ある医学図書館員の軌跡
(公開:2016.12.19)



白内障手術の落とし穴  夫が書いた妻の症例報告

筆者 T.S.  資料提供 Y.S.


はじめに

この報告は筆者である夫(T.S.)が書いた妻(Y.S.)の症例報告である。筆者(夫)は医療に関係のない一般人である。しかし、白内障手術をきっかけに生じた不ぐわいに対する妻Y.S.の切実な訴えに耳を傾けながら、症状にともなって日を追って悪化するY.S.の精神状態を詳細に観察する立場にあった。手術の成果を実感できず、かえって不ぐわいが生じたY.S.のような患者は「白内障術後不適応症候群」と呼ばれることがある。しかし、それはY.S.にとって受け入れがたい「病名」であった。ここでは、Y.S.がセカンドオピニオンを経て「輻輳不全」という原因にたどりつくまでの経緯をY.S.が作成していた記録「白内障手術覚書」にそって述べる。何分にも筆者は一般人であり、元医学図書館員とはいえY.S.も同様である。理解や解釈の誤りについての指摘および意見・アドバイスを歓迎する。

症 例

患者: Y.S.  70歳 女性 
家族: 現在は夫と二人ぐらし、週に2〜3回程度の孫の子守がルーチン
学歴: 司書を養成する短期大学卒
職歴: 短大卒業後から67歳まで一貫して司書として働く(主として医学図書館)
性格: 責任感が強くまじめ。思い込みが強く人を信じやすい一方で評価を極端に上げたり下げたりする傾向がある。関心のあるものには熱中する。一見、しっかりした人のように見られているが、夫から見ると子供のような気質である。
趣味: 読書と手芸
病歴: 薬物性急性肝炎(46歳) 乳がん(49歳)

現病歴 

A病院受診

2016年6月1日
 
 
受診理由:
40代から近視で離れた人の顔や表示などはよく見えなかったが、車の運転はしないので、日常生活に支障を感じるほどではなかった。最近になって、趣味の読書と手芸に不便を感じるようになった。昼間は裸眼で新聞も読めるが、夜の読書では老眼鏡をかけても文字がぼやけるようになった。5〜6年前、軽い目のトラブルで近医にかかったとき、白内障を指摘されていたので、その症状が進んだのだと思い、70歳を期に白内障手術を受けることを決めた。

初診時の問診

若手医師、教授、白内障に詳しい医師の順に3名の医師の問診・診察を受けた。受診理由を聞いた先の2医師はともに、「確かに白内障だが、まだ手術するほどではない」という見解を示した。しかし、Y.S.が「先々、どうせすることになるのなら今うけたい」と主張したので、白内障に詳しいR医師に引き継がれた。R医師の最初の一言は「説明はもういいでしょ。私は3000件の手術経験があるので安心して任せてください」であった。Y.S.は意表をつかれ、ことばが出なくなった。一方で「腕のいい医師なのだからまかせよう」という気持ちにもなった。後になってR医師から「Y.S.さんはインドア派だったのですね」と言われた。患者が元司書で、趣味は読書と手芸という情報は伝わっていなかったか、あるいは意に介されなかったと思われる。

術前検査

6月1日に眼科検査、6月8日に健康診査を受け、手術適応となった。

治療の経緯

6月21日
 
右眼白内障手術

術後の回復は順調だった。手術をしていない左眼と比べてその見え方に驚嘆した。景色が明るく色が鮮やかになり、視力も格段に上がった。ところが、困惑したことがある。これまで裸眼で読めた新聞が、手術した右眼ではまったく読めなくなっていた。Y.S.はレンズの度数の選択に失敗したと思った。7月5日に左眼の手術を控えていたので、6月28日の診察日に相談が必要だった。

6月28日
(覚書No.1提出)

Y.S.には短い診察時間内でR医師とのコミュニケーションをスムーズに行う自信がなかった。しかし、その必要を強く予感していた。それで、症状・経過や疑問・質問などを、記録も意識して、A4用紙1枚に具体的に記載し「白内障手術覚書」というタイトルをつけて渡すことにした。(12月7日のA病院における外来日までに、R医師に8通、B眼科医院とC眼科クリニックに各1通ずつ合計10通の覚書を作成したことになる)

覚書がR医師の気分を害するのではないかという心配は杞憂であった。この日、Y.S.は口頭で「7月5日に手術する予定の左眼は近くに焦点のあうレンズを選べないでしょうか」と質問した。R医師は「それではバランスが悪くなるし、たいていの人は焦点は日を追って近くなります」と答えた。確かに手術直後に比べて焦点は近くなっていた。Y.S.は年齢を考えれば完璧を求めるのは無理と思い、左眼の手術を決断した。

7月5日 
左眼の白内障手術

手術は順調に終わった。ただ、後になって思い出したことだが、右眼に比べて手術中、光をまぶしく感じたことを記憶している。

7月14日
(覚書No.2提出)

この日提出した覚書には、あくまでも現時点のこと、としながらも「手元が見えない」不安を述べ、今の希望は「老眼鏡なしで、かろうじて新聞が読め、眉がひけること」と書いている。また、「左眼の目じり側のピコピコとした痙攣のような感じ」について書き、口頭でも伝えている。R医師は「健康な人でも疲れるとよくある症状」と気に留めなかった。

7月28日

裸眼で新聞を読みたいという希望をあきらめきれず、この日、Y.S.は口頭で「眼内レンズのとりかえ」の提案をした。R医師は「リスクがあるし、必ずしも希望どおりにはならないこともある。取り換えたら前のレンズの方がよかったと言った人もいた。一週間考えてみて、どうしてもというなら再手術を検討する」と答えた。

8月4日

一週間後、Y.S.は「再手術はあきらめました」と口頭で伝えた。焦点がもう少し近づくのを期待したのと、再手術のリスクへの不安からだった。一方で、左眼のピコピコはむしろチラチラという表現が適切な症状になり、違和感が増していた。その数日後から、左眼の視力が急激に低下していった。インターネットで調べ「後発白内障」を疑った。8月5日にはリオデジャネイロオリンピックが開幕したが、テレビは、片目を眼帯でふさがなければ見られず、楽しむことができなかった。

8月17日
(覚書No.3提出)

この日の覚書にはチラチラ症状についての深刻な訴えと「後発白内障」の疑いが書かれている。この時点で、Y.S.は「チラチラ」は両眼の視力の差が原因ではないかと思っていた。「眼と脳が懸命になって主人(Y.S.)のために調整をとろうとがんばっているようだ」という表現が見られる。R医師は診察して「後発白内障」と告げた。このとき初めてY.S.はモニターにうつる自分の眼を見せられた。その日のうちに「後発白内障レーザー手術」を受けた。あっけないほど簡単に視力は回復した。R医師が「この手術をするとレンズの取り換えができなくなる」と独り言のように言った。「なぜですか?」と聞き返した。答えはマイナス情報だったが、あえて気にしないことにした。問題は解決したと思ったからである。

9月1日
(覚書No.4提出)

問題は解決していなかった。チラチラの症状はげしくなっていた。この日の覚書にはY.S.がインターネットでみつけた「positive dysphotopsia」のflashes(点滅)の書き込みの引用がある。R医師は書き込みの情報の正しさは認めたが、Y.S.が該当するかどうかには答えなかった。Y.S.は試しにこの症状に効くと書いてあった「ピンサロ」という薬を使ってみたいと申し出た。R医師は「気持ちのいい薬ではないので、効果がなかったらすぐに止めて一週間後に来てください」と言って処方には応じた。さっそくその日から試した。効果はなかった。

一週間後の外来で、Y.S.は気になっていた「後発白内障」と「チラチラ」との関連を聞いた。R医師は「関係はない」と答えた。Y.S.の訴えに対するR医師の見解は最初から「手術の経過はいい。適応するまで半年はみてください」で、それ以上の説明はなかった。適応の微かな予感も自覚できず、日に日に不安を募らせていたY.S.は「自覚症状は本人にしかわからないし、見通しがないまま待つのは辛い」と訴えた。R医師はかすかにうなづいたように見えたが無言であった。

9月28日
(覚書No.5提出)

この日の覚書では症状について「四六時中、度の合わない眼鏡をかけているような不安定感(とりわけ近距離を見るときに顕著)が続いている」と表現している。また、新たな質問として、日本眼科学会ホームページで情報を得た「眼瞼けいれんチェックリスト」を引用し、その可能性を聞いている。(12項目中、5つが該当していた)覚書に付記した眼瞼けいれん専門医はR医師もよく知る医師であった。R医師はY.S.にまばたきをさせてみて、「違うと思う。ピンサロとおんなじで多分期待できないと思うけど」と言った。しかし、Y.S.は「試さなければ可能性を除外できませんから」と言って紹介を頼んだ。

10月3日
眼瞼けいれん専門医B医師を受診。(覚書No.6提出)

待合室はいっぱいで、遠方からの患者さんも見受けられた。Y.S.は紹介状とこれまでの経緯を書いた覚書を提出した。眼瞼けいれんの可能性もありと診断され、コラーゲンプラグとボトックス注射をすすめられた。どちらも保険適応とはいえ高額である。しかし、症状コントロールの第一選択肢とされている。今後の医療費が心配になった。この日はコラーゲンプラグを実施。ドライアイには効果があって眼精疲労はやや緩和されたが、チラチラには効かなかった。

10月11日

両眼に最低量のボトックス注射をした。3日後と1週間後に診察を受けたが、変化はなかった。

10月31日
C眼科クリニック受診(覚書提出、No.なし)

Y.S.は左眼のチラチラと眼精疲労のせいで、四六時中「よく見えるのに見るのが辛い」という悩ましくも苦しい日々に疲れ果てていた。日常生活もままならず、心身への影響が強く出始めた。11月15日にボトックス注射後5週間目の診断の予約があったが、それまで待つことはできなかった。知人の医師に相談して、眼科領域では著名なC医師の眼科クリニックを受診した。一通りの検査が終わり、女性医師の問診と診察を受けた後に、検査機器を使った別の検査が追加になった。初めて経験する検査だった。

検査後(後に輻輳反応のための検査とわかったが)、女性医師からY.S.の症状は眼球を内側へ寄せる動きがやや足りないため生じているという説明があった。同じ日にC院長の診察も受けることができた。「遠近両用メガネを作って慣れることですね」とあっさり言われた。「このままで適応はできないのですか」と聞くと「無理ですね」と即答。Y.S.は思い切って「レンズを取り換えることはできないのですか」と聞いた。C院長はY.S.の両眼をのぞいて、「手術から4か月経っているし、左眼は後発白内障手術をしているから無理ですね」と答えてその理由を話された。(R医師から聞いた説明と同じだった)。わずかに残っていた希望が失われ、気持ちが沈んだ。

11月2日
R医師再診。視能訓練士に経過を話す。(覚書No.7提出)

診察前のルーチンの眼科検査のとき、ベテランのD視能訓練士にC眼科クリニックを受診したことを話した。検査が追加になった。目の前に立てたアイスキャンディーのスティックが二重に見えた時、そうだったのか、と納得した。矯正できないか聞いてみた。高齢者の視能訓練は大変だし辛いという。しかも白内障手術をしている。しかし、少しでも可能性があるのなら試してみたいと思った。

D視能訓練士に普段使いの「遠近両用眼鏡」と読書用の「プリズム眼鏡」を提案してもらってからR医師の診察になった。R医師が手元に広げたファイルに「眼鏡処方箋」が2枚挟まれているのが見えた。R医師に「診断名は何ですか」と聞いた。「フクソウフゼン」と即答。「輻輳不全」と書いたメモを手渡された。「眼鏡に慣れるのも大変だけどね」という一言だけで、それ以上の説明も診察もなかった。

もはやR医師への期待は失せていたが、不安感が強いので楽になる薬を出して欲しいと頼んでみた。「理由がつけられないので出せない」という返事だった。「この経験を無駄にしたくないと思っています」という言葉がY.S.の口をついて出た。覚書No.7 (C眼科クリニック受診について記述)を手渡して診察室を出た。その直後に受付で、R医師のサインと捺印の入った「眼鏡処方箋」を渡された。その日のうちに眼鏡屋に行き注文した。

12月7日
R医師再診。(覚書No.8提出)

11月8日に眼鏡ができてから1か月が過ぎた外来日。この日提出した覚書No.8はA4用紙に2枚になった。1枚目は、Y.S.が眼鏡の出来に満足できず、輻輳不全の矯正訓練の方に気持ちが傾いていること、神経科クリニックでジアゼパム錠をもらっていることなどの報告に加え、高齢者の視能矯正訓練および矯正用眼鏡の可能性について質問している。

覚書の2枚目には、インターネット公開の意志があること及び掲載するHPを伝えた上で、症例報告の「はじめに」と「考察」の部分を抜粋して載せていた。この覚書はD視能訓練士にも手渡した。R医師の診察を待っているときに声をかけられた。D視能訓練士は、Y.S.が訴える症状の辛さに耳を傾け、出来上がった眼鏡を調べ、Y.S.の感想を聞き取った上で、眼鏡の作り直しの検討を約束した。3か月以内なら無料で作り直しができるという。訓練の詳細を聞く時間はなかったが、絵カードを使った訓練法を教わった。それまで混乱状態に置かれていたY.S.だったが、この時を境に患者として正常化したと感じた。D視能訓練士の対応によって、少なからぬ心理的治療効果がもたらされたことは特筆しておきたい。

R医師の診察における最初の一言は「眼鏡が合わなかったそうですね」だった。Y.S.は覚書を手渡して「読んでください」と頼んだ。特に「考察」の部分は患者側の限られた理解と推測で書かれている。信頼性に不安があったので、R医師の見解が聞きたかった。R医師は覚書の全部に目を通したように見えたが、「眼鏡が合わなくて残念でしたね」と繰り返したのみであった。インターネット公開に関しては一言もなかった。

考 察

Y.S.は20歳から67歳まで主として医学系図書館で司書として働いた。ヘルスサイエンス情報専門員という認定資格を持っている。趣味は読書と手芸である。Y.S.の症例においてまず第一に悔やまれるのは、ライフスタイルを十分に考えた上で、最適なレンズが選択されたとは言い難いことである。40代から近視で眼鏡は作ってはいたが、映画館や劇場で使うくらいで、長い間、近視の状態のまますごしてきた。主治医はこれらの情報を知らなかったか、あるいは意に介さず、単に年齢相応のレンズを選択したと思われる。

Y.S.の場合(素人の理解だが)元々斜位(隠れ斜視)があったが、白内障手術で水晶体を人工レンズに取り換えたため、眼の調節機能が損なわれ「輻輳不全」が顕在化したと思われる。もし、より焦点が近いレンズが選択されていたら、「輻輳不全」は顕在化しないか、現れ方が軽かったのではないだろうか。

現在、白内障手術は、大学病院や総合病院だけでなく、一般の町の眼科でも広く行われ日帰り白内障手術も普及している。患者・家族は単純に「よく見えるようになる」と考え安易に手術に傾きがちだが「視力の向上」と同じくらい注意を払わなければならないのは「見え方の質」である。

Y.S.の場合、手術前の種々の検査の中に輻輳反応の詳しい検査は入っておらず、手術後セカンドオピニオンを求めて受診した眼科クリニックではじめて「輻輳不全」の指摘を受けた。手術前の検査では問題にならないくらいの斜位だったのかもしれないが、白内障手術をきっかけに生活の質が大きく損なわれるほどの影響が出たという事実はみすごされてはならない。加齢による視機能の変化も考慮されるべきだろう。白内障手術を行う医師は慎重に手術適応の決定を行うべきであると考える。

一方で、二人の医師から「まだ手術するほどではない」と言われたにもかかわらず、それを意に介さなかったY.S.の側にも非がある。白内障手術に対する安易な考えと意識の低さがこのような事態をまねいた要因の一つだったことは否定できない。Y.S.は、眼と脳の密接な関係に関心を持ち、眼に侵襲を加えることの重大性に気づくべきであった。そして、なによりも初診のときにこそ、自らのライフスタイルや希望を文書にして明確に伝えるべきであった。

おわりに

Y.S.が自らの体験をインターネットで公開することを決意した理由はいくつかある。白内障手術の危険性を述べたかったのではないことだけは、明確に断っておきたい。Y.S.の場合は白内障手術がきっかけで思ってもみなかったハンディキャップを背負うことになったが、その事実を自ら受け入れ、周囲にも理解してもらうために公開を必要とした。治療法、対処法、訓練法などの情報がもたらされるかもしれないという期待も大いにある。Y.S.の症例がたとえ稀なものであったとしても、誰かの役に立つかもしれないという思いもある。また、長いキャリアを通して「市民への医学専門情報の公開」を訴え続けてきたY.S.の医学図書館員としての自負と責任感も公開の大きな理由である。

症例報告というスタイルは事実を客観的に記録するために採用した方法だが、医療者の目に触れることも念頭にあり、むしろそれを強く望んでもいた。症例報告といっても、記述の中に医療側のデータはない。Y.S.が医師に告げたサインと繰り返し訴えた自覚症状、そしてY.S.の挙動がデータのすべてである。

しかし、医療者にとって患者が発する情報こそが治療のスタートであり原点のはずである。Y.S.のように混乱した患者に対峙する医師には、専門家として患者を正常化させる役割と責任がある。医療者の誠実かつ実際的なふるまいこそが「患者の尊厳」を保証し、患者に勇気をもたらすのだ。

最後に。混乱と不安の最中、インターネット検索や医学専門情報の検索ができたことが、患者としてのY.S.の尊厳を支え、気持を奮い立たせ、希望へと向かわせた。医学図書館員としてのY.S.が、ぜひとも伝えたいことである。




Y.S.が心打たれ、教えられ、慰められ、今も励まされ続けている一篇の詩を最後に掲げる。
雪絵さんへ敬愛の心を込めて。


ありがとう

雪絵

ありがとう、
私決めていることがあるの
この目が物をうつさなくなったら目に、
そしてこの足が動かなくなったら、足に
「ありがとう」って言おうって決めているの
今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、
私を喜ばせてくれたんだもん
いっぱいいろんな物素敵な物見せてくれた
夜の道も暗いのにがんばってくれた

足もそう
私のために信じられないほど歩いてくれた
一緒にいっぱいいろんなところへ行った
私を一日でも長く、喜ばせようとして目も足もがんばってくれた
なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき
「なんでよー」なんて言ってはあんまりだと思う

今まで弱い弱い目、足がどれだけ私を強く強くしてくれたか
だからちゃんと「ありがとう」って言うの。
大好きな目、足だからこんなに弱いけど大好きだから
「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの
たぶんだれよりもうーんと疲れていると思うので……



妻Y.S.が記す、この報告から2年経過後
(2018.12.25)


2016年6月に右目、7月に左目の白内障手術を受けてから想定外の目のトラブル生じた。この症例報告はその年の11月に「輻輳不全」という原因がわかったことにより、混乱していた心が正常化し、視能訓練という目標に向かいはじめたところで終わっている。それから2年の歳月が過ぎた。現在の症状を記録しておきたいと思う。

焦点はだんだんと近くなった。裸眼で商品の価格や手紙の差出人が読める。眉もかろうじてひける。チラチラは消えず異物感は残っているが、痛みはほぼなくなった。度が1.5〜3.0までの老眼鏡を家のあちこちに備え、外出時には携帯する。本、パソコン、スマホで使い分ける。新聞は活字の面積が広いので読むのが辛く読まなくなった。書架に並ぶ本の背文字を追うのが辛くて、図書館と書店に長居することはなくなった。デパートやショッピングにも足が遠のいた。私の目には明るい自然光は厳しく、夜間照明の方が優しい。人工レンズは人工照明になじむのだろうか。

不自由や失われた楽しみは少なくないが、読書、手芸、パソコンは、あまり長くなければ可能になった。医師から言われた「適応」と私の「視能訓練」の効果があらわれたと思っている。また、ある発見で助かっている。乾燥が痛みを増すので、頻繁に目を洗ったり目薬をさしていたのだが、あるとき、マスクが眼を潤すことに気づいた。肌ざわりのよいタオル地で手製のマスクをたくさん作り、家の中ではたいていつけて過ごす。1年前までは定期的に精神科を受診しジアゼパムを処方してもらっている。徐々に必要を感じなくなってきているが、今なお、支えの一つではある。