康子の小窓



『読書の歴史』新版に寄せて  アルベルト・マングェル

読むというこの神秘的な行為の定義は何か。《読む人》となるということはどういうことか。
 

知性に親切であった時代がこれまで一度としてあったでしょうか。古今東西を通じ、知の営みが私たちに残してくれた輝かしい作品群は、そのいずれも悲惨な事件を伴わないものはありません。ペリクレスの時代は奴隷制度や外国人、女性の抑圧の上に成り立っていましたし、孔子は長く続いた周王朝の末期、中国全土を巻き込んだ血みどろの戦国時代の只中で瞑想していました。セルバンテスは民族浄化が進むスペインでドン・キホーテを書き、ドストエフスキーはシベリアの牢獄の中で長大な小説を準備しました。そしてカフカは、ナチスが台頭してくる時代にあの輝かしい悪夢を夢見たのでした。粘土板に文字を刻んだ太古の時代から電子掲示板が点滅する今日にいたるまで、いつの時代にも優れた《読む人》たちはその解釈や読み直しを通して、文学に不死の栄誉を与えてきました。そしてまた、いつの時代にもそうした解釈を封じ込め、書物に新しい命が宿るのを妨げる者もいるのです。

現代においても、ダンテの言うあの牝狼──貪欲の比喩です──の途上に出会うあらゆるものを食い尽くします。すべての芸術作品や知的創造物、私たちの子孫やこの地球全体の未来をも食い尽くしてしまうのです。狼は本が売り買いの対象になることに気がつき、出版産業を安物を売るスーパーマーケットに作り替えようとしてきました。少しでも儲けようと、芸術のみならず科学の分野でも重要な、純粋な想像力を培うべき社会組織や図書館、美術館や劇場、自由な思想の学校や大学をも押さえつけたのです。そして、美的、倫理的、道徳的価値観を、商業的な価値観にすり替えようとしてきました。神殿から商人を追い払うキリストの教えは、今日、これまで以上に必要とされています。今再び彼らを追い払わなければなりません。しかし、力ずくでそれを達成しようというのではありません。私たちは、驚きに満ちた宇宙に名前をつけることを覚えた文明の揺藍期に、《読む》という能力を苦労して獲得しました。この能力を活かすことによって、狼を追い払うことができるのです。読むことは理性的に思考すること、問いを問うこと、そしてよりよい世界を創造することへとつながります。読書はその意味において体制をくつがえす行為であり、それによって、私たちを窒息させようと脅かす貪欲や愚かさの潮流に抵抗することができるのです。洪水の脅威を前にして、一冊の本は一彼の方舟だと言えるでしょう。

さて、読むというこの神秘的な行為の定義は何でしょうか。《読む人》となるということはどういうことなのでしょうか。本書はこの問いについて検証する試みです。

私が『読書の歴史』最終章を書き終えて(いや、途中で投げ出しかと言うべきかもしれません)、すでに十五年以上の歳月が経ってしまいました。最終章で私は、私に課せられたこの本を書くという仕事がいかに難しいかということを告白しました。そしてむしろ、何か別の本─―私か決して書くことのない、野心的で、その混沌とした輝きの中で、真の「読書の歴史」が語られる夢の本―─を思い浮かべていました。それからというもの、私はこの未完の本につけ加えてもたいした意味のないことを、随筆や記事、序文、評論といった形で書いてきました。それらは明らかに終わりのないとわかっている仕事を完成させるふりにしかなりませんでした。

私が信じているように、もし人間が本質的に読む生き物であり、その一番の目的が私たちを取り巻く宇宙を認識し、読み解くための言語を獲得することであるならば、読み解いたことを伝えようとする欲望は、私たちの日々の存在を語り、森羅万象に意味を見出し、私たち自身のことをもっとよく知りたいと日々願うことにほかなりません。言うまでもなく、そのような目標を掲げるのに、この五百ページほどの本──あるいはどんな本でも同じですが──は十分ではありません。私は、この未完の『読書の歴史』を読み、読書という骨の折れる、しかし幸せな恵みを他の人だちと分かち合いたいと思ってくれる、たったひとりの読者から感謝の言葉を聞くことができたら、それだけで満足なのです。

本の運命はいつも神秘的です。その作者にとってはなおさらです。私は『読書の歴史』を書いたことによって、私とはまったく違った状況にありながら、私と同じ体験をし、同じ入門の儀式をし、同じ啓示を受け、それを追求している、多くの読者たちのコミュニティーが世界中に広がっていることを知りました。読者としての私たちに備わる能力は普遍的であるというのは真実なのです。そしてまたそのことは、世界中どこへいっても恐れられています。なぜなら、読書は従順な市民を不正が貧困、権力者の横暴な振舞いに立ち向かうことができる理性的な人格へと変えるからです。そうした人々が立ち上がるとき、私たちの社会は彼らを狂人、あるいは精神病患者──たとえばドン・キホーテあるいはボヴァリー夫人──、魔女あるいは人間嫌い─プロスペロー、あるいはペーター・キーン──、反体制派あるいは知識人──キャプテン・ニモあるいはファウスト博士──などと呼びます。今日《知識人》という言葉は軽蔑のニュアンスさえ含むようになっています。

少なくとも六千年前、今では忘れられてしまったメソポタミアという所で文字が発明されてからまだ何世紀も経たない頃、(本編にも登場しますが)言葉を読み解くことのできる数少ない者たちは写字生であり、《読む人》ではありませんでした。おそらく彼らが握っていた権力の大きさを強調し過ぎないためだったのでしょう。《読む人》は人類の記憶のアーカイブに立ち入り、過去から私たちの経験の声を取り戻す力を持っていました。当然ながら、《読む人》の力はさまざまな恐怖を煽りました。ページに記された過去からのメッセージを復元することのできる魔術への恐れ、《読む人》と本との間にできた秘密の空間、そしてそこに生まれる思考への恐れ、文章に基づいて世界を定義し直し、そこにある不正に抵抗する能力を持つ個人に対する恐れ……。本を読む私たちにはこうした奇跡を起こす力があるのです。それらの奇跡はきっと、屈辱や愚かさといった、私たちが科せられている罰から私たちを救い出してくれるでしょう。

しかし、私たちは陳腐で安易なことにそそのかされ、読書を中断する娯楽を発明してしまいます。そして、貪欲な消費者と化し、新しいものだけに関心を持って過去の記憶には目もくれなくなってしまうのです。もはや知的行為は権威を奪われ、つまらない行いや金儲けの野望に取って代わられます。読書の心地よい面倒くささや親しみのある遅さに敵対する娯楽や即時的な慰み、そして世界を結ぶ無線通信の幻想といったものが作り出されてきました。印刷に代わる新しいテクノロジーが出現し、時間と空間に根を張った紙とインクの図書館を、無限に広がる情報のネットワークに取り代えようとしているのです。その最大の特徴は即時性と無限性にあり、また印刷された文章としての本が終焉し──ビル・ゲイツが「紙のない社会」について書いた本を読んでみてください。ただし、もちろんそれも紙で出版されてはいますが──そしてそれがバーチャルなテキストとして復活すると言っています。まるで人間の想像力に限りがあるかのように、そして新しいテクノロジーが既存のものを終わらせずにはおかないとでもいうように。

この最後の恐怖は新しいものではありません。十五世紀末のパリの空にそびえる鐘楼の下で、カジモドは修道院の僧房に身を隠します。そこは書斎であると同時に錬金術の実験室として使われていました。クロード・フロロ副司祭は机の上に置かれていた本に片方の手を伸ばし、もう片方の手で窓の外にぼんやりと見えるノートルダム大聖堂のゴシック様式の外壁を指さしました。ヴィクトル・ユーゴーはこの不幸な司祭にこう言わせました。「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」と。グーテンベルクと同時代人であるフロロは、印刷された本は建物を終わらせる、つまり、そのひとつひとつが読むべきテキストである柱や丸屋根、回廊など、知識の詰まった中世の建築が、印刷によって終わってしまうのではないかと思ったのです。

当時のフロロの目に映ったその対立が誤りだったように、今日の対立もまた間違っています。あれから五世紀が経った今でも、印刷された本のおかげで私たちは中世の建築家の作品を記憶していることができるではありませんか。ヴィオレルデュックとリュスキンが解説し、コルビュジエやフランク・ゲーリーが改革する……フロロは、新しいテクノロジーが古い技術を駆逐すると考え、私たちの創造力が無限であること、新しい手段を受け入れる余裕もあることを忘れていました。人間には野心が備わっているのです。

今日の電子テクノロジーを印刷技術とは相容れないものと考えてしまうと、フロロと同じ轍を踏むことになります。そういう人たちは、本が読むことに最も適していて、車輪やナイフのように完璧なものであり、私たちの記憶や体験を保存することができ、手におさまる大きさなのにインタラクティブな性質を持ち、テキストのどこから読み始めて、どこで読み終えてもいいし、余白に書き込みができ、自分の好きなペースで読むこともできる……その本が、読書に要求されるのとは違った特徴を待った別の手段に取って代わられるべきだと、私たちに信じ込ませようとしているのです。

Power Bookの広告が「思考よりも速い」とうたっているように、電子テクノロジーは表面的であり、私たち自身の記憶や理解を介さずに、無限量のデータにアクセスすることを可能にします。従来の読書はゆっくりで深く、私的であり、考えることを要求します。電子技術は、情報検索や会話、通信には非常に効率のいいものであることは間違いありません。しかし、一点の文学作品をじっくり読むという、それ特有の時則と空間が必要な行為においてはそうではありません。これら二つの《読む》ことの間に敵対関係はありません。なぜなら二つは異なる領域の行為だからです。理想では、コンピュータと本は、私たちの書斎の机の上に隣り合わせに並ぶべきなのでしょう。

脅威はそれとは別なところにあります。私たちひとりひとりが責任をもってテクノロジーを使えば、それは道具となり、ニーズに応じて効率よく働いてくれるでしょう。しかし、経済的な理由から私たちがそのテクノロジーを強制されるとき、あるいは多国籍企業が、技術は私たちの生活のあらゆる瞬間において必要不可欠なものであると思い込ませようとするとき、私たちの方がテクノロジーの道具と化してしまう危険性があります。子どもたちが勉強するのに本ではなく、コンピュータが必要だというとき、大人たちの娯楽にはコンピュータゲームが欠かせないというとき、私たちがその理由も目的もはっきりとはわからないまま、全てに電子テクノロジーを使わなければならないという義務感を感じるとき……テクノロジーに使われているのは私だちなのではないでしょうか。本来はその逆であるべきなのに。

この罠についてはすでに紀元一世紀にセネカが言及しています。セネカはこう言っています。本(現代なら電子情報)をたくさん貯めこむことと教養とは違うものだ、と。本は、電子ネットワークと同様、私たちに代わって思考してくれるわけでもなければ、脳の記憶に取って代わるわけでもありません。それは単に私たちの仕事の補助のための道具や手段に過ぎないのです。セネカの時代の大きな図書館は、今日のバーチャルな図書館と同様、それ自体は動きのない単なるものであって、それだけでは充分ではありません。情報が命を得るには私たち人間の意志、思考、そして理性が必要なのです。愚にもつかないものを消費し、硬直した世界から逃れるために愚かになることがいいといわれる時代に、私たち読者は、巧妙な出版社や編集者のふりをする商売人たちが作った本物の本らしく見える印刷物や、何のこだわりもない企業を後ろ盾に、金銭的な野心を待った技術者たちによって作られた現実の体験をシミュレートする電子製品に、しばしばそそのかされてしまいます。彼らの提供する道具が、それ自体で成立すると思い込まされてしまうのです。まるで、私たちではなく道具こそが、歴史の真の継承者であるかのように。

でもそうではありません。私たち人間こそが、私たちの未来を作り出すことのできる唯一の職人なのです。ほぼすべての産業──それは新しいテクノロジーに限りませんが、強欲でとどまることを知らない過剰な開発、過剰な消費、過剰な生産、そして無限の成長によって脅かされているような世界。そんな現代において、一冊の本(あるいはカテドラル)へ穏やかな敬意を払うことで、もしかしたら私たちは立ち止って内省し、誤った選択肢やばかばかしい楽園の約束を越えることができるかも知れません。そして、実際にどんな危険が私たちを脅かし、私たちが持っている武器がいったい何なのかを自らに問いただすことができるかも知れません。おそらくその問いこそが、読書という技法の正当性なのかも知れないのです。
アルベルト・マングェル(原文スペイン語、川口隆夫訳)


【書名】読書の歴史:あるいは読者の歴史
【著者】アルベルト・マングェル
【訳者】原田範行
【刊行】1999年09月30日
【出版】柏書房,東京
【叢書】叢書Laurus
【頁数】354+38 pp.
【価格】3,800円(本体価格)
【ISBN】4-7601-1806-3
【原書】Alberto Manguel 1996.?A History of Reading. Harper Collins, London.

【目次】

『読書の歴史』新版に寄せて
読書の意味――訳者はしがきに代えて 5
最後のページ 13
〈読書すること〉
1. 陰影を読む 41
2. 黙読する人々 55
3. 記憶の書 70
4. 文字を読む術 82
5. 失われた第一ページ 101
6. 絵を読む 112
7. 読み聞かせ 127
8. 書物の形態 144
9. 一人で本を読むこと 171
10. 読者の隠喩 186
〈読者の力〉
1. 起源 201
2. 宇宙を創る人々 210
3. 未来を読む 224
4. 象徴的な読者 236
5. 壁に囲まれた読者 249
6. 書物泥棒 262
7. 朗読者としての作者 271
8. 読者としての翻訳者 285
9. 禁じられた読書 303
10. 書物馬鹿 316
見返しのページ 333
訳者あとがき 349
原注 [15-38]
図版一覧 [13-14]
索引 [1-12]