ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.110/ 2001.10
寄稿エッセイ:21世紀の風 I



現場に行け

齋藤 智博

また、弟がテロ行為によって閉じ込められた。例のニューヨークの一件である。私の友人と米国に出かけた弟は、単独で学生時代を過ごしたミルウォーキーに立ち寄った際に事件が起きたため、私の友人をラスベガスに残し、シカゴから出られなくなってしまった。両者とも持病を持っているため、私たちは心配した。しかし、どうにもこうにも電話が通じない。向こうからの電話を待つしかない。間もなく一日900ドルのレンタカーを借り、ラスベガスからロスを経由して予定どおり帰国した。

弟が閉じ込められた1回目は26年前の出来事である。当時、10才だった私はパレスチナとイスラエルの内戦が続くレバノンに住み、4年の歳月が経とうとしていた。たびたび行われていたテロ行為は日ごとに激しさを増し、辺境地で起こっていた小競り合いも次第に私たちが住む地域まで押し寄せてきた。当時、山の中にある日本人小学校に通学していた私はたまたま休校日で家にいたが、街の中心地の英国小学校に通っていた弟は昼間に始まった銃撃戦に間もなく巻き込まれていった。両親の心配はひとしおであった。

両親は日本大使館に電話し情報を得ようとした。が、「私たちのところにも何の情報も入っていません」という返事だった。日ごろから自らの情報活動よりも商社や企業からの情報を頼りにしていた外務省の役人たちは初めからあてにはならなかった。途方にくれた父は次に英国大使館に電話した。すると電話に対応した人物は次のように答えた。「先ほどこちらの人間がゲリラ側と接触し情報を得ました。それによると銃撃戦は明日朝8時で中止するとのことです。学校の地下には避難所があり、約3ケ月分の食料と生徒が寝るための毛布が備えてあります。今生徒はそこにおり、皆無事です。しかし、万一ゲリラが銃撃戦を中止しない場合、我々は本国に連絡し軍を動かせることを検討いたします」そして最後にこう言った。
“Our government saves your son's life on the name of Queen and Great Britain.”
その時の両親の安心した表情を私は一生忘れない。私はこの10月にニューヨークに旅行に行く予定であった。周りの人にそう伝えると誰もが口を揃えて危険だからと反対する。それでは今、ニューヨークで働いている人たちはどうすればいいというのか。日本から一歩も出ないでただマスコミの報道のみを信じ、現地の人と一言も交わすことなく判断を下すやり方はかっての外務省の体質に似ている。日本人が国際舞台で対等に発言権を持てる日はまだまだ遠いと思われる。 (佐倉病院産婦人科)