康子の小窓 読書日記


ダニエル・デフォー『ペスト』を読む ─新型コロナ禍のさなかに
追記:与謝野晶子のことば



下原康子


新型コロナ体験を無駄にしたくない、そう考える人は多いだろう。私の場合は、とりあえず、@毎日の検温で自分の平熱を知ったこと。Aエレベーターをやめ階段を使うのが習慣になったこと。B布マスクを送って友人との交流ができたこと、などだが、現時点でNo.1の収穫はダニエル・デフォーの『ペスト』(平井正穂訳 中公文庫 1973)に出会えたことだ。

皮肉なことだが、この本を読むきっかけは公共図書館の貸出休止だった。当座読む本を切らして、しかたなく、家の本棚を物色していたら古ぼけた文庫本のタイトルが目に飛び込んできた。「ペスト」とある。てっきり、カミュ『ペスト』だと思って喜んだが、デフォーの『ペスト』であった。買い求めたことは確かだが読んだ覚えがない。こんな折でもなかったらまず読むことはなかっただろう。ところが、この本が忘れられない一冊になった。17世紀ロンドンの人々の悲劇をこれほど身につまされて読むことになるとは思ってもみなかった。

感染症に根ざす人間の恐怖と不安やそれによって引き起こされる混乱は、21世紀の現代にあっても、17世紀のころとさほど変わらない。まさに今それを実感している。一方で、グローバル化がウイルス拡散につながっていることをまざまざと思い知らされてもいる。しかし、パンデミックと闘うための武器もまたグローバリズムがつなぐ情報であり、世界の協力が必須なのだ。デフォーと新型コロナによって、グローバリズムについて真剣に考えるきっかけをもらった。これが一番の収穫かもしれない。

訳者の平井正穂氏の解説によれば、デフォー(1660-1731)は生粋のロンドンっ子。『ロビンソン・クルーソー』で有名になったが、本来はジャーナリストだ。独力で市民に向けた週刊紙を一人で9年間発行していた。59歳のとき、実在の人物をモデルにしたともいわれる(異論もある)『ロビンソン・クルーソー』の大成功により人心をつかむ小説という手法に目ざめた。以後、『モル・フランダース』などの小説によって後世に名を残した。

『ペスト』の出版は1722年である。1720年にマルセイユでペスト流行というニュースが伝えられ、ロンドン当局は驚愕した。1665年のペスト流行の大惨事の記憶がまだ生々しかったからだ。当時デフォーは5歳だったが、成長してから馬具商人だった叔父Henry Foeから詳細にわたって話を聞いていた。あのような悲劇が二度と繰り返されてはならない、そう思ったデフォーは、1722年にパンフレット「魂と肉体を保つための対策論」を公けにした。1665年のペストに関する文献や記録を可能な限り調べ上げて対策を論じたものだった。その一か月後に、匿名で出版したのが小説『ペスト』(原題『ペスト年代記』)である。

物語の語り手は17世紀のロンドンの一市民、馬具商を営むH.F.という人物である。叔父がモデルのようだが、明らかにデフォーの分身である。彼はペストを肉体の病気としてとらえ、あくまでその事実──感染の拡大や病状、社会の混乱や人々のパニックなどを、時間の経過を追いながら、自らの心情には深入りせず、具体的で平易な文章で語っている。ヴァージニア・ウルフはデフォーを「事実を描く天才」と称したそうだが、いかにもとうなずける。目立つのは資料と数字に基づいた詳細な記述である。小説にはなじみにくいこの即物的記述が、新型コロナの感染者数・死亡者数などの数字に縛られ、自粛を強いられている状況にあっては、妙に生々しく迫真性に富む。

ロンドンのペスト大流行は1665年から1666年にかけておこった。1664年9月ごろオランダでまたペストがはやりだしたという噂が流れる。その年の11月、ロンドン市外の端の区画で2名の死者が出た。1665年5月になるとペストは市中に蔓延し、6月には死亡数が膨れ上がった。国王、宮廷、貴族、富裕な市民は一族郎党引き連れて郊外に逃れた。留まった者の多くは貧しい一般大衆だった。あらゆる商売は止まり雇用は停止した。製造業、運送業、建築業、海運業は干上がった。当時はペストの原因も伝藩の仕方も不明だった。むろん、検査・治療・予防(ワクチン)などなく、医学に関しては現代と比べるべくもない。しかしながら、今も昔も、感染伝藩防止のイの一番は隔離政策である。この点は現在においても大きな進展はない。

1665年6月。ロンドン市長は公衆を鎮めるために次の決意表明を行った。
「われらはロンドン市を離れず、その秩序を守り、あらゆる場合における公正な処置をとるべく常に待機の姿勢にあるものである。われらはまた生活困窮者に対する救援に努力せんとするものである。市民各位によってわれらに課せられた義務を果たし、その寄せられた信頼に報いるために全力を尽くす所存である。」

同時に、蔓延を止めるための法令を発布した。おそらく全文らしきものが載っているが、現在のコロナ対策にも通用する箇所が少なくない。具体的でわかりやすい。以下、項目のみ転載する。

悪疫流行に関するロンドン市長ならびに市参事会の布告。(1665年6月)

[職務に関する法令]

1.検察員は各教区ごとに任命さるべきこと
2.検察員の職務
3.監視人
4.調査員
5.外科医
6.付添看護婦

感染家屋および患者に関する法令

1.病気について報告提出のこと
2.患者の隔離
3.家具類の空気消毒
4.感染家屋の閉鎖
5.感染家屋よりの転出禁止その他について
6.死者の埋葬
7.病毒に感染せる家具の持ち出し禁止
8.感染家屋より患者の移送を禁ずること
9.すべての感染家屋には標識をつけること
10.すべての感染家屋は監視さるべきこと

街路清掃に関する法令

1.街路はつねに清潔にしておくべきこと
2.掃除人夫は塵芥を各家庭から集めること
3.塵芥捨場は市より遠距離たるべきこと
4.不潔なる魚肉、および黴たる穀物に注意すべきこと

放蕩無頼の徒および有害無益な集会に関する法令

1.乞食
2.芝居
3.宴会禁止
4.酒楼


今も昔も隔離政策が最も重要でかつ困難な課題である。21世紀の現在は「ステイホーム」「ロックダウン」だが、17世紀ロンドンでは「感染家屋の閉鎖」だった。患者発生の家を家人ごと一か月間の閉鎖を強制するという非情な処置である。仕事を失った貧乏人や女中たちが監視人や付添看護婦として雇用された。この政策は人々の激しい反発をかった。閉鎖された家でどのような異常なできごとが起こっていたか、本当のところは誰にもわかりようがなかったが、語り手は、可能な限りさまざまに異なる一人一人の悲惨を見聞きし、これでもかというほど繰り返し語っている。

結局、閉鎖の効果は当初だけで、8、9月の感染拡大の絶頂期には、通りの家のほとんどが感染してからっぽになり、閉鎖も意味をなさなくなっていた。語り手は後の考察に資するためにと、この政策が失敗した要因をさまざまに分析している。@検察官への報告義務は守られなかった。A家人はあらゆる術策を用いて家を出入りし感染を広げた。B家人と監視人や付添看護師との間でトラブルが絶えなかった。しかし、根本的な失敗の原因は別にあった。それは感染の経路をたどるのが不可能だったことである。

語り手は、ペストにおいては人から人へ、家から家へと広がる以外の感染経路はありえないとはっきりことわった上で、次のように主張している。感染は病人からよりむしろ実際には感染しているが何の徴候もなく、自分でも気づいていない人から広がった。食料品の買い出しに出た多く使用人が病気を持ち帰っていた。家屋を閉鎖したらその一家の全滅は必至だ。それより、健康人を病人から引き離す方が合理的で本人のためでもある。隔離は20〜30日があれば十分だが、隔離のための特別な場所が用意される必要がある。当時のロンドンは感染絶頂期でも二つの避病院(ペスト・ハウス)しかなかったが、もし、1000人の患者を収容できるペスト・ハウスが数個できていたら、隔離が効果を上げて莫大な死者を出さずにすんだであろう。

パニックになった人々の数多くの愚行や悲劇も見逃せない部分だ。疫病を商売にするあやしい輩が次々と現われた。インチキ占い師、インチキ宗教家、インチキ医者、インチキ薬、インチキ本。自暴自棄になった人々の間では、強盗、強奪、殺人、自殺が増えた。ロンドンから逃れようとする市民と近隣の村の住民との対立も深刻で後々まで遺恨を残した。一方で、死を目前にして、宗教的分裂の融和という、つかの間の奇跡が実現した。人々は宗派が違う牧師の説教であっても喜んで耳を傾けた。(病気の恐怖が去るとたちまち元の木阿弥にもどったが)。疫病流行の全期間を通して教会が閉鎖されることはなかった。祈りしかなすすべがなかったのだ。

公平な語り手は、人々の悲惨を語る一方で、自分の命を犠牲にして必死の努力を払った医師たち、ロンドンの秩序を維持するために献身的に奮闘した市長はじめ役人たち、莫大な義援金で長期的に市民を飢餓から救った国王、貴族、イギリス全土の篤志家たちのことを伝えている。市場ではパンや石炭がなくなることはなく値段の高騰もなかった。大きな暴動は起こらなかった。ペストがもっとも猛威をふるった時期でさえ、昼間に死体が街頭に放置されることはなかった。

語り手は、将来、ロンドンに同じような感染流行が起こったときの対策プランを提案している。最良の方法はいち早く逃げ出すことである。当局者は市民をいくつかの小グループに分け、時期を失せず、互いに離れ離れに疎開させる。肝心なのは乞食、貧乏人など特に問題を起こしやすい人々に対して彼らの利益をよく考えた上で処置をすませることである。富裕な市民は召使やその家族の処置をすませて、疎開がスムーズに運ぶようにする。残留する市民はもとの十分の一を超えないようにする。分散して居住すれば防衛も行き届き感染拡大も小規模にくい止められる。しかし、避難の時期を逸すると、かえって疎開先に感染を広げかねない。感染をくい止める最善の処置が感染を拡大させる結果にならないように、行動はスピードを要する。

9月まではロンドンに残ることは死ぬことと同じだった。ところが、10月には突如としてペストの勢いは衰え始めた。語り手は、猛威は自ら衰えていった、その悪性が減じていった、と表現している。死者数が激減し始めた。せっかちなロンドン市民がもどり、再び大勢が感染して死亡者の増加を見たが、以前と違って回復する患者が増えた。医者たちは回復が何にもとづくものかわからなかった。万人が神のみ業を信じた。かくしてロンドンのペストは終息した。46万のロンドン市民のうち約7万5000人が死亡したとされる。(狂乱のはてに自殺した人やロンドンを脱出して野垂れ死にした人の数は含まれない)。


デフォーは、21世紀の未来に、はるか極東の国で自分の書いた『ペスト』が読まれることを想像しえただろうか。「デフォーさん、ありがとう」と私は伝えたい。

参 考
小酒井不木:デ・フォーの「倫敦疫病日誌」 (奈落の井戸 ・小酒井不木研究サイト)


追記:与謝野晶子のことば(2020年5月19日)

歴史学者の磯田道史さんが、出演したテレビ番組のなかで与謝野晶子を紹介されていました。
(BS1スペシャル「ウイルスVS人類3 スペイン風邪 100年前の教訓」5月12日)
1918年から1920年に流行したスペインかぜで与謝野晶子の一家全員が感染します。子どもの一人(11人の子持ちでした!)が小学校で感染したのがきっかけでした。晶子はこの体験を「感冒の床から」と題した論評記事に書き、そのなかで政府を痛烈に批判しています。

「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」 
「そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同等の事を子供達に注意しているのです」
(1918年11月10日付横浜貿易新聞、現在の神奈川新聞)

微塵たりともゆるがない「君死に給うことなかれ」の気骨に改めて目を覚まされた思いでした。
テレビ番組の最後の画面に(典拠は不明ですが)次の晶子のことばが流れました。

「私たちは今、この生命の不安な流行病の時節に、何よりも人事を尽くして天命を待とうと思います。『人事を尽くす』ことが人生の目的でなければなりません。私たちはあくまでも「生」の旗を押し立てながら、この自然な死に対して自己を衛ることに聡明でありたいと思います。」

晶子のいう「人事を尽くす」は、カミュ『ペスト』で描かれた、ペスト(死)と闘うために街に残った、リウー医師やタルーたち保健隊の「抵抗」と響きあいます。それはまた、現在、新型コロナ禍のなかの私たちに、「今、やるべきこと」を考えさせます。