ある医学図書館員の軌跡
第11回 医学図書館員セミナー論文集  1984



医学図書館員としての生きがい−
図書館員と情報−



T はじめに


生きがいを持つということは、何か取りくむべき大きな問題をかかえていることではないだろうか。セミナーへの参加が決ったとき、長年図書館員だったにもかかわらず、発表したいと思うテーマが一つとして思い浮かばないのに我ながらあきれてしまった。結局こうした現在の自分自身の状況を問題にする以外ないと思い、その方法として、今までなんとなく避けてきたこと、あいまいにしてきたことを一つ一つ明らかにし、それについて考えてみようと決心した。セミナーの発表では、医学図書館員としての私自身があいまいにしていたことを4つ上げてのべた。

1.情報の概念があいまいで混乱していた。また情報科学に無関心であった。
2.利用者に対する認識、態度があいまいであった。
3.図書館の「特権の枠内で保護された進歩的、文化的な雰囲気」(文献2)に憩っていた。
4.図書館の機械化に無関心であった。

U 雰囲気のあいまいさと研究者コンプレックス

先にあげた4つのうち、発表時点で私にとって比重が重く感じられたのはAとBであったが、これは公言することにより不思議なくらい気にならなくなった。おそらくコンプレックスにかかわるものであったため、ひきずり出されることによりその威力を失ってしまったのだろう。しかし「研究者の役に立てるのだろうか」という疑問は依然として存在する。研究者コンプレックスとは関係なく、歴然とした事実として強く感じる。

井上の「無人図書館論:新論」(文献1)は、私のこうした疑問に拍車をかけた。図書館員に対する氏の発言は痛快である。思考仮説として受けとるべきなのに、つい現実にそのまま重ねあわせ、感じ入ってしまった。しかしこうした読み方はこの論文にふさわしくない。90%は洗脳されかかっても、最後の10%で強力に反発すべきである。「図書館員のような第三者は利用者の専門知識に追いつけない、またその情報要求の変化にもついてゆけない」、確かにそのとおりだ。「情報は欲しい人間が自分で探すのがいちばんいい」、これもあたっている。しかし、その自覚が十分でない利用者がいるかぎり、また十分であった上でもなお図書館員の存在が望まれ、しかもその要求に少しでも答えることができるとしたら、図書館員の存在理由はあるということだ。これはおそらく水田(文献2)の述べているように、毎日の仕事の中で「図書館の文化性や進歩性」といったあいまいなものにごまかされず「仕事らしい仕事を見つけてゆく努力」をし「自分が労働者であること」を忘れないで、時に得られる「役に立てた」という実感を貴重なものとし、専門性という言葉の本当の意味を体現しようとする努力のなかから、自分で獲得してゆくほかない。今、私はそのように考えている。

V 機械化について

Cの機械化についてはセミナーで少数ではあったがその事例を聞くことができ、それほど恐れることはないという感触を得た。むしろ今後はコンピュータ・マニアになることを警戒した方がよさそうだ。図書館員はその素質十分だから。システム化はコンピュータ以前から図書館においてなされてきた。しかし、人間だけのシステムではあいまいな部分が多く残る。それがかえって有効な場合(暗黙の了解のように)もあるが、合理化や能率の面から見ると機械の助けはやはり強力である。しかしコンピュータは厳密なシステム化を要求する。より細かい業務分析やスタッフ・マニュアルの検討が必要とされてくる。

サイバネティックスの創始者N・ウィーナーはのべている。「やがて新しい奴隷機械がわれわれに頭を使わず暮してゆけるような世界を与えてくれるだろうと思っている人々には、未来はほとんど期待に答えてくれそうもない。機械はわれわれの手助けをすることはできようが、それとひきかえにわれわれの誠実さと聡明さを極度に要求するであろう。未来の世界はわれわれの知能の諸限界への闘争がますます必要になる世界であり、奴隷ロボットにかしずかれて寝てくらすことのできる世界ではない」(文献3)。またこうも言っている。「人間のものは人間へ。機械のものは機械に。これが人間と機械を共同の仕事に使うときの賢明な政策であろう。今日われわれが必要としているのは、<人間と機械を要素として含むシステムの独立な研究>である。このようなシステムは機械の方へも反機械の方へも偏らない立場で考察されねばならない」(文献4)。

W 情報とは何か

あいまいにしていたこと4つのうち@は結局もっとも大きな問題として残った。あとの3つはなんとなく片づいた感じがするが、情報について考えはじめると問題性は広がる一方で、今の私はその輪郭をつかむのさえおぼつかないありさまである。とりあえず図書館はカッコに入れておいて、情報という言葉の概念をつかむことが先決と思われる。さて情報とは何だろうか。ひんばんに使われるけれどよく考えるとわからなくなってくる言葉である。Informationのそのままの意味をとれば、知らせること(もの)ということだ。広辞苑には“あることがらについての知らせ”とある。これだけのことをわざわざ情報と呼ぶのは、知らせという日常的な言葉では推測しきれないほかの概念を含ませようということだろうか。情報の定義は数多くあるが、ほとんどがある特定の観点からの規定にとどまっている。情報のすべてにわたる総合的な定義はむずかしいようだ。しかし情報の性質や特性について言われたり、書かれたりしたものは数多くあり、情報の概念をつかむ助けになる。そのなかのわずかだが、私の目にとまったものを書きぬいておくことにする。

1.情報とは「知る」ということの実体化である(文献5)
2.情報は相対的な概念である。情報があるというためには必ず誰かそれを受け取る人、または機械がなければならない。(文献6)
3.情報はシステムの中の要素であり、システムを離れては存在しない。(文献7)
4.情報は消耗せず、複製が可能である。(文献8)
5.情報そのものは抽象的な概念で、言葉や符号で表現することはできるが物理的実体はない。しかし実際には必ずある物理的な現象に担われて現れる。(文献9)
6.貨幣の本質は情報にある。勲章や印鑑、指紋も情報が主体である。人間の顔もシンボル・マークとしての情報と考えられる。われわれのまわりの多くのものが機能的にみて情報が主体になっている。(文献10)
7.経済学の見方からすれば、情報は一般に経済価値を持っているものである。(文献11)
8.情報はその内容と形式とが統一している。内容とみなしうるのは自然や、社会の思惟の物体および現象についての知識であり、情報内容の存在および伝達の形式とみなしうるのはそれぞれの記号ないし信号のシステムである。(文献12)
9.情報とは可能性の選択的指定作用のことである。「ああも考えられる」「こうも考えられる」というふうにさまざまな可能性があるときに、その中で「実はこれがそうなんですよ」と一つの答を選択して与えてくれるもの、それが情報ということのもっとも一般的な性質である。(文献13)
10.行動はイメージ(知恵)に依存している。メッセージ(情報)はイメージをつくりだすための変化を意味している。(カッコ内は筆者)(文献14)
11.生きとし生けるものすべてを結びあわせるパターン(情報)がある。(カッコ内は筆者)(文献15)
12.信号と応答による相関ではたらくシステムの中でその相互作用がシステムというものを成り立たせる上で重要な役割をしているとき、それを情報という。(文献16)
13.生命とは“情報による間接作用が成り立たせているシステム”である。(文献17)
14.人間に関係した情報には社会が反映している。また社会にはたらきかけるものは情報として人間の頭を通過する。文化というのは社会における情報の蓄積である。(文献18)
15.自動機械と生物、このまったく異質なもののなかに共通に現れる一種の合目的性がある。この異質な二つのもののなかにある類似性はなんであろうか。その類似性のなかから堀り出されたものが情報という概念である。(文献19)
16.Rogetの『International Thesaurus』でInformationを引くと次のとおりである。
1. enlightenment 2. acquaintance 3. instruction 4. intelligence 5. knowledge 6.Communication 7. report 8. word 9. notice 10. news

情報の概念がいちおうのみこめたら、次は人間社会における情報の意義とその使われ方を知らねばならない。その上ではじめて“図書館と情報”について語れるのだが、とても歯が立たないので、正面からとりくむのはやめて、いささかやぶにらみ的見地ながら、自力で図書館と情報について考えてみることにする。

X 図書館と情報

セミナーで図書館員は情報をあつかう仕事をしているのだから、その知的基盤は情報学でなくてはならない、しかもこの情報学は現在のコンピュータ・サイエンスー本槍の情報科学よりもっと広い範囲のものでなくてはならない、とのべた。今思うと冷や汗が出るような勇気ある発言なのだが、裏を返せば、コンピュータ・サイエンスは苦手だけど情報は無視できない。それに情報はコンピュータの専売特許というわけでもないだろう、といった内心複雑な思いがあったのである。情報化社会といわれる現在においても、情報についての一定のイメージは確立していない。しかしコンピュータと関係があることは誰もが感じている。コンピュータのあつかう対象はデータと呼ばれる情報であり、コンピュータの発達にともなって情報という言葉も普及した。

図書館ではドキュメンテーションが文献情報活動と呼ばれたあたりからこの言葉が使われだしたが、さらに村田(文献20)によれば、ドキュメント指向型の活動に対する情報要求は急速に加速していき、技術上の解決を求めて情報指向型の取り扱いの概念が生じた。ここにドキュメンテーションは情報科学にその処理の理論をゆだねた。こうして図書館学が情報科学と出会い、コンピュータが図書館に入りこむようになり、古いタイプの図書館員をとまどわせることになった。また情報という言葉に混乱をきたすのもこのあたりからである。情報、システム、コンピュータといった言葉はうっとおしく感じられ、日常業務に埋没することにより無視しようとした。この古典的図書館員とは私のことだが、今日の平均的な図書館員像とも大きなズレはないものと思われる。

図書館は人類の知識を守り伝え、それを人々に提供し続けてきた。これが図書館の理念であると私は長年思っていた。その知識が今日では情報にとってかわったかのように見える。知識と情報は違うのだろうか。コンピュータが対象にするのは情報であって知識ではない。知識は人間に特有のものだが情報は必ずしも人間だけに関係のある概念ではないことは先の引用にもあったとおりだ。遺伝情報といわれるように生物界に、またコンピュータや通信、制御系などの工学系にこの概念はあり、特に後者は明確な数学的理論(シャノンの情報理論)を持ち、すでに市民権を獲得した概念になっている。しかしこの工学の分野での情報概念は情報を定量的に扱うことによってのみ得られたもので、その情報の意味や内容を全く捨象して考えている。

人間のコミュニケーションにおいて大切なのはその情報の量ではなく、意味と内容であり、受け手がそれをどのように受け取り、いかなる影響を受けたかということだろう。シェラ(文献21)は「図書館員は個人として利用者を相手にし個人を通じて社会に対する仕事をしている。そのため個人および社会に及ほす視覚資料の影響という点に関心をよせなければならない」と言っている。また内山(文献22)は「情報は自分自身と別の世界にあるものではない。自分が感じたもの、みとめたもの、これが情報である」とのべている。いずれも人間コミュニケーションにおける情報の重要性を言っているのであり、よく納得できる。

ところが、情報学も情報科学も今のところ情報の意味と内容は扱っていない。意識や精神といったやっかいな問題がからんでくるからだ。とはいえ、情報という概念は機械と生物に共通するものである。したがって「情報科学」においてコンピュータと人間の思考過程の研究は切りはなせない。現在のところ、情報科学は従来の科学のようにある特定の対象を研究するのではないらしい。かといっていろんな学問をよせあつめた総合科学でもないようだ。情報科学ははじまったばかりの新しい科学でその内容もまだ明確とはいえない。しかし社会はすでに情報化の一途をたどっている。情報公害という言葉さえ聞かれる。情報科学はそれを阻止するための力になりうるだろうか。

ここで「情報学こそ図書館員の知的基盤である」という私の前言を思いおこしてみよう。はたしてそう言えるだろうか。正直なところ自信がなくなった。情報科学的な見方や知識は確かに必要だ。しかし学問としての情報科学を図書館員に求めるのは的はずれであるようにも思われる。そこで方向転換してこんどは図書館の理念について考えてみることにする。

Y 図書館の理念

今日情報化や技術革新が図書館のイメージを変えつつあるように言われている。しかし図書館の生い立ちやその移り変わりの長い歴史をたどれば、たかだか今世紀後半に始まったばかりの技術革新や情報化の枠だけから図書館を考えることには疑問を感じる。図書館とは末梢的な現象のことではない。情報産業とは違うのである。また単に研究のための道具でもない。

エントロピーという気になる言葉がある。「だんだん増えることはあるけど減ることはないという特徴をもった一種の物理量で、際立った状態からだんだんありふれた状態に移ってゆく傾向をエントロピーが増えるという」(文献23)。全宇宙はエントロピー増大の法則の絶対的支配下にある。しかし部分的にはエントロピーを減少させるシステムがあって、その1つが生物であり、遺伝子が大きな役割を果している。また人間の社会や文化も無秩序な状態への移行に抵抗している。これらのシステムの中枢にあるのが情報である。情報の集積はエントロビーが減ってゆく方向である。

しかし、今日情報公害といわれているのは何だろうか。情報の過剰がかえってエントロピーを増大させているのではないだろうか。図書館の営みはエントロピーを減少させることに寄与している。また、図書館はいつの時代にも社会の先端に立つより、少しおくれて進歩とか発展といわれるものの実体をみきわめながら、用心深く存在し続けてきたように思われる。図書館が社会の変化に敏感でなくてはならないのは、その進歩に寄与する以上に、安全や安定に力をつくす任務を担っているからではなかろうか。

今日、図書館の機能面だけが強調されることが多いが、図書館はその存在自体が意味をもつような社会現象の一つではないかとも思う。図書館はその長い歴史を経て膨大な資料を蓄積してきた。また、図書館の建築にはすばらしいものが多い。人類の遺産を目の当りにできる環境、雰囲気、閲覧の自由。これこそ人々が図書館によせる期待のもっとも大きなものであった。これは今日でもかわらない。

人が何かを知りたいと思うとき、その何かについて手がかりがある場合とまるでない場合がある。ない場合とは未知のものをさがすということだ。このようなさがし方はコンピュータにはできない。しかしそうやって効率の悪い方法のすえ、何かを発見することこそ知るということである。コンピュータがてっとり早く教えてくれる情報は、それはそれとしてありがたい。しかし一方で時間をかけて多くのノイズのなかから何かを発見する、そういうことのできる場としての図書館を必要とする人々もたくさんいるはずである。人間の脳はノイズをうまく処理する。すぐに忘れもするが、時には記憶の底に沈めておき.それが偉大なる独創となってよみがえることもある。図書館をそのための手段とも、また場とも考えたい。

Z おわりに

私は今から10年前、医学図書館員になりたてのころ参加した医学図書館貝研究集会の参加者レポートに次のように書いている。「私は図書館をすばらしい職場だと考えています。というのはそれが純粋なサービス機関で利用者の役に立つということが第一義的な使命だからです。おまけにそのサービスたるや人類の宝である知識と情報のストックを縦横に駆使して行うというカッコいいものなのですからなおさらです。図書館は便利で楽しいところです。表面的にはほこりをかぶった本とその番人だけのように見えても、図書館に親しむ人にとっては無限の知識と情報をひきだす宝庫なのです。しかし難しいのはそのひきだすということです」。ずいぶん元気のいい無邪気な感想である。しかし10年たった今の私の気持もこの初心に帰ってきているように思う。思えば、これは図書館員というより利用者の側に立った感想である。マンネリ化した日常業務はともすれば一番大切な利用者の存在を忘れさせたり無視させたりするのだろう。今回は膨大なテーマをとりあげ、ギリギリに背伸びして、その上全力疾走をしたものだから息切れしている。しかしそのくらい情報との出会いはエキサイティングだった。今まで文学にしか興味のなかった古典的図書館員の私が情報と出会うことにより科学への目が開かれたのだから。結局「図書館員と情報」というテーマにはとても歯が立たず、図書館の理念に逃げてごまかしてしまった。しかし、これが現在の私であることを認め一里塚としよう。

引用文献

1.井上如 無人図書館員:新論. ドクメンテーション研究 34(1)9−14 1984.
2.水田健介 図書館の仕事.第10回医学図書館員研究集会論文集 p.368-377 1976.
3.ウィーナー,N. 科学と神−サイバネテイクスと宗教. みすず書房、1965 p.75
4.同 上 p.79.
5.高橋秀俊  情報とは何か(東京大学公開講座13:情報). 東京大学出版会 1971 p.4.
6.同 上 p.12.
7.同 上 p.12.
8.同 上 p.13.
9.同 上 p.7.
10.同 上 p.10.
11.同 上 p.8.
12.ポチャロフ,M.K.  情報および「記号」の概念について.ドクメンテーション研究 18(4):103−108 1968.
13.湯川秀樹、梅棹忠夫  人間にとって科学とは何か. 中央公論社 1967 p.18.
14.ボウルディング,K.E. ザ・イメージ. 誠信書房 1980.P.5−6.
15.ベイトソン,G. 精神と自然. 思索社 1982 p.9.
16.杉田元宜  情報とは何か;その思想と目標. 実教出版 1976.P.9.
17.同 上 p.16.
18.同 上 p.34.
19.宮原将平  新しい自然像、現代人の科学 6:現代の自然観.大月書店 1976.p.19.
20.村田修身  情報の構造と図書館の機能.東京大学図書館情報学セミナー研究集録1 1972.p.61−89.
21.シェラ,J.B  図書館の社会的基盤.日本図書館協会 1978.P.25.
22.内山三郎  情報と人の行動.ドクメンテーション研究 26(1):3−15.1976
23.湯川秀樹、梅樟忠夫 人間にとって科学とは何か 中央公論社 1967.P.20
24.佐伯康子  雑感. 第10回医学図書館員研究集会参加者レポート 1975.P.35.

参考文献
1.武田修三郎  エントロピーからの発想.講談社 1983.