康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2022年10月号



オープンダイアローグとドストエフスキー

下原康子 

はじめに


今年8月8日、精神科医の中井久夫さんが88年の生涯を終えられました。もう、この世のどこにも中井さんがおられないと思うたびにさびしさがこみあげてきます。

中井さんに会いたくて、ウエブの中に、中井さんの映像や声を探しまわりました。その最中、偶然目にとまったのが、「オープンダイアローグ」という言葉でした。初耳でしたが、瞬間的に、なじみのある「ナカイマジック」点火の予感がしました。

おりしも、精神科医の斎藤環さんの追悼文を拝読してグッときました。「ナカイマジック」は当たっていました。

次のように書かれています。

私が目下啓発に取り組んでいる「オープンダイアローグ」は精神疾患に対する統合的なアプローチだが、その対話実践も「治療」より「ケア」としてなされる。中井先生の著作には、「オープンダイアローグ」の思想に通底する発想が実に多い。中井先生の膨大な仕事から、「対話とケア」にまつわる知恵を継承することを、私は「宿題」として自らに課した。
追悼・中井久夫さん<ケアの時代を予見したひと>斎藤環さん寄稿 毎日新聞 2022年9月4日(日)

今回、わたしのテーマは「オープンダイアローグとドストエフスキー」です。我田引水と思われそうですが、そうありません。オープンダイアローグの主たる理論的柱がロシアの思想家・文藝批評家のミハイル・バフチンが提唱した「対話理論」と「ポリフォニー論」であるという評価は定着しています。このユニークな概念は、バフチンが『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』という本のなかで提唱したものです。「理論」は苦手なわたしですが、ドストエフスキーに関係があるとなれば、スルーできません。にわか勉強ながら、ドストエフスキーの純粋読者の立場から精いっぱいのコメントを試みました。

今回読んだ本
1.『オープンダイアローグとは何か』斎藤環 医学書院 2015
2.セイックラ教授らによる3論文(『オープンダイアローグとは何か』所収)
3.『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環(著)水谷緑(画)医学書院 2021
4.『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』M.バフチン著 新谷敬三郎訳 冬樹社 1968 注:『ドストエフスキーの詩学』M.バフチン著 望月哲男、鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫 1995)は同書の2番目の訳。



1.過去10年間の「オープンダイアローグ」の文献検索(2022.9.10現在)


PubMed
 Open Dialogue  1086件(MeSHタームはPsychotherapy)
 Open Dialogue [Title/Abstract]  322件
医中誌Web
 オープンダイアローグ/AL 348件
 オープンダイアローグ/TH 132件
(医中誌統制語,上位シソーラス用語はナラティブセラピー)
 斎藤環/AL andオープンダイアローグ/AL  78件
図書&特集雑誌
 オープンダイアローグ/AL 66件(BOOKS 出版書誌データベース)


2.「オープンダイアローグ」とは

現在、医療界のみならず幅広い注目を集めている「オープンダイアローグ」については、図書、雑誌、インターネットに数多くの情報があります。

オープンダイアローグ(開かれた対話)とは統合失調症患者への治療的介入の一手法である。北極圏に程近い、フィンランド・西ラップランド地方にあるケロプダス病院のスタッフたちを中心に、1980年代から開発と実践が続けられてきた。現在、この手法が国際的な注目を集めている。その主たる理由は、薬物治療を行わずに、極めて良好な治療成績を上げてきた実績があるからだ。オープンダイアローグの中心人物であるヤーコ・セイックラは、それが「治療プログラム」でなく「哲学」であることを強調している。
“開かれた対話”がもたらす回復(斎藤環)医学界新聞 2014.06.30

セイックラ教授が「哲学」とした理由が以下の説明から推察できます。

オープンダイアローグにおけるミーティングの言語実践は、他の治療技法とははっきり異なる。治療面接の基本となるのは「不確実性への耐性」「対話主義」「ポリフォニー」である。
斎藤環『オープンダイアローグとは何か』医学書院 2015

「対話主義」と「ポリフォニー」は、バフチンがドストエフスキーの芸術家としての独創性を表現するために創出した概念にほかなりません。


3.バフチン『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』


バフチンの『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』はドストエフスキー研究者の間では古典的名著としてたいへん有名です。一般読者でも名前くらいは知っています。わたしの家の本棚にもありましたが、今現在まで数十年間、一度も開かれないままになっていました。実際、読みやすい本とはいえないのです。「オープンダイアローグ」に出会わなかったら、一生、読まずに終わったでしょう。本との出会いは、人との出会いがそうであるように、「運と縁とタイミング」。しみじみそう思います。

さて、ドストエフスキーを持ち出したからには、「オープンダイアローグ ←→ バフチン ←→ ドストエフスキー」という双方向の解説が期待されて当然ですが、純粋読者には無理な注文です。翻訳者の新谷敬三郎先生(研究者には厳しく読者には優しい方でした)のお許しを願って「対話」と「ポリフォニー」に関連する箇所を本書からそのまま引用させていただきます。

★ドストエフスキイの創作の世界の中心にあるのは対話である。


ドストエフスキイの主人公の自己意識はたえず対話化されている。いついかなる時といえども、それは内部に向かい、自分に対して、相手に対して、第三者に対して切迫した呼びかけを行う。自分自身と相手とに対するこの生々しい呼びかけをほかにしては、自分自身にとってすら自己意識は存在しない。この意味においてドストエフスキイの人間とは呼びかけの主体であるといえる。主体について語ることはできない。━ だた呼びかけることだけが可能である。ドストエフスキイは《人間の魂の深奥》の描写を《最高の意味での》自分のリアリズムの主たる課題だと考えていたが、それは切迫した呼びかけによって初めて明らかにされる。内部の人間を冷厳中正な分析の対象にしてしまっては、捉えることも、見ることも、理解することもできない。かといって、それと一体になり感情移入を行っても、やはり捉えることはできない。そうではなくて、それに接近し、それを開示する ━ より正確には、それをしてみずから開示せしめる ━ ためには、それと対話的に交流するより他にない。ドストエフスキイが理解していたように、内部の人間を描くことができるのは、それとひととの交流を描くことだけである。人間を人間との交流、相互作用によって初めて、ひとにも自分自身にも《人間の内なる人間》が開かれる。

★ドストエフスキイはポリフォニイ小説の創始者である。

それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家の意識の光に照らされて展開するが、そこではそれらの世界と等価値の多くの意識たちが、その個性を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる。実際ドストエフスキイの主人公たちは、作者の発想のそもそもから、ただ単に作者の言葉の対象たるにとどまらず、個々それぞれに意味を持った言葉の主体なのだ。主人公の言葉はしたがって、そこでは性格描写とか筋の運びの機能として使われているのでもない。主人公の意識は全く作者とは別な他者の意識だが、同時にそれは対象化されてもいず、閉ざされてもおらず、作者の意識の単なる客体ともなっていない、その意味においてドストエフスキイの主人公は伝統的な小説の主人公のいわゆる客観的な形象とは違う。


4.ドストエフスキーの小説は「オープンダイアローグ」仕様で描かれている!

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』第4章の「オープンダイアローグの5つの柱」を引用したうえで、わたしがドストエフスキーの小説から受ける印象や連想する場面などをコメントしてみます。

第1の柱 対話を続けるだけでいい

対話が安全・安心で自由な場になることが基本。対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、“おまけ” として変化(≒改善、治癒)が起こる。対話を長く続けるために大事な心得は「大事な話ばかりしないこと」である。

ドストエフスキーの小説は入りこむまでにかなりの忍耐を要します。しかし、読了したときのいわく言い難い “おまけ” の実感が、得難い貴重な体験になるのは確かです。ドストエフスキーの小説は対話場面が大半を占めています。モノローグに見える『地下室の手記』でさえ、全編が「内的対話」です。読みながら読者も内的対話に導入されていきます。ドストエフスキーとの対話を長く続けるために大事な心得は「本筋に関係のない登場人物や横道」をも愛でることです。

第2の柱 計画は立てない

いっさいプランを立ててはいけない。予測もしてはいけない。改善が起きるときは、こちらの予測を超えた形で、飛び石的に改善していく。予測は裏切られることが多い。裏切られるとだんだん悲観主義になっていく。治療においては、悲観主義はなんの役にもたたない。圧倒的に楽観主義の方が有利である。

セイックラ教授は「治療者を含む参加者のあいだでなされる感情のやりとりにこそ、ドラマがある」「存在の一回性の出来事、それぞれの瞬間で何が起こっているか、その瞬間瞬間に同調できなければ対話のプロセスは止まってしまう」と述べています。この感覚は、ドストエフスキーと読者の交感のプロセスそのもの。「ドストエフスキーの読み方」をみごとに言い当てています。ドストエフスキーのドラマは「突然に」が乱発されます。読者は、徹頭徹尾「予測を裏切られっぱなし」です。想定外だからこそ、わたしが「親密リアリズム」と名づけた大満足が得られるのです。

第3の柱 個人ではなくチームで行う

チームのいいところは、二者関係という密室から解放されること。転移などの依存関係が非常に起こりにくくなるので、治療者も解放される。すごく楽になる。関係者を巻き込むことによって話題が広がり、対話の継続性も高まる。

ドストエフスキーの人物は単独では意味を持つ現れ方をしません。彼らは絶えず、兄弟、家族、師弟、子どもたち、世間など、ポリフォニックな対話空間の中でその姿を露わにしています。

第4の柱 リフレクティング 患者に治療者を観察してもらう

オープンダイアローグでは、ミーティングの途中で、リフレクティング ━ 治療者同士が椅子の向きを変えて向き合い、患者について話し合う場 ━ を設ける。患者に、治療者の迷いやためらい、治療者間の不一致や対立などを観察してもらうのだ。これが重要なのは、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがあるためでもある。患者の尊厳や知る権利を尊重することで、患者は自分が主体的に判断していいという余裕、余白、スペースを回復していく。

治療者同士の話をうわさ話のように患者に聞かせる「リフレクティング」は、『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などに登場する「第三者の語り手」━ うわさ話やジャーナリズムの役割を担っている ━ を連想させます。ポリフォニー小説の創作方法の一つかもしれません。

第5の柱 ハーモニーではなくポリフォニー

他者は、自分とは決定的に違うし、他者を自分と安易に同一化することは間違っているという認識。これがオープンダイアローグの一貫したテーマである。それをポリフォニー(多声性)という言葉で表している。私たちがこれまで医療現場で行ってきた、説得、尋問、叱咤激励、アドバイスなど、そのほとんどは、ただのモノローグ(独り言)だった。「会話」と「対話」は違う。「合意と同一化を目指す」のが会話。一方、対話は「自分と相手がいかに違っているのかを理解し受け入れる」ためのもの。常に、主観と主観の交換でしかありえないという意識で、「敬意を込めた好奇心」を持って他者の話を聞く。

ドストエフスキーの小説は、本筋とはあまり関係のない小人物たちやエピソードがむやみに多いという理由から敬遠されることがあります。わたし自身も、読み始めたころは、そういう箇所は退屈で読み飛ばしていました。でも、辛抱強く読んでいるうちに、登場人物たちのそれまでとは別の顔が(主人公、小人物にかかわらず)生き生きと現れてくるようになりました。今のわたしは、読み返すたびに、新鮮な驚きの感情で心が満たされるのを感じます。このたび、その理由の一つが「ポリフォニー」に由来することがわかりました。ポリフォニーは「敬意を込めた好奇心」に根ざした「哲学」ではないでしょうか。


5.ケアの達人「私のアリョーシャ」論 

このエッセイは、わたしががん専門病院の患者図書室で司書をしていた2007年に書いたものです。図書室で、患者さんの深刻な話に接したときに感じたとまどいや葛藤、ロボットと化した自分自身に対する不満を解消したいという思いから、お手本探しを始めました。思いついたのが『カラマーゾフの兄弟』の末っ子アリョーシャでした。「オープンダイアローグ」を知った今なら、アリョーシャを「ケアの達人」よりも「「オープンダイアローグの御用聞き」にしたでしょう。これならば、お手本にしやすく、あれこれ悩まずに、セイックラ先生が言われたように「今まさに苦悩のただなかにある人とのコミュニケーションに細心の注意を払う」ことに集中できたかもしれません。


おわりに

「オープンダイアローグ」はバフチンを知らなくても理解できます。また、ドストエフスキーはバフチン抜きでもおもしろく読めます。わたしに限っていえば、バフチンつながりの相乗効果によって思いがけないプレゼントがもたらされました。一つは「オープンダイアローグ」に対する興味と関心が広がったこと。もう一つは「ドストエフスキーと医学」に新たなトピックが加わったことです。きっかけは中井久夫さんでした。ご著作を読み続けたいと思います。