ある医学図書館員の軌跡
東邦大学医学メディアセンターニュース No.388 2006.3



文献検索と出会いの数々  国内医学文献情報データベースの無料公開を願って

下原康子


1974年9月、東邦大学に職を得てから、大橋病院図書室に2年8ケ月、医学部図書館(大森)に14年4ケ月、佐倉病院図書室に14年6ケ月。通算31年6ケ月を図書館司書として勤めさせていただきました。本館のスタッフや関係者の皆さま、利用者の皆さまに助けていただきながら大過なく勤務を終えることができそうです。この場を借りて御礼申し上げます。

さて、医学図書館に勤め図書館のイメージが変わりました。それまでなじんでいたのは「読みたい本をみつける場所」でしたが、医学図書館は「知りたいことを調べる場所」でした。最初のころは、医学情報を調べるのは医療関係者だけかと思っていました。けれど、私自身や家族が病気になり、知りたいこと調べたいことが次々と出てきました。その要求を満たす宝の山が目の前にありました。その都度、医学図書館員という役得を最大限に活用して自分自身にサービスを提供したものです。その職権乱用のいくつかをここにご披露してみたいと思います。

文献検索で不安と無力感を克服

初めて文献検索をしたのは長男の妊娠がわかったときでした。妊娠を喜ぶ一方で、私には口唇口蓋裂という先天異常があるため、生まれる子どもに遺伝するのではないかとそれが心配でした。「危険度を調べましょうか」と言ってくださった医師に、生意気にも「自分で調べます」と答えたものです。

1977年当時、私は大森の医学部図書館に勤務していました。オンライン文献検索の導入(1979年)以前のことで、文献検索と言えば冊子体の医学中央雑誌、Index Medicus、Excerpta Medicaがもっぱらでした。私が得た結論は「遺伝の発現頻度は10%」というもの。その典拠も根拠も記憶にありませんが「90%は大丈夫」と置き換えて安心を得たのでした。

早産で生まれた息子はお地蔵さまのようにかわいい顔をしていました。しかしながら目には見えない異常がありました。「好中球減少症」と告げられました。さっそく本や文献を調べましたが、理解が浅いため、重篤な血液疾患に関連のある病気(いつか発症するかもしれない)というあやふやな印象に支配され、その後の数年間は不安を抱えて過ごすことになりました。その後の経過から息子は「慢性良性好中球減少症」とわかり、幼いころ軽い喘息があった以外は病気もせず今日に至っています。なまじ文献などを読んだおかげでかえって不安を掻き立てられた、と言えなくもありません。けれど、あの時、先が見えない不安と何もできない無力感を克服できたのは文献検索ができたおかげです。 

また、そのころ出会った『君と白血病』(Lynn S.Baker著 細谷亮太訳 医学書院 1982)という本からも勇気をもらいました。今やこの本は「患者さんのための本」の古典として有名です。その後、口唇口蓋裂の手術が保険適応になっていることをかかりつけの歯科医から聞きました。さっそく文献検索で調べ、佐倉病院への異動を前に特殊外来のあったS大に入院し手術を受け、満足な結果を得ました。

ドストエフスキーと臨死体験 −立花隆氏から文献検索依頼

1991年、佐倉病院に移ったころ、インターネットが普及の狼煙を上げ、司書のツールが本からパソコンへと不可逆的変化を兆し始めていました。佐倉図書室ではパソコンと格闘の毎日が続いていました。本の匂いが恋しくなり当初ガラガラだった図書室の書架に自宅の古本を持ってきて並べたりしました。

1993年のある日、MEDLINEのシソーラス(MeSH)の中にMedicine in Literatureという用語を見つけました。試しに検索してみたらシェークスピア、チェーホフ、ゲーテなどに混じって私の好きなドストエフスキーも8件みつかりました。そのほとんどがこの作家のてんかんに関する論文でした。純粋な興味だけから医学論文(しかも英語)を読んだのはこの時が初めてです。辞書や参考資料が身近にあったので、無謀にもそれらの翻訳をボチボチ始め、現在も続行中です。

1994年、文芸春秋(図書室購読)で立花隆氏が「臨死体験」の連載を始めました。その中で側頭葉てんかんの人の神的体験と臨死体験の類似が指摘されていました。ドストエフスキーも側頭葉てんかんであったと言われており、『白痴』『悪霊』などの主要な作品で登場人物の発作を描いたり神的体験を語らせたりしています。立花氏もそのことに触れてはいたのですが、医学文献を発見してテンションが上がっている私にはもの足りない記述でした。

テンションの命じるままに「医学文献の中ではドストエフスキーてんかんという名称で既に認知されているのでは?」といった内容の手紙とくだんの論文のコピーを文芸春秋に送りました。しばらくして私家本と秘書の方からのお礼の手紙が届きました。これまで、と思っていたら、週刊誌の記者から突然の電話を受けました。要件は「立花氏が麻原彰晃とメシア・コンプレックスという講演をするので関連文献を調べて欲しい」というものでした。MEDLINEのインターネット無料公開は1997年のことです。それまでMEDLINEは医学図書館の目玉商品であり続けていました。さすがの立花氏も当時はアクセスが不自由だったのでしょうか。それはともかく、私にとっては思いがけない嬉しい展開でした。検索テーマも興味深々。大はりきりで検索に取り組んだことをなつかしく思い出します。

文献検索で病院・医師選び

私自身、佐倉病院に2回入院しました。急性肝炎(1992.10)と乳がん(1995.6)です。病院の様々な職種の皆さまにお世話になりました。この時の体験は前に書きましたが、私が治療に疑問を抱いたり疑心暗鬼になることなく幸せな患者でいられたのは、スタッフの皆さまの対応もさることながら、いざとなれば自力で調べ、自ら決定できるという保証を持っていたからです。その保証というのが文献検索でした。

文献検索から得られる情報や知識はもちろん有益です。けれどそれ以上に私にとって貴重だったのはその病気に詳しい医療者にコンタクトをとるきっかけが得られたことでした。急性肝炎のときは薬物性肝炎に詳しい医師に手紙で質問をして丁寧な返事をもらったことが確定診断に繋がりました。

母がパーキンソン病と言われたときは、インターネットで実家に近い専門医をみつけて診察をお願いしました。長年服用していた胃腸薬の副作用によるものでした。母は脊柱菅狭窄症も辛くなっていましたが、幸運にも近くの国立病院の医師が論文を書いていました。初診日に母はその医師に娘から送られてきた、と言って論文のコピーを差し出しました。

「病気についての情報とご近所の名医の情報が欲しい」と言ってきた友人がいました。最初の要望は文献検索ですぐに応えられました。名医については認定医が公開されている学会のホームページを紹介してお茶を濁しました。折り返し届いたメールの文面は弾んでいました。「文献リストの中に近所の病院で診て貰ったことのある医師の名前をみつけた」というのです。自分の目で確認したことが友人の気分を大きく好転させました。病院で教えられた食事療法に満足できない友人に栄養士向けに書かれた論文を提供して喜ばれたこともあります。私に限らず、このような体験を持つ同業者は少なくないことでしょう。

国内医学文献データベースの無料公開を願う

文献検索について一般の人は「出来たとしても一般の人は医学の専門知識がないから理解できないだろう」と言います。先に述べた私の例を見れば、必要に迫られて行ったこれらの文献検索の多くが知識よりも病院・医師探しを目的としていたことは明らかです。また、医療関係者は「日本語で書かれた論文で信頼できるものはとても少ない」と言います。そうかもしれません。とは言え、現在、医療者が文献検索で最も多く利用しているのが国内医学文献データベースです。医学は常に発展途上です。それが現在の日本の医療レベルならば、そのままを国民に公開すべきではないでしょうか。必要な時はいつでも同じ情報を医療者と共有できるという保証を与えることこそが、本気の情報公開と言えるのではないでしょうか。

退職後はこれまでのように自由に思う存分文献検索をすることはできなくなります。頼りになる親友と別れるような心細い気持です。現在、インターネットで提供されている国内医学文献データベースは2つ
です。いずれも個人ユーザー向けサービス(有料)も提供されています。しかしながら、私はPubMedのような無料公開の実現を願わずにはいられません。