ある医学図書館員の軌跡

佐倉図書室通信 No.115/ 2002.3
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々 C



初めての患者さん  spiritual pain

K.I.

彼女は一人暮らしだった。白血病の末期で、肺炎による熱発をコントロールするために、入退院を繰り返していた。身寄りもなく、近所のボランティアの方が時々お見舞いにきていた。午後はいつも39度以上の熱で、「もう死にたい」と口にしたこともあった。時には気持ちが悪いと言いながら、唾液のみを一時間以上出しつづけることもあった。点滴は自分で抜いてしまい、酸素マスクも嫌がって外したりした。

急性期医療を目的とする大学病院の内科病棟では、とりあえず熱を下げて療養型病院への転院を目指すのだが、彼女は回復後も自宅に帰りたいと言っていた。自宅に帰れば、また同様に熱を出すことは、本人もボランティアの方も承知していた。それまで数年間、そのような入退院を繰り返していたのだった。

彼女の場合、幸いなことに、原病による痛みの訴えはなかった。医療従事者への依存心が強く、周囲の人を困らせることによって、自分の存在と他者との関係性を確認するのが日課だった。自宅を売却して療養型病院へ長期入院することを拒み、医療費の安い大学病院を選択していた。本格的な介護ヘルパーを自宅に招くのは費用がかかりすぎるのも、ひとつの要因となっていた。

初めて患者を受け持った研修医にとっては、彼女のような患者は極めて厄介であると言わざるを得ないだろう。しかし当時は、まず熱を下げることで頭が一杯だった。薬を変更するにあたっては、殺すつもりなのかという意見もあった。幸い状態は回復したが、転院にはなかなか応じなかった。一ヶ月程して、ようやく転院へとこぎつけたが、ボランティアの方から後にお聞きした話では、半年くらいしたらまた戻ってくるつもりだったらしい。

しかし彼女は戻ってこなかった。数ヶ月後、ボランティアの方が来られて、転院先で脳出血のために急死したという報告があった。お世話になりましたと、お辞儀をされたボランティアの方の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。自宅で死にたいという本人の希望は叶わなかった。高い熱で苦しみたくないという願いは、転院後も実現したようだった。馴染みのボランティアの方と週に数回会って、やはり大学病院にいた頃のような会話を続けていたらしい。大学に戻ったらまた、主治医になって欲しいと、本人が希望していたという話をお聞きした。

今から考えてみると、彼女と知り合った頃には既に、彼女なりに死の受容がなされていたと感じざるを得ない。死への恐怖からもがき苦しむといった様を、彼女の表情から見た記憶はないからだ。むしろ生の中で感じる孤独を、他者への甘えによって解消しようと努力していたのだろう。大学病院で以前のように時間を過ごすという希望も、孤独の解消に役立っていたのかと思うと胸が痛くなる。

spiritual pain---日本語では実存的痛みと訳すこともあるが、あえて「たましいの叫び」と意訳したいと思う。もちろん、彼女にとって周囲の人々に精一杯甘えて、医療関係者を困らすことが、叫びの表現であり、救いとなっていた。しかしそれ以上に、実は研修医だった自分にとっても、彼女が自分を困らせるという形式で、彼女との関係を維持してくれていることが最善の関係性であり、自分にとっても唯一の救いだったように思う。今でも、他のどのような形で彼女と関わることができたか、思い浮かべることができないからだ。医師になって最初の患者である彼女は、文字通り、忘れえぬ人である。今では、顔も声もはっきり憶えていない。名前すら忘れてしまっている。しかし、彼女と過ごした日々を思い起こすと必ず蘇って来るこころの痛みは、これからも消えることはないだろう。むしろ、痛みを忘れないで、そこから何が産まれてくるか、観察しつづけることが、彼女への恩返しであると考えられる。