国上海生まれ。1964年 東京新聞に入社、経済部記者となる。1967年 ニーマン基金を得て、ハーバード大学大学院に留学。1975年頃からフリーランスジャーナリストとして活動。1981年 乳がん手術と乳房再建手術を東京都駒込病院で受ける。1983年 がんが鎖骨上に再発、放射線治療を受ける。ニューヨークに移住。1984年 がん再々発。1986年 3度目のがん再発。1987年7月9日 入院先のスローン・ケタリング記念病院にて死去。

参考にした著作
『乳ガンなんかに敗けられない』
文藝春秋 1981、のち文春文庫
『わたしの乳房再建』
朝日新聞社 1982、のち文春文庫
『ニューヨークでがんと生きる』
朝日新聞社 1986年 のち朝日文庫、文春文庫
『よく死ぬことは、よく生きることだ』
文藝春秋 1987 のち文春文庫
『「死への準備」日記』
朝日新聞社 1987 のち朝日文庫、文春文庫
『昨日と違う今日を生きる』
角川文庫 1988



はじめに


千葉敦子さんを知ったのは、1987年初夏頃の朝日新聞の連載だったかと思う。ニューヨークの自宅や街角を背景にした千葉さんの写真が載っていた。末期のがん患者さんにはとても見えない、輝くような笑顔に魅せられた。千葉さんの闘病記を読んだのは、2回の入院(1992年の急性肝炎、1995年の乳がん)のとき、患者図書室司書をしていたとき、そして、この原稿を書いている今である。30年を通して読み返しても、まったく色あせない千葉さんの印象、私の驚嘆と敬愛の気持は以下の詩に見事に表現されている。


人生に求めたものは
(『死への準備日記』より)

千葉敦子

新聞記者になりたいと思った
新聞記者になった
経済記事を日本語で書いた
経済記事を英語で書いた
ニュースを書いた
コラムを書いた

世界を旅したいと思った
世界を旅した
プラハで恋をした
パリで恋を失った
リスボンでファドを聞いた
カルグリで金鉱の中を歩いた

本を書きたいと思った
本を書いた
若い女性のために書いた
病んでいる人のために書いた
笑いながら書いた
歯をくいしばって書いた

ニューヨークに住みたいと思った
ニューヨークに住んだ
毎晩劇場に通った
毎日曜日祭りを見て歩いた
作家や演出家や画家に会った
明白な説明を受けて癌と闘った

私が人生に求めたものは
みな得られたのだ
いつこの世を去ろうとも
悔いはひとつもない
ひとつも


1. 自分のがんを取材する

千葉さんは、1975年にフリーランスジャーナリストになったときにこの世に生きる価値を明確に見出したと述べている。それから6年後の1981年にがんが発見されたとき、彼女は次のように考えた。

若くて病気と対決する力もあり、報道する能力のある自分が、がん患者になったことは、ジャーナリストとして願ってもない状況だった。私は終始、自分の行動や心理状態を「取材する側」からながめようと努力した。極めて挑戦的な、スリルに満ちたプロジェクトであった。私は入院中もずっとこうして仕事を続けた。

私個人の体験を素材として問題提起を図る。客観的な報道ではなく、主観的な色彩の濃い、観察、意見、希望、批判を含む報告を行う。再発したとしても、ぎりぎりまでジャーナリストでありたい。動けなくなくなるまでは、できる限り自由な日々を送りたい。


1987年7月、脳への転移という告知を受けた。死の2日前に、連載している雑誌の担当者に「書けません。申し訳ありません」と詫びた。仕事をする人間としての姿勢を見事に貫いた。


2.闘病の日々

千葉さんはとことん自己愛の強い、私に言わせれば、運命に愛された人だと思う。自己憐憫したり不運を恨んだりする時間があったら、住まいを整える、パーティーを開く、料理をする、劇場へ行く、ドライブをする、ワープロを買う、さまざまな生き方をする人々と会う。どんなときも積極的、行動的だった。千葉さんの闘病記には「長く暗い夜の記憶」は見られない。

千葉さんは、がん発見と同時に「ぐずぐず過ごすことを禁じる」というルールを自分に課した。気がかりな点はメモに書き出し、解決法を検討し、解決法がある場合はさっそく行動を起こす。ない場合は思い悩むのをやめた。がんという病気は、自分で課した限界の中で生きる術を学ばせる。そうしながら、秘められた可能性を引き出した。

千葉さんは、海外各地に住む数十人の友人にがんであることを積極的に知らせた。オープンにしたからこそ、支援が得られたのだ。親しい人々とは、生きているうちにできるだけ頻繁に会い、真の交流を築きたいと願った。立場が逆転して、自分が支える側になった場合にこうありたいというモデルを常に念頭に置いていた。

千葉さん自身は、自分の闘病生活はかなり優雅なものという自負があったが、日本のメディアは「過酷なまでに前向き」「すざまじい闘病」と形容した。アメリカの友人3人は、千葉さんの闘病態度に「分析的」「弾力的」「粘り強い」という形容詞を選んだ。

病気が重くなっても、千葉さんは仕事をした。がんになって11冊の本を刊行したが、3度目の再発からのもっとも困難な6か月の間にさえ、3冊出版した。「ともかく6か月生きたことに深い感慨を覚える」と書いている。何十年もきちんと計画のある生活をしてきた千葉さんにとって、明日がどうなるかわからない状態で生きるのは非常に難しいことだった。それでも、計画はやはり立てた。計画を持たなくなったら、死んだも同然になってしまうからだ。キャンセルをするかも知れないけれど、ランチの約束をし、芝居の切符を買った。ドライブの約束をした。次々に本を買い込んだ。


3.「由らしむべし知らしむべからず」に抗議する

千葉さんは「由らしむべし知らしむべからず」に抵抗した。医療におけるそういう慣習は「病院側にも患者側にも責任がある」と、手厳しく指摘している。

医師側は「患者には事実に直面する力がない」と見下している。一方、患者の方は知ることがこわいので、なるべく目をそむけたり、つぶったりする。しかし、本当は知らないからこわいのである。知らないから疑心暗鬼が生じる。疑心暗鬼は場合によっては病気そのものよりも苦しい。知ってしまえば、事実に向き合う力がおのずとわいてくる。医師は、患者を甘やかすのではなく、事実に向き合えるように励ますべきである。

医療スタッフとの人間関係は始めが肝心である。こちらはたまたま病人だが、人間としては対等という関係をしっかり築くことだ。医師や看護師だけでなく他の医療スタッフに対しても同様だ。

がん患者は「医師にとって興味ある病気を宿している生きもの」でも、「身体の中で現代医学と死が闘っている戦場」でも、「医師が実験的な薬の効果を見つめるためのフラスコ」でもない。患者は「生きている人間」であって、知性も感性もあれば、病気と闘う意志も持っている。

どんなに献身的な医師でも、患者本人以上に患者の身体に興味を持ち続けることはあり得ない。医師は知りたがる患者には正直であってほしい。とりわけ末期に望むのは、信頼できる医師との率直な会話である。



4.乳房再建について


今回読み返してみて、『わたしの乳房再建』が、もっとも読み応えがあった。(と言っても、前半の「乳房再建」より、むしろ後半の「ガン闘病をめぐって」の部分だったが)

千葉さんは、乳がん患者たちやふつうの男女たちにおける「乳房観の多様さ」を述べている。千葉さんが再建手術を受けたのは、彼女がノーブラが似合う活動的な女性で、ふだんの生活で、乳房のことをすっかり忘れていられる状態を望んだからだ。一方、49歳で、左乳房全摘をした私の一番の気がかりは、大好きな温泉に行けなくなることだった。しかし、この問題は実践で解決できた。湯舟につかっていれば見られることはないし、流し場や脱衣場で隠すのはさほど難しくない。しかし、孫が生まれてからは、一緒にお風呂に入れないのが悲しかった。

2013年7月に乳がん全摘術を行った患者さんの乳房再建に健康保険が適用できるようになった。そのころ働いていた患者図書室には乳がんの患者さんがよく連れ立って来られていた。ブラジャー談義をしたことがある。ストッキングを丸めて使っている人、肩パットをあてている人、補正下着はいっさい付けない人など、いろいろだった。同様に脱毛対策も、スキンヘッド、ベリーベリーショート、金髪のウイッグ、医療用おしゃれ帽子など、さまざまだった。にぎやかに笑いながら意見交換をした。詳しくは聞けなかったが、乳房再建をした人が二人おられた。


5.がん情報へのアクセス

闘病を快適にする重要な条件の一つは情報へのアクセスがよい、ということだ。千葉さんは、常日頃から取材前の下調べの調査のためにアメリカの図書館を最大限に活用していた。

千葉さんは述べている。

アメリカ人は何か疑問をもったら、まず図書館に行って調べる。公共図書館のほか、いくつもの専門図書館が各地にある。ニューヨーク公共図書館は堂々とした大理石の建物で、熟練した司書が、調べもののアドバイスをくれる。ひんぱんにセミナーや展覧会が開かれている。図書館が市民の生活に溶け込んでいる。

アメリカでは知ろうとさえ思えば知る方法はいくらでもある。コンピュータを使ったオンラインデータベースの利用も当たり前になっている。私はメドラインというデータベースをよく使った。検索するとその中には、日本語の論文の英訳も含まれていた。例えば「癌の臨床」「がんと化学療法」の論文などだ。こうした日本の論文に日本の患者はアクセスできているのだろうか。


日本の医学図書館員がメドライン検索講習会を受け始めたのは1980年代終盤のことだ。千葉さんがそれより前にメドライン(後のPubMed)を使っていたことに、私は驚いた。

2022年現在、医学情報へのアクセス環境は飛躍的な変貌を遂げている。しかしながら、千葉さんがメドライン検索で目にした日本の医学論文への一般市民のアクセスは、いまだ身近ではない。日本における唯一無二の国内医学情報データベース「医中誌Web」の無料公開が実現していないからだ。「医学中央雑誌」(医中誌Web) が、医学分野では、1879年刊行の「 Index Medicus」(PubMed)に続き2番目に古いとされていることをご存じだろうか。

検索語や検索システムなど多くの点で、医中誌Webは、PubMedを倣っている。(ちなみに、医中誌Webから日本語でPubMedを検索できる)。公共図書館への導入が推進されているけれど、利用はいま一つようだ。学外者を受けてくれる医学図書館は少なくはないが、敷居が高いのか、なかなか広がる気配は見えない。


6.千葉さんが怒りを感じたこと

スーパーウーマンの千葉さんにも、ウィークポイントがあった。一つは、日本の病院のプライバシー不在だ。孤独に対する欲求がとりわけ強い千葉さんは、集団生活が大の苦手で、同室は気が狂いそうなほど苦痛だったという。日本人は、プライバシーの感度が鈍いようだ。いわれてみれば、日本語にはプライバシーに相当する言葉がない。

また、(私もおおいに同感するのだが)たいして親しくもないのに見舞いに来たり(しかもおしゃれをして)、余計な見舞い品を持ってきたり、なぐさめるつもりか、「私の伯父もがんで」とか「同級生だった〇〇さんもがんなんですって」などと、知り合いのがん話をするのは、まったくいただけない。

千葉さんは、日本とアメリカで体験した医療スタッフに対する怒りのエピソードを書き留めている。

●日本の病院で

若いレントゲン技師の「上半身裸になってください。ネックレスをとって」という機械的な一言が千葉さんの怒りに火をつけた。「この技師は、乳がん手術後の患者なんか見慣れているから、私のこともなんとも思っていないのだ」と自分に言い聞かせたが、怒りは静まらない。確認のために名前を呼ばれた時、千葉さんは技師の視線を外さずヒタと受け止めた。千葉さんの目力に、若い技師は、はっと息をのんだかもしれない。

●ニューヨークの病院で

受付に診察券を出して、係の対応を持っていたら、「券をそこにおいて奥で待っていればばいいんですよ。何度も来ているのにまだ手続きがわからないの?」と係の女性は言った。これが日本だったら、喧嘩するのもばからしいとオトナの態度を決め込むが、ニューヨークでは黙っていてはいけない。黙っていれば、この受けつけ係は私のことを「手続きも覚えられないうすのろ女」と思いこみ、次回からもっと意地悪なことを言うにきまっている。私は彼女の眼をまっすぐみつめ、おさえ気味に言った。「あのね、世の中には病院の手続きを覚えることより重要なことがたくさんあるのよ。あなたもがん患者になってみると、私のいう意味がよく分かるはずだわ」彼女はバツが悪そうに「奥で待ってください」と小声で言った。


おわりに

千葉さんは1987年7月9日に、ニューヨークのスローン・ケタリング記念病院で46年の生涯を閉じた。なんの苦しみもなく眠るように亡くなった。

人間社会に対する千葉さんの問題意識は厳しかった。とりわけ日本の男社会に対する批判は辛辣だった。才気煥発な女性ジャーナリストの千葉さんには当時の日本は狭すぎた。無謀にも思えるニューヨーク移住には明確な意図があったのだ。

千葉さんは、10年単位で計画を立てていた。ジャーナリストになって10年間は東京をベースに英語で論文を書き、世界に発信した。それからの10年間は、ニューヨークをベースに日本語で原稿を書き、日本に世界の出来事を発信したいと考えていた。

ニューヨークにおけるがん医療の取材が千葉さんの最後のプロジェクトだった。自らが、納得がいく医療を受け、納得のいく生活をし、納得がいく死を迎えようとした。そして、その報告を死のまぎわまで書き続け、日本に向けて発信した。まさしく「よく死ぬことは、よく生きることだ」を体現した見事な生涯だった。






第2回 柳原和子 (1950-2008)

柳原和子(やなぎはら かずこ)
1950年3月19日 - 2008年3月2日
ノンフィクション作家。東京生まれ。

著 作
『カンボジアの24色のクレヨン』
晶文社 1986
『二十歳もっと生きたい』
福嶋あき江著、柳原和子編 草思社 1987
『「在外」日本人』
晶文社 1994 のち講談社文庫
『がん患者学 長期生存をとげた患者に学ぶ』
晶文社 2000 
『百万回の永訣 がん再発日記』
中央公論新社 2005 のち文庫



がん治療と闘病(『がん患者学』)

1997.5 卵管がんを告知される。47歳。大学病院にて手術。母も47歳で卵巣がんで死亡している。
1997.6 全身化学療法。同時に漢方など代替療法を開始
2000 『がん患者学』を出版
2003.12 再発。全身化学療法
2005.1 骨盤内再発にて開腹手術
2005〜2006 ラジオ波照射療法、放射線治療
2007.3.3 患者会主催公開講演会
2007.12 緩和病棟に入院
2008.3.2 永眠



はじめに

2007年3月3日、ある患者会の主催で柳原和子さんの講演会が開催されました。当時、わたしはがん専門病院の患者図書室で働き始めて2年目でしたが、「患者さんへの医学情報提供」の困難さとは別種の戸惑いや葛藤を感じ始めていました。柳原さんの話からなにかのヒントを得たいという期待を抱いて参加しました。

講演は素晴らしい内容でした。感謝と感動を伝えたい、なによりも、柳原さんと語り合いたいという衝動に駈られて、思い切ってメールを出しました。柳原さんが亡くなる前年の2007年3月〜11月、柳原さんが12月に京都から東京に移られるまでの期間、メールのやりとりがありました。

10年以上過ぎ去った今、柳原さんのメールを読み返しているわたしの心に不思議な現象が起こっています。いつのまにか、柳原さんと対話のつづきをしている自分に気づくのです。

短期間のメール交換でしたが、先をゆく柳原さんの辛辣かつ逆説的な鋭い指摘と思索の深さについていくのは荷が重いと感じながらも、刺激的でワクワクする愉しい経験でもありました。

議論の相手を挑発して弱みや本音を引き出す一方で、誇りや矜持を吐露させる、柳原さんはそういう能力と技と魅力を備えたジャーナリストであり作家でした。とりわけ、自信に満ちた専門家に対してその得意技が発揮されました。ときに辛辣、ときに少女のようにかわいい柳原さんに、多くの人たち(専門家、患者、読者)は魅了されたのです。

わたしはいただいたメールを『百万回の永訣』の続きのように読んでいます。埋もれさせるには惜しいメッセージです。天国の柳原さんにお許しを願って、ここに掲載させていただきます。


柳原和子さんの手紙

『がん患者学』『百万回の永訣』の著者である柳原和子さんは2008年3月2日に永眠されました。以下は亡くなる前年に柳原さんからいただいたメールの一部です。今もなお、柳原さんとの心の対話は続いています。

下原康子から柳原和子さんへ(2007.3.7)

はじめまして。下原康子と申します。乳がん体験者です。長年勤めた医学図書館を定年退職し、がん専門病院に開設された患者図書室で働いています。ご講演を聴き、翌日のテレビ番組を見て以来、ふと気がつくと、柳原さんと対話している自分がいます。柳原さんは本当のチーム医療を自らの命をかけて実現しようとなさいました。そのことを多くの医療者に知って欲しいと願います。

柳原さんは天性の勘とジャーナリストの眼力、そして、がん患者のプロとしての気概をもって、臆することなく専門家に対峙されました。柳原さんは革命家。一人一人の心の中で革命が起きなければ何もかわらない。柳原さんは荒野で呼ばわる予言者の声。その声に魂を射抜かれた医師、医療者、患者たちは少なくないでしょう。ありがとうの一言を伝えたくてメールしました。

柳原和子さんの手紙(2007.3.10〜2007.11.24)

メール拝受。これまた恥ずかしいほどの賛辞にとまどっています。まったく、からだで感じたことしか語っていないので、それが他の人にとってどうなのか?について吟味するだけの、つまり取材したり現場に行ったり、他の人たちのこころと目と言葉のやすりにかけていないので、すべてに自信がありません。自信がないなら話すな!って怒られそうなので、どんどん講演断ってます(笑い)。だから講演が下手になったことはわたしにとってとてもすてきなことでした。もっともっと厳しい寒風にさらされて思想というのは鍛えられていかなければならない、言葉は鍛えられなければならないのに、わたしのは、あたたかい部屋に閉じこもって言いたい放題ってところが脆弱です。

あんまりはびこってはいけないの。いつも負け犬の遠吠えっていうところが役どころ、はまりどころ、って自覚しています。だから革命家、なんておそろしい賛辞をわたしにむけて語らないで。もっとも厳しく、冷めた視線で歩く道をはずさぬように忠告する友だちとして、さまざまなこころのやすりになってください。わたしのほうがほんとうに、教えていただきたいことばかり、と思っています。朝日新聞で記事を読んだあの方ですよね?いろいろ、現場での実感を教えてください。

●『百万回の永訣』(NHK 2006年)について

まあ、テレビ番組はスタッフの世界だから。同じ出演者で同じ時間撮っても、その編集によって、つまり切り取りかた、場面の並べ方、ナレーション、音楽によってまったくちがった印象になるのが映像っていうか、作品ですから・・・。今回の反響を見つめながら、やはり日本人は弱い者に対してやさしいというか、抵抗する人に対して冷たいというか・・・。同時に、患者はやはり治りたいのだ、というか。一縷の希望を某大学病院に求めて殺到しているというか。でも、こんなにぐちゃぐちゃな身をさらしてなお、誇り高い、というもっともわたしが愛するというか大好きな言葉、求めてやまぬ言葉で語ってくれた下原さんにありがとう。

●誇りと完全治癒どっちをとる?

番組の中より、私とメール交換、電話、直接京都で会うってなことにしたほうがはるかに愉しいよ、って言いたいところですが、辟易するかもしれません(笑い)。おそろしい、意地悪なんですよ、本音の所では・・・。遠くにあって眺めている方が、いいっていう悲しい人間なんですね、わたしは。まあ、皆に見透かされていると想像していますが(笑い)。そう、どうあったとしても誇り高く、生きたいですね。

でも、誇りと、完全治癒とどっちとる?って、選択できるとしたら、わたしはどっちをとるだろうか? うん、完全治癒をとってそれから誇りのたてなおし、ってな感じかなあ。ほんのしばらくの寛解っていうのなら、断然誇り!だけれどもね。いや、数年間の寛解ならちがうかな? むずかしいですね。でも、がんはいずれにしても不可解だから、人間そのもの、ってな感じですよね。

太刀打ちできる?なんてのは、偉そうにする男や立場の人に向かって空威張りするときだけですよ。友だちにまで、そんな。とはいっても、きわめてささいなことにこだわってごちゃごちゃするので、すみません。でも、やっぱりたくさんの人に理解されたい。理解されなくってもいいから、たったひとりの白馬の王子様に・・・。馬鹿にされそうだなあ・・・? 昔、そういう原稿を書いたら、ほとんど女性運動の人たちに馬鹿にされて、蔑まれてしまった・・・。うん、わが欲望ははてなしですね。図書館っていう世界を見てこなかったのは残念。また、必ず見学に行きますね。

わたしはね、知識と情報は使いこなせてなんぼ、だと思うの。情報があっても、使ってくれない医療者を相手に情報をふりかざしても絶望ばかり。今ある情報を使いこなしている医師が生きた情報としてわたしたちにフランクに、口伝えで教えてくれるといいよねえ。愉しいね、下原さん。新たな角度の視点をもった人とこうして交信できる歓びを噛みしめています。

●書くということ

革命家、芸術家、文芸家・・・。下原さん! 言葉が大げさすぎます。ふつう以下だから、あんな力のこもった文章書くので、文芸、芸術の人たちはもっとさりげない文章を書きますよ。恥ずかしいばかりです。でも、読んでくれてうれしいです。なんだか、たまらない文章ですが、わたしらしい文章ですよね。また、怖い「批評」というか、中傷の噂の嵐になるかな?でも、まあ、いいか。治療のことで、今は、ぼうぼうと頭のすみっこで考えています。化学療法を辞めようかな、と思っているので、自然療法をどのように徹底するのか?そのためにどういうライフスタイルにすればいいのか?

日本において評価と稼ぎを気にしないプロフェッショナルは公務員だけです。本における評価と稼ぎは書評の数、質、部数、読者数、ということになりますが、つまり、評価と稼ぎにおいてなにもならない本をだしても、それはなかった、というより、次の仕事をするときに低い水準の仕事の場しか与えられない、ということです。こころざしがあればそれでいい、というのはプロの仕事ではない、ということです。そのこころざしの低さとこころざしのはざまで苦しみ続けるのがプロフェッショナル、ということでしょうか。わからないでしょうが・・・(笑い)。

読者が協力しないかぎり、作家は死ぬ、という構造になっているのですね。文字どおり、活きている、生命が医療費、お金と直結しているわたしにとっては活きていなくていい、というお達しのようなものであります。これまた、わからないでしょうが・・・(笑い)。あなたはやはり、あなたらしい反応だなあ、と微笑みました、思わず。こころからありがとう、と感じています。わたしのようなつたないもの書きに対する過分なまでの賛辞。でもね、わたしはプロになりたかったの。まずは自分で生きる、生きられる人として生きてみたかったの。

魂をゆさぶる言葉や感動をよびさます言葉は、まったく基本であり前提でしかないの。今のわたしはね、ある種、本におけるひとつの大きな存在意味、読者の怖いものみたさ、ゲテモノ趣味を満足させているだけかもしれないの。そこをどう突破するのか? 言葉の意味、表現の意味を問い続ける。

ただし、あなたのような読者、厳しい視線を他者に浴びせかけて、真贋をかぎ分けながら、しかし、自らはきちんと生き抜いている人がわたしにはかぎりなく、おそろしいです。重たいです。あなたに、嫌われない本を書き続けるのは、死ねという要求にこたえるに等しい重たさがある。そこのところ、笑ってしまうほど、わたしは後悔しているんです。もっと楽しい人生をわたしのために選んであげたかったなあ、って。すべてが経済にからめとられている現代社会では勝者、少なくとも六ヶ月先の生命と収入が確保されているような生活者でなければ、楽しくはないんですね。

●図書館について

理想論というか、制度的にはそうでしょうが、現実には利用者からの要望があれば、それは優先されていると思いますし、それでいい、というふうにある面では思います。つまり、これは図書館とはどういうところか、という原則論に触れるところなんですが。現実にはコンビ二です。現実を見ずして、ものごとを理想論的に語ってもなにひとつ動かないわけで・・・。新聞代を節約して老人、退職者が図書館を利用し、受験生が勉強に利用し、子どものある種の遊び場でもあり、映画館やオーディオルームでもあり、市民たちの集いの場でもあり・・・。

昔、英国にいたとき、その図書館に感動したものです。インテリでも英国では自宅にあまり本を置いてはいなかった。どうして? と聞けば図書館で夜遅くまで勉強してくるから、ということでした。大学だけでなく市内の図書館です。つまり、原則的にはもの書きでは食べない、別の仕事をもって書く、またはベストセラーを書く努力をする、ということに尽きます。

ベストセラーを書くというのは、なにも=世間にこびる、というわけではないので、誤解しないでね。あれはほんとに大変な作業です。でもまあ、日本では有名な人の本が売れる、という傾向が強いから、作品が強化されていかないことにもなりますし、わたしのような人も作家という肩書きで仕事ができている、ということになる。まあ、読者能力が落ちている、というのは真実で、それはまた作家能力を貶めている、ということになり、そのことが世間から知性という言葉を排除した遠因になっているし、これからが怖い、ということにつながっていくのではないか、と感じています。

●論理的思考?

論理的思考?あれは近代が作り上げたひとつの虚妄です。多くの女性たちにとっては、それはとてもむずかしい姿勢です。しかし、今のところ、それしかツールを考え出せずにいるから、支配的になっているだけで。まあ、国際社会における英語と同じです。エスペラントが普及しなかったこと、地方言語が衰退して、復活しようとしているけれど、しかし、人はどうしたって同じ機軸をもって、理想を前提に語り合わなければならないから、基本を決めた。でも、その基本に追いつけぬ人が大量に出て、あふれて、その人たちは劣等感にさいなまれて生きるしかないという構造になってる。

でも、医学・医療をはじめとする専門分野はやはり論理的思考法を身につけた人でないと困るんですね。ぎりぎりまで論理で追い詰める覚悟をもった人でなければ、困る。情と勢いと経験だけでは、やはり困るんですね。

●司書が医療スタッフになるからには

医療スタッフになったという下原さん。(注:患者図書室が患者相談支援センターの傘下に入ったという意味)医療が開かれたと考えるべきなのか。なんにも、わかりませんが、友達として、あなたがたがとりあえず仕事をする人として社会に認められる、社会が認めた、ということとしておめでとう、と拍手。でもまあ、とりあえず、わたしとはますます遠い存在になった、というか。社会はそういうふうに進んでゆくのだな、と実感を深めたというか。誰だって、患者よりも医療者になりたいよね。人を救う側、と社会が認められる側として存在したいのだよね。それこそが、生きる、生きている意味ということかもしれないなあ。

健常と病、病の中でも致死性の存在の人は、それはもう過去の情報、知識、あらゆる文化的蓄積を駆使したとしても理解を超えた存在とわたしは感じています。そうしたレベルでいえば、語る権利は誰にもあるし、わたしにはもう奪われてしまいましたが、というか、そうした冷静さが消えてしまいましたが、きっとそうした姿勢こそが重要なので、体験者よりも未体験者のほうが力になる、やさしいということは往々にしてあるわけですから。人間のそうした複雑さをわたしは大事にしたいと思っています。

わたしもあなたのように、がん患者さんとの日々がわたしにさまざまなことを教え、支えられています、というようなことを素直に言える側にありたかった。つくづく、うらみがましい、愚痴っぽい毎日の後悔であります。

わたしには、下原さんが患者側かどうか、判断する材料はなにもなく、医療スタッフになる以上、半端でなく、きちんとプロとして、文科系としての医療やってほしいです。医療側からお金もらう以上、患者の視線で、なんてのはごめんです。あなたが、司書として誰にもできぬプロの領域をきりひらいてくれること、こころから期待しています。でも、遠いのは事実です。

わたしたち過酷系患者がひそかに恐怖感を抱いているのが、初発がんであまり過酷な治療でなく寛解し、患者のため、と体験を生かして医療現場に働く方々なんです。それが何故なのか? 下原さんならその恐怖感を断ち切る仕事人になってくれる、と期待しています。

司書を医療チームに入れたのは医療側の英断であって患者側の努力といえるのかどうか。メディアがとびつきそうなイベントであろうと、それを含めて彼らは努力したわけで、問題はここからです。誰のためになにをやるのか? 患者経験を司書としてどう生かすのか? 病院の患者図書館がふつうの図書館となにが違うのか? がん関係の本が並んでいるからいいのか? 全国、全世界の医療情報をあなたが検索できるようになってほしい。誰もが知るサイトにつなぐだけではダメ。プロとしてのあなたに期待しています。

わたしには、なにか言える資格はありません、どうぞいい仕事を!理想と志のない医療スタッフは始末におえません、わたしはあなたより先に死ぬ人として前を歩いている、ということかな? まあ、そうですね。(笑) ともかく、司書としてできるすべてをやりぬいてください。患者と医療者のために。


医師たちへ
(『百万回の永訣 がん再発日記』より)


柳原和子

言葉にはしなかったが、わたしには伝えたかったことがある。
たくさんの時間を、あなた方との議論とも言えぬ議論についやしてきた。

わからないことだらけだった。
わからないことをわからないと言う難しさを知った。
自分がなにについてわからないかを相手に知らせる難しさ知った。
あなた方はそんなわたしに、真摯に答えようと努めてくれた。

そして今、わたしはここにいまだに、在る。
早ければ三ヶ月、六ヶ月、長くて二年、との診断から二年すぎた。必死だった。

今、救われた、と切々と、わたしは感じている。
あなた方が救い出してくれたのはからだだけではない。
救われたのは、からだ以上に、魂だった。

信頼とはなにか?それはいまだにわからない。
医師とはどういう存在で、患者とはなんなのか?いまだにわからない。
もっと簡単で単純なことであるような気もする。
ものすごい回り道を、わたしはしているような気もする。

だが、死ぬことを前提に、わたしたちは生きて関わり合う存在だ。
お互いがあまりにも未知で遠い存在であっていいはずがない。
あなた方の努力のおかげで、信頼とはそこに転がっているものではない、と知った。

医師と患者が共に、力を合わせて、努力して相互に関わり合って創造してゆくものと知った。



おわりに

2008年1月26日、東京の某病院緩和病棟のミーティングルームで「柳原さんを囲む会」が開かれ約60名もの人々が集いました。別れ際に、柳原さんにかけてもらった一言が、私の座右の銘になっています。

「のりしろが大切よ」





第3回 上坂冬子(1930-2009)


1930年東京生まれ。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)勤務などを経てノンフィクション作家に。昭和史・戦後史、女性問題に関する評論やノンフィクションを数多く発表した。菊池寛賞、正論大賞受賞。

がん闘病
2005年 卵巣がん発見。卵巣、子宮、大網などを切除。
2008年8月 J医大病院にて再発確認。肝臓や肺に複数の転移巣。婦人科で抗がん剤治療。
2009年1月 消化器科・肝臓内科に移ると同時に「緩和ケア」を受けはじめる。
2009年4月14日永眠(享年78歳)


取り上げた作品
『死ぬという大仕事 がんと共生した半年間の記録』
小学館 2009(小学館文庫) 


はじめに


上坂冬子さんは15歳の女学生のとき終戦を迎えています。「NHK 戦争証言アーカイブス」で、当時の思い出をあっけらかんとほがらかに語る歯切れのよい語り口に思わず聴き入ってしまいました。少しの迷いもなく身体を鍛えてお国のために日々努めていた15歳の少女が、昨日までは目をつりあげて「なぐるわよ」とどなっていた女教師から、「明日からは民主主義です。スカートはいていいわよ」と目じりを下げて言われて仰天します。その場面を想像して思わず笑ってしまいました。語り口のほがらかさは戦争体験という屋台骨に根ざしていると感じました。このほがらかさは『死ぬという大仕事』にも通底しています。

『死ぬという大仕事』は、患者図書室ではどちかといえば男性に人気がありました。以下は、寄せていただいた感想です。

上坂冬子『死ぬという大仕事』。死の直前までがんと対峙し昨年死去。惜しい人を失った。自分の死を悟りもう生命がつきるとわかっていたのだろう、自宅を売り払った。次の日に買い手がついたという。上坂冬子は生涯独り身だったが、自分のことは自分で結末をつけた。死に親しんだ小生、自殺未遂を3回も繰り返したが、後年がんになり生命が惜しくなる。本を読む時間が欲しくなると生きたいとより思う。まさに読みたい本があり、そこに生きる時間があるのは幸せの極みといえるだろう。

4章からなる本書の見どころは、なんといっても病床で上坂さんが主治医や担当医相手にぶつけたインタビュー(1章〜3章)です。ストレートに病状を聞き出す一方で、がん難民、緩和ケア、延命処置などの問題に鋭く斬り込んでいます。重く深刻なテーマなのに、会話の最中冗談さえ飛び交います。リラックスした雰囲気と上坂さんの巧みな話術で、息子ほど年の離れた医師との間に、まさしく「病気を診ずして、病人を診よ」の実践が実現しています。

『死ぬという大仕事』からほがらかな「かけあい」の一部を紹介してみましょう。


第1章 がんは治すな、付き合うべし

上坂冬子とS医師(消化器・肝臓内科医師)の対話

上坂:食欲がまったくない私に、先生が「好物を取り寄せて食べてみては」とアドバイスしてくださったのね。代官山『小川軒』のヒラメの刺身を取り寄せて食べてみました。不思議なことに3か月も何も口にしなかったのに、これだけはおいしいと思ったのよ。それで、こんなところに目をつける先生は名医かもしれないなと、今週はじめて思いました(笑)。

S医師:来週はどうだかわからないわけですね(笑)。

上坂:そのあと先生は、今度は「だるさがあるようですが、それもすっきりしてきますよ」とおっしゃった。私が別にだるくありませんと言っているのに、と文句を言ったら、「今日は机の上が散らかったままになっています。だから多分だるいのではないかと思ったのです」とお答えになったの。私はすっかり圧倒されて、ちょっと目の付け所の違うお医者さんだな、医学部じゃなくて文学部出身かしら?と思いました(笑)。

(そこではじめて言いたかったことを伝える)

上坂:私は自分の病気が全快するとは思いません。どんなによくしていただいても、年齢的にみても私は治るとは信じられないし、治らなくてもいいと思い始めています。痛くなったり、強烈な変化があったりしたら、その都度それなりの処置をしてもらい、本人はそう辛くもないという状態を保ちながら私の寿命と治療効果がなんとなく一致したところでこの世を去れれば本望です。


第2章 医者と患者をつなぐ「命を懸けた信頼関係」

上坂冬子とI医師(緩和ケアチームを率いる医師)の対話


I医師:お痩せになりましたね。

上坂:そうなのよ。減りすぎです。どうしてくれますか。

I医師:確かに究極のダイエットになっていますね。

上坂:おかげさまで今日はフランス料理のランチコースを残さずにたべました。

上坂:先生、私はこの先どうなるんですか。見通しは暗い?明るい?

I医師:正直いうと、わからないのです。だいたい余命が一か月以内になってくるとわかりますが、それ以前になると難しいです。実際に余命が一か月以上では医師の予測はほとんど当たらないというデータがあります。

上坂:そのくらいでいいですよ。あまり早くわかってもね。

I医師:個人差が激しいですし、医者は正確にわかっていること以外は言ってはいけないと思います。予想で言ってはいけないのです。

上坂:この病院にきて、入り口に「病気を診ずして病人を診よ」と書いてあるのに感動しました。

I医師:あれは緩和ケアの神髄ともいえる立派なことばです。しかし、実際には病気を叩くことに専念して、かえって患者さんを苦しめている例が多々あるのです。

上坂:病気そのものだけを中心に置くのではなく、医学に欠けている「ロマン」の部分にも目を配れということではないでしょうか。それにしても実態は遅れていますね。

I医師:大学病院のような大きな病院では、普通は患者さんを最後まで診ないことが多いのです。治療の途中で退院させられた患者さんが「がん難民」になるのです。政府が在宅緩和ケアを進めろというわけですが、それだけでは不安ですよね。「自宅で最期を迎えたいと希望する人が増えている」という調査結果をよく目にするようになりましたが、実は「自宅派」の人も大半は必要があれば入院したいと考えているのです。「家族にはめいわくをかけたくない」という人も少なくないですしね。明らかなのは、在宅ケアが進めば国民医療費が下がって国が喜ぶことだけですよ。

上坂:例えば、先生が診る患者が私一人だったら完璧な緩和ケアができるとお考えですか。

I医師:かなりのことができると思いますね。一対一でゆっくり時間を割けるならすごくいいケアができると思います。

上坂:それだけの技術と見識がありながら、残念だわ(笑)。 

I医師:上坂さんの場合、私は本当にうまくやれる自信があります。なんでも話せますから。普通はこんなには言えませんね。

上坂:お医者さんとなんでも話せるというのは一番大事なことね。その信頼関係がなければ緩和ケアもヘチマもなくなってしまう。

I医師:患者さんに希望を持たせるために嘘を言っても逆効果になってしまう。

上坂:この年まで生きてれば、だいたいの人の嘘は見抜きますよ。それに正確な事実には、いいも悪いもない。

I医師:大切なことは、本当のことを伝えながら患者さんに不必要な不安を持たせないことです。いいことばっかり言って悪いことを言わないのは、実は医者もその方が楽だからです。そのため効いていない抗がん剤でだらだら治療されている患者さんもいるように思います。

上坂:まあ、先生はなんでもさらりとおっしゃいますね。

I医師:それは上坂さんだからです。普通はもう少し言葉を選んで話します(笑)。でも、どうせ、上坂さんには見抜かれてしまいますから。

上坂:それじゃ、訊きますけど、私のがんはどういう段階ですか。 

I医師:卵巣がんには4つのステージがありますが、上坂さんのは最後の4期です。

上坂:はっきり言うわね(笑)。はじめて言われましたよ。未練がましいけど、4期が3期になることはないんですか。

I医師:普通はないです。ただ、4期がすごく長い人はいます。

上坂:緩和ケアを突き詰めていかれる先生に、患者として一言申し上げますと、やはり緩和ケアのような分野で一番必要なのは人相だと思うのね。先生はそういう意味でぴったりの人相です。

I医師:そうですか?それはありがとうございます。

上坂:べつに男前だと言っているわけじゃありません(笑)。緩和ケアを志すお医者さんに大事なのは、生まれながらの顔に長年かけて築き上げた内面を盛り込んだ人相だと思います。先生は合格よ。

I医師:そんなに自分がいい男とは思いませんでした(笑)。

上坂:いい男かどうかなんて話はしてません。でもいい男といわれなかったからといって、ここは気落ちするところじゃないわよ(笑)。


第3章 自分らしく生きるために 延命処置について

鼎談 上坂冬子、S医師、I医師

上坂:化学療法のほうがお金がとれるからやっているということはありませんか?

S医師:それは医者の倫理観からいってないでしょう。

I医師:いや、私は実際にはそういう一面もあると思っています。がんの専門病院が難民を生んでいるという現実があります。ひとつの対策として、がん専門病院は最初から「がん手術センター」にすればよい。

上坂:最終的に私はとろとろと眠ってしまって死んでいけるわけですか?

I医師:気持ちいいですよ(笑)。

上坂:それはいいすぎ。 

I医師:いえ、本当に気持ちいいらしいですよ。ただ帰ってきて私に賛成してくれた人がいないので、はっきり断言できませんけど。

上坂:私、今のうちにいろいろお願いしておきたいことがあるんです。延命治療はしないでほしいということ。これは何に書いておけばいいんですか。

S医師:もちろんそうしていただくこともできますし、これまでも上坂さんからそうしたお申し出がありましたから、そのことはカルテに記載してあります。

上坂:それだけで通りますか。

S医師:カルテには「この時点で、このような意思表示があった」ということが記載され、その後変更がない限りは、それがご本人の最終的な意思であるとあつかわれます。ただし、延命処置については、上坂さんは「家族は関係ない」とおしゃいますが、例えば若い患者さんなどでは、本人の意思があっても、親御さんが絶対に延命してほしいといわれれば、それに従うケースもあります。この問題には正解はないというか、すべてが正解ということもできますし、ケース・バイ・ケースというしかありません。

上坂:最終的にはお医者さんの判断で決めてもらえるわけですね。

S医師:そうです。いくら延命処置は要らないといっても、あきらかに一過性の心停止などは医師の判断で処置することもあります。

上坂:今は延命治療はいいですなんて淡々と話しているけど、いよいよ最後となったら一日でもいいから生きたいとか、治して!と大騒ぎするのではないかと思うのです。

I医師:それはそれでいいんじゃないですか。人間だから。病状の変化に伴って考え方が変わるのは普通のことですから。最後まで病院で治療したいと言っていた人が急に家に帰りたいということもあります。達観して亡くなるなんて、実は坊さんでも多くはありません。坊さんだって痛いものは痛い。痛みも「体験」であって他人と共有したり比較したりできるものではありません。だからこそ、精神面では、迷ったり泣いたりとり乱したりしたっていいんじゃないかと思います。大事なことはそういう感情を表現できる場や、聞いてもらえる人がいるかどうかです。

S医師:患者さんの意思をカルテに書くといいましたが、あくまでもそれは「この時点で」という意味です。夕方になって気持ちが変わったら、すぐまたカルテに新しい意思を書きます。


おわりに

今現在、作品の上坂さんに年齢が近いわたしの主たる関心は、「がんに関わらず、自分らしく死ぬためには、どのような考え方と心構えが必要なのか。その上で、どうやって医療や医師とかかわればいいのか」という問題でした。おそらく、その答えは「今をいかに生きるか」のなかに見出すべきなのでしょう。

アマゾネス3女性に共通するのは、独立自尊の精神です。その潔さと覚悟のほどは、並みの男性以上に「おとこまえ」です。賢く魅力的でおしゃれな永遠のスーパーウーマンに敬愛と感謝をこめて。