ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.131/ 2003.9
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々S



花のえにし

若山 真弓

千葉に引っ越して間もない頃、花好きの母は近所のお花屋さんの常連になった。その頃、いつも母の後にくっ付いていた私もおなじみさんになった。通いつめて半年ほど経ったころ、お花屋のおばさんに「お花のお稽古してみない?」と声をかけられた。見れば、お店の中に3つほど免許らしき大きな木の看板がかかっている。全く記憶に無いが、その時「うん」と即答したらしい。母は、迷うことなく9歳の私を連れ「松月先生」の門をたたき、翌週からお稽古がはじまった。両親と3人暮らしの私にとって、先生はなじみの無いおばあちゃまだった。始めの頃はどうやって接したらよいのか戸惑い、緊張の連続であった。まわりのお弟子さんも、母を上まわるおば様方ばかり。9歳の私は特別扱いで、かわいがっていただいたが、やはり常によそ行きの気分であった。

家から歩いて5分の距離を、毎週土曜日の午後ずいぶんと通った。はじめは、正座もままならなかったが、中学生にもなるとヘッチャラになるものである。お稽古は、その日にある幾つかの花材セットから、自分の好きなものを選び生ける。はじめは、先生が生けられたのを解いて、同じように生けなおす。1回1時間半の「まねっこ」修行である。半年ほどで「まねっこ」も卒業し、オリジナルを生けられるようになった。先生はそれをごらんになって、あれこれとコメントしながら手を加えて下さる。先生の背後からそれを見て覚えるのである。今にして思うと、なかなか忍耐のいる作業であった。元来、花そのものが好きだったことも、長くお稽古できた理由だと思うが、お稽古にはいくつかのお楽しみがついていた。お正月の「初生け」は、みんな着物を着たりおめかししていく。お稽古の後には、皆で先生の御節料理を頂く。一人でお稽古のときには、先生と二人でおしゃべりしながら和菓子を頂いたりもした。

中学に入り、いくらか自信がついたころ、月に1回千葉の本部にテストのようなものを受けに行くようになった。その頃になると先生は、私をその道を極める人になって欲しいと期待されるようになった。運動部に興じる私に「卒業したら、池坊学園に行くとよかね」と話されたりした。お稽古は好きだし、先生も大好き。考えないわけではなかったが、やがて高校を卒業し、看護学校に進学が決まると、先生は「そうね、わたしゃ池坊学園に行って欲しかったばいね・・・」とちょっぴり寂しそうだった。

その後、東京の学校に進学し、千葉を離れ、そのまま向こうで就職してしまった。私が東京に行ってからも「散歩のついでよ」といって、何年もの間『ざ・池坊』という雑誌を毎月実家のポストに届けてくださった。実家に帰って『ざ・池坊』を見るたびに、うれしいやら申し訳ないやらで胸が痛くなった。そんな先生のお蔭で就職してからも、しばらくの間お稽古させていただくことができた。たまに、ご挨拶に行くと「お稽古しとるね?」「私は、お花で頑張ってほしかったばってん、しっかりえらくなってうれしか。お花は、1級もってりゃよかたい。大丈夫。今度は、かわいいお嫁さんにならんば」そう言って、いつも笑顔で迎えてくださった。その後、お稽古を終わりにされたようだと母から聞かされた。お訪ねすると、とても喜んで下さるが、体調はあまり良くないとのこと。季節のたよりにお返事いただけるのに安心してご無沙汰していた。

ある日、外来ですれ違った女性に声をかけられた。先生の娘さんだった。先生が大腿骨頚部骨折で6階病棟に入院なさっているとのこと。久しぶりにお目にかかった先生は、すっかり小さくなられていた。それでも、看護学生さんに受け持ってもらっているとうれしそうに話された。退院されてから御自宅ヘお見舞いに伺った。その時、先生が結婚前は九州の病院で助産師をしておられたことを初めてお聞きした。なんとも、ひっくり返りそうなくらい驚いた。「あれ、言わんかったかねー」と、先生は全く動じず・・・。 なんとも不思議なえにしを感じずにはいられなかった。幼い頃から慈しみ育てていただいたことに感謝し、先生の長寿をお祈りする気持でいっぱいである。先生に頂いた「桜月」の名を大切に、今後も、一生お稽古を続けていきたいと思う。 (佐倉病院看護部)