ある医学図書館員の軌跡
にとな文庫通信 No.3(2009.6)



人生「本番」のときに



どんな人でもいつかは死が訪れる。不公平だらけの世の中だがこれだけは公平だ。死ぬ時期と死ぬまでの経緯には不公平があるしても。それでもたいていの人は死を忘れて生きている。忘れないまでも意識の外に追いやって毎日を過ごしている。ところがどうしても死を意識せずにはいられない状況に置かれることがある。たとえばがんと告げられたとき。

平成7年、当時49歳だった私は勤務先の大学病院で胸の小さなしこりを診てもらった。病理の結果を告げるのに医師は両腕を上げて丸を描いた。てっきり大丈夫なのかと思ったら検査結果プラスという意味で、その瞬間から私はがん患者になった。思わず「いつまで生きられるの?」という言葉が口をついて出た。医師はその一言を笑い飛ばした。早期がんだったのに、それでもがんと言われただけで死を連想したのである。

平成7年は1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があって日本の安全神話が崩壊した年だった。私のがん告知はオウムの麻原が上九一色村にあったサティアンの隠れ部屋でみつかり逮捕されたちょうどその日のことだった。家族と上司に連絡しなければと公衆電話に向かう2階通路から病院ホールの大型テレビが見えた。麻原逮捕の模様が繰り返し放映されていた。「Xデーを楽しみにしてたのに・・」その時の複雑な気持を鮮明に憶えている。

入院中は病棟をサティアンになぞらえ、教授を尊師、白衣をサティアン服、病院食をサティアン食と呼ぶなどして病室仲間と気をまぎらわして過ごした。私のがんは早期だったが部分切除した部分に広がりが認められたため再び全摘となった。私の主治医は近々実家の医院を継がれることになっており(お父上は同じ病院のICUに入院されていた)私が大学病院最後の患者であった。退院を心待ちにしている患者に再手術を告げるのはさぞかし辛く、また納得させるのも容易ではない状況であったろう。

主治医に呼ばれて病理の先生が説明に来られた。スライドや資料を示しながら「何でも話しますよ」と言われた。他施設医師への相談の返信まで見せられた。治療の妥当性に納得というより眼の前の患者を思いやるその気持が伝わって、なぜ!どうして?という気持が次第に安心と感謝の念に変わっていった。病理と麻酔科の医師は通常患者に直接関わることが少ないが、それは双方にとって惜しいと思う。手術前夜「お袋も乳がんだけどピンピンしてるよ」と話してくれた麻酔科医のおかげで眠ることができた。

がんの告知は晴天の霹靂ではあった。しかし、心のどこかで「ついに来たか・・・」という気持がしたのも確かだ。医学図書館員という仕事柄、一般の人よりも病気が身近だった。星の数ほどある病気の一つや二つ、遭遇して当然なような気がする一方で過剰に心配したりもしていた。主に好きな文学を通して死に関心を持っていたが実感を伴わない抽象的な段階に留まっていたと思う。

しかしながら、死は人間やできごとや文学の本物度を測る尺度として私の中ではゆるぎない位置を占めていた。「ついに来たか・・・」は「ついに人生の本番が来たか・・・」という意識だった。「死を意識したときに人は自らの人生の本番を迎える」いつのころからかそう考えるようになっていた。とはいえ、がん体験を経た今でも本番だけは先延ばしにしたいと切に願っている。しかし、死を忘れて生きる人生は面白みに欠ける。先延ばしの後ろめたさもあってか、本番の人の舞台に惹きつけられずにはいられない。

千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫」にはそういう本番の人が大勢訪れる。身分や経歴の衣を剥がされ生身の人間として人生の舞台に立ち本番を演じている人たちだ。本物の個性がそこにはある。私の役割は医学情報を通して病気と向き合う人を支えることだ。その考えは変わらないにしろ、支えるという意識はだんだんに薄れてきている。恐怖、不安、痛み、矛盾、死との闘いの本番にある人への畏敬の気持が支えるという言葉を逆転させる。

今日もまた医学書を開き小さな手帳に熱心にメモをとる初老の男性がいた。「コピーしましょうか」とたずねるとかぶりを振り「知っても知らなくても悩むものですね」と言ってにこっとした。