ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.137/ 2004.3
寄稿エッセイ:ターニング・ポイントB



出会いが決めたED研究への道

高波 真佐治

人生には何回かのターニング・ポイントがあるといわれますが、私自身を考えると、私が泌尿器科に入局した前年に東北大学から助教授として着任されていた現名誉教授の白井將文先生との出会いが一つのターニング・ポイントであった気がします。白井先生は古くから勃起のメカニズム・診断・治療に関して多くの論文を既に発表されていたこの分野における日本の第一人者でした。当時の東邦大学泌尿器科学教室は、故安藤弘教授が率いられており、当時の学問の流れからも性機能関係にはほとんど手が付けられていなかったようです。そこに新風が吹き込み、徐々にその方面の研究が盛んになってきていました。そこへ入局した私に白羽の矢が当り、研修医のトレーニングが終わるや否や勃起機能検査の方法などを少しずつ御指導戴き、ED:Erectile Dysfunction(勃起障害)研究の道に入りました。

当時、REM睡眠中に起こる勃起現象(NPT)を利用したEDの鑑別診断法が行われ始めており、白井先生は、多少の睡眠不足でもどうにかなる20代の医師を探されていたようです。そこで、既にREM睡眠の研究で東邦医学会賞を受賞されていた第1生理学教室の故奥平進之先生にお願いし、先生のお手伝いを戴いて、当時5号館3階の精神科研究室の脳波室をお借りしてNPTの測定を開始しました。対象は正常被験者として医学生さんと私、それにED患者さんです。午後6時頃に脳波室に向かい、脳波用・心電図用・筋電図用電極、呼吸用・陰茎用カーボンストレインゲージなどのプローブのキャリブレーションを行ない、全てのプローブを被験者に装着して、午後9時頃よりシールドルーム内で被験者に眠ってもらい、奥平先生と交代で仮眠しながら一晩中ポリグラフを監視します。翌朝8時頃全ての片づけを終え、朝食を摂って9時からの診療に入るという状態でした(週1回ですが)。

その後、日常診療の合間に、約8時間分の脳波記録を各睡眠段階に計時的に分類し、REM睡眠中の勃起の有無と程度を集計用紙に記入します。しかし、素人の私にとって、脳波の波形を見て各睡眠段階に分類することは容易なことではなく、なかなか捗りません。最後に「奥平チェック」を受ける頃には1週間が過ぎ、次の被験者の測定日となってしまいます。この方法で約30例のNPTを測定し、論文にさせて戴きました。入局3年目の昭和56年9月に九州で開催された国際脳波学会に、当時の米国でNPT研究の第一人者のIsmet Karacan教授が来日されており、当時の日本でNPTの測定を行っていた施設は久留米大学と東邦大学しかなく、帰国前に東邦大学を訪問されました。

その折、白井助教授室でKaracan教授が突然、「君、私のところに来ないか?」と話され、びっくりしていると、白井先生は、「折角の機会だから行ってきなさい」と言われ、翌、昭和57年1月、米国に留学することになりました。当時、東邦大学泌尿器科学教室からの海外留学は松島先生(現医学部長)に次いで2人目であったため、珍しさと心配のためか、医局員と私の親類など10数名の方々の見送りを受けて、成田空港を飛び立ちました。Houstonのintercontinental airportにはKaracan教授自らが出迎えて下さっていました。なぜなら、私の顔が判るのはKaracan教授以外にいなかったからです。

HoustonのTexas Medical Center内のBaylor医科大学、Sleep disorders centerでは、午後6時頃から5〜6人の患者または正常ボランティアに脳波電極と陰茎ストレインゲージなどを装着して午後9時〜翌朝6時頃まで終夜睡眠ポリグラフィを行ないます。しかし、米国人スタッフは装着作業後には帰宅してしまい、以後は私などの留学生が夜中のポリグラフの監視を行ない、翌朝、順番に患者を起こしながら電極類をはずして、データと器具を片づけて8時頃退室して、朝食を摂り眠ります。さらに午後3時からのstuff meetingにも出席、このように夜昼逆の生活で休日は月に2日程、このときに車で40分程のところにある唯一の日本の食料品店に買い物に出掛けます。最後の3か月はデータの集計など、昼間の仕事にして戴き、スタッフと名残を惜しみながら帰国しました。たった1年の留学でしたが、外国人へのコンプレックスも軽減し、以来、私の研究テーマはEDとなり現在に至っています。

1998年、クエン酸シルデナフィル(バイアグラ)の日本上陸以後、EDはかなり一般的に認知されるようになり、病気として認識されるようになりました。私も半日/週、リプロダクションセンターでEDの診療をさせて戴いていますが、白井將文先生、Ismet Karacan教授との出会いがなければ現在の自分はないと考えられ、両先生には一生の恩師として尊敬して止みません。将来、また何かしらのターニング・ポイントがあるかも知れませんが、良いターニング・ポイントであることを願っています。 (佐倉病院泌尿器科)