ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.116/ 2002.4
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々 5



アルコールとの出会いのなかで

柴田 洋子

私は1ヶ月に1回くらい佐倉病院に行く。精神科の研究会に出ることにしている。たまたま依頼原稿の文献探しの用件があったので、1月半ば、その会の始まる前に図書室に立ち寄った。下原さんとは大森におられる頃、何十年か前に知り合っていて雑談の折に彼女が私と同じ都立八潮高校の同窓生であることがわかった。以来、ごくたまにではあるが便りのやり取り、また彼女から医学に関する論文のようなものを見せられたこともあった。今回はほんとに何年ぶりかで会ったのであるが、私の所望する文献をすみやかに揃えてくれた。そのあと、「お返しに」と言って本紙への投稿をおおせつかった次第である。

通信のサンプルを持たされて、さてどうしようかと考えたがあまり真面目なことを書く気がなくなった。そこでプロローグは若いころのアルコールとの出会いである。私は日本アルコール学会の名誉会員でもあるが、これから書くのはそんなことではない。とにかく戦時からやっと抜け出したころに卒業したのであるから謝恩会のパーティーもない。ただ何となく規制緩和になった気分から卒業式の日は数人の仲間たちとお酒を飲んでみることになった。どんな都合をしたのか定かではないが、Sさんが一升瓶を用達してきた。一升は全部呑んだと憶えているが、誰がどうということとは記憶にない。ただ、その場での人間模様ははっきりしている。私はただただ開放的になり、食べかけのミカンを友人に強制したり、まあ発揚状態というのであろう。ふと見ると一人がドキドキすると言って伸びていた。その人はその後の学問でアルコール不適応症というものであることがわかった。

次にいくらか日を置いて母校のインターンで残る人たちが集まり、ここでも何か呑もうという相談になった。そしてこの発想が誰だかわからないが当時の教授のなかでアルコール好きの定評があった石津先生(皮膚科)にカマをかけたら、当時純アルコールオリザニン(ビタミンD)と紅茶をまぜたウィスキー(先生の手製)が1リットルの薬ビンにしつらえられて先生が持ってこられた。全部呑んだのではなかったと思うが、ふと気づくとオイオイ泣いているUさんがいた。泣き上手というのがあるもんだとしみじみ思った。

そんな通過儀礼があって数年経ち、私は30代になって初めて精神病院へアルバイトに出た。その初出勤の日に大病院の院長が日ごろつき合いのあった町役場の医療関係の男たちを集め、私の紹介を兼ねて大宴会を仕立ててくれた。田舎の宴会の模様を初めて体験したのがまた驚きであった。酔うにつれて今様のスマートなカラオケ大会とはまったく違った光景が展開されたのである。怪しげな踊りや中居さんたちとのやりとり等々、目をみはるばかりであった。しかしそれは地域の日常であることもわかった。その一夕で私は社会人として10年くらい年をとった気がする。 その院長はしかしながら学問には熱心な方でいろいろと私の研究の後押しもしてくださり、静かな田舎での当直時間を無駄にせず、その3年間に2つぐらいの論文も書くことができた。そして私が去った後も医局の関連病院としてのつき合いが続いている。残念ながら先生は10年ほど前に他界されたが、その他にも医師としてまた哲学的な生き様の面もあり忘れえぬ方である。そしてまた前段にあげた人々もまた然りである。(東邦大学名誉理事長)