康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2021年11月号




イワン・イリイチの死と “トータルペイン”

下原康子

はじめに

トルストイ『イワン・イリイチの死』は、小品ながら、広大なロシア文学の中でひときわユニークな輝きを放つ珠玉の名作です。

主人公のイワン・イリイチは19世紀ロシアの裁判所の一判事(45歳)。物語はこの人物の訃報から始まります。官界における出世と快適な私生活の充実に人生の努力の大部分を費やし、まずまずの成功に満足しきっていた矢先、イワン・イリイチは不治の病におかされます。肉体的苦痛、仕事・生活への執着、妻や同僚の欺瞞的態度、これまでの人生に対する虚偽の意識、そして、死の恐怖が彼を追い詰めていきます。古今東西ありがちな一人の人物が、トルストイの天才によって、精神の奥の奥、魂の底の底まで解剖され表現されて、人間普遍の一典型になりました。

コロナ禍自粛中、「地域医療ジャーナル」の連載がはげみになって、好きな作家や作品に関連する文献をPubMedで探すという趣味が復活しました。そこでみつけた以下の論文を紹介します。うれしいことにオープンアクセスでした。全文の翻訳ですが、「 」部分は小説の本文からの引用なので、日本語訳(中村白葉訳)の該当部分に置き換えました。

Lucas V. The Death of Ivan Ilyich and the concept of‘total pain’
Clin Med (Lond). 2012 Dec; 12(6): 601-602.





イワン・イリイチの死と “トータルペイン” の概念

ヴィヴ・ルーカス著 下原康子訳

トルストイの『イワン・イリイチの死』(1886)は、死にゆく人の苦しみを卓越した洞察力で描いており、「医療の古典」とされている。現代の医療においても有益な洞察を受け取ることができるであろうか。

ここでは、この物語を、絶望感と死の恐怖が痛みを増強するという、現代の緩和ケア実践の中心的概念である「トータルペイン(全人的痛み)」を経験している患者の描写、とする評価を提案する。

とはいえ、そのような評価は妥当だろうか? 20世紀後半に現れた「トータルペイン」の概念を、そのまま想像上の文学に適用し、「医療化」という行為によって、作中人物に遡及的に診断を課すという罠に陥りはしないだろうか?

この物語の核心は痛みである。イリイチは、心ならずも痛みの意味の探求を余儀なくさせられる。彼の主訴は左脇腹の痛みであったが、その痛みの意味に関して、医師はイリイチとは異なる見地にいた。

イワン・イリイチにとっては、ただ一つの問題が重要であった。

「病状は危険であるか、否か? しかし、ドクトルは、この時宣に適しない質問を無視してしまった。ドクトルの見地からすれば、この質問は無益なもので、問題とするに足りぬことであった。あるのはただ、遊動腎臓か、慢性カタルか、盲腸炎か、その確率の考量だけである。イワン・イリイチの生命に関する問題はなく、あるのはただ、遊動腎臓と盲腸の論議だけであった。」

医師はイリイチの最大の関心事を意に介さなかった。トルストイの医師の描き方は蔑称的でやや不公平かもしれない。とはいえ、イリイチは医師患者関係に(ふつうの医者にも名医にも)落胆させられ、そのたびに彼の苦痛は増大していった。

「しかも、この痛み、一秒間も止みまのないにぶい、疼くような痛みは、はっきりしないドクトルの言葉とむすびついて、また別な、ずっと重大な意味を持ってきたような気がするのだった。イワン・イリイチは、新しい、重苦しい感じをいだいて、今はそれに聞き入るばかりであった。」

イリイチの痛みの要因が医師たちの診察によって変化した可能性は低い。しかしながら、イリイチの痛みには、明らかに彼にとって特別重要な意味があった。

この物語はがんで死んだ45歳の弁護士がモデルであったとされている。イリイチの場合がどうだったかについては推測の域を出ない。「医師たちも診断はできなかったのさ。というのはつまり、診断はしたが、まちまちだったという意味さ」とイリイチの同僚は話している。発症から症状の悪化の経過を考えれば、がんの診断は可能だが、物語の中で明らかにされてはいない。診断に依存せずとも、イリイチの生命の危機は十分に描かれている。

「イワン・イリイチは耳をすまし、痛みについての思想を追い払おうとする。が、痛みは平然とその仕事をつづけ、やがてあいつがやって来て、彼の正面に立ちどまり、じっと彼を見つめる。彼は立ちすくんで、目の光も消えてしまう、そこで彼はまたしても、自分にたずねる──ほんとにただあいつだけがほんとうなのだろうか?」

「医者は、彼の肉体上の苦痛は恐るべきものである、と言ったが、それはそのとおりであった。けれども、その肉体上の苦痛より恐ろしいのは、精神上の苦痛であった。そしてそのうちにこそ、彼の苦しみのおもなものはあったのである。」


痛みと病気はイワン・イリイチを、世間から、家族からさえも孤立させた。

「もはや、自分で自分を欺くこともできなかった──なにやら恐ろしい、新しい、いかにも重大な、これまでのイワン・イリイチの生涯には一度もなかったような重大なことが、彼の内部では行なわれていたのである。そして、彼ひとりはそれを知っていたが、周囲の者はだれも理解していなかったか、あるいは理解しようともしないで、世の中のことはすべて従前どおりに動いているものと考えていたかである。」

「イワン・イリイチのおもな苦しみは虚偽であった──なぜか一同に承認されている、彼はただ病気なのであって決して死にかかっているのではないという虚偽、彼はただ落ち着いて治療さえしていればよい、すればきっと非常にいい結果がえられる、こういったたぐいの虚偽であった。」

「彼は、仰向けに寝たまま、すっかり新しく、自分の全生涯を思い返しはじめた。・・・自分自身を見、彼がよって生きてきたところのすべてのものを見た。そしてはっきりと、それはみな違っていたこと、それはみな、生も死をも覆いかくしていた恐ろしい巨大な欺瞞であったことを見てとった。この意識は彼の肉体の苦痛を増大し、十倍にした。」


彼の実存的・精神的次元の痛みは投薬に反応しない。彼はしだいに眠れなくなっていった──彼は阿片をのまされたり、モルヒネを注射されたりした。が、これもいっこう彼を楽にしなかった。

イワン・イリイチに慰めと癒しをもたらしたのは下男のゲラーシムであった。終夜ぶっとおしで主人の足を肩にかつぎ、話し相手になり、主人を安堵させた。

「ゲラーシムひとりが事の真相を理解して、それを隠す必要を認めず、ただただ、病み衰えた主人を哀れんでいることがわかるのだった。一度など、彼はイワン・イリイチが彼をさがらせようとした時に、あけすけにこう言ったことさえあった──“みんないずれは死ぬんでさ、どうして骨折らないでいられますかね?”」

イリイチの痛みは、左脇腹の感覚的な要素以上のものだった。

イリイチの痛みには明らかに感情的な側面があった。そのことは、トルストイの、感情的・心理的・精神的な表現によって、見事に力強く伝えられている。その痛みはモルヒネではなく彼の召使いゲラーシムの人間性によって軽減された。

死に直面したイリイチは、痛みによって、自分がどのように人生を生きたのか(または生きなかったのか)について疑問を抱く。懐疑が彼の苦しみを増大させた。 これは「トータルペイン」として評価できる。イリイチが最終的に彼の痛みとその意味(または無意味)を受け入れたとき、彼は自分自身と和解して死ぬことができた。

1960年代にシシリー・ソンダースが「トータルペイン」を提唱したとき、彼女はその概念を、痛みを抱えた人々の話を聞くことから導き出した。

「トータルペインは、それぞれの患者の物語と切り離せません。したがって、患者の話を聞き、多面的な方法で苦しみの経験を理解することが大切なのです。」

同様の方法で、イワン・イリイチの痛みの物語を、彼の生と死の文脈で理解し「トータルペイン」として評価することが可能である。

イワン・イリッチの死 中村白葉訳 河出書房新社(トルストイ全集 9:後期作品集上)
イワン・イリッチの死 トルストイ 著  米川正夫訳(岩波文庫)
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ  トルストイ著 望月哲男訳(光文社古典新訳文庫)