ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.157/ 2005.11
寄稿エッセイ:ターニング・ポイント23



生きてこそ

有賀 いずみ

私の人生において、多分これ程の壮絶な経験は後にも先にもこれっきりだろう…これっきりであって欲しい…という思いを19歳の頃に経験した。当時私は新宿区医師会立看護高等専修学校の1年生で、実習に向かう準備をしていた。実習は厳しく、事前学習も夜中までかかっていたため決して楽なものではなかったが、私はとても充実感を感じていた。それもそのはず、小学生の頃から夢見ていた看護師の道に近づいていることは勿論、何と言っても人生初の「1人暮らし」を始め、2日目の朝を迎えたばかりだった。西新宿という都会の中で、住宅密集地、木造2階建て、昔は下宿だったという古いアパートだった。初めて揃える家財道具の多くはその時の自分の気持ちを素直に表現し、‘燃えるような赤’を選んだ。これが失敗だった。

身支度をしていると、突然ラジオや部屋の電気が一斉に消えた。電気を使いすぎたのか…それとも停電か…そんなことを思いながら室内を見回した。「何だか白い」まずそう思った。見れば見る程自分の部屋が白く煙っている。「まさか…」そんな思いで自分の部屋の押入れを見た。古びたコンセントが押入れの中に突出していたことを思い出し、布団に引火したのかと思った。布団を掻き出しコンセントを見ようとした時、私の目に飛び込んできたのは床板の隙間からリズミカルに吹き上げてくる煙だった。きな臭い臭いも充満していた。慌てて下に降りようと自分の部屋を出て目を疑った。目の前の階段をまるで人が上るように煙が上がってくる。その後ろを追いかけるようにものすごい勢いの炎が追いかけてきた。あまりの驚きに私は思い切り息を吸い煙を吸ってしまった。あっという間に目前に迫った炎の熱さと轟音の中で逃げ場を失った。朦朧とする意識と息苦しさの中で「死」を覚悟した瞬間だった。

今までにガールスカウトや学生時代のキャンプなど皆と楽しく火を囲んだことはあったが、火に‘恐怖’を感じたのは生まれて初めてだった。熱い炎の中で両親に電話をかけた。もう生きては会えないと思ったからである。火事だと伝えても電話口の父は初め信じてくれなかった。今思えば、この父の反応はごく当たり前で「朝から何冗談を言ってるんだ」ぐらいの気持ちで聞いていたのだと思う。余裕のなかった私は「もう助からないから」と叫んでいた。助からないと思いながらも、「さようなら」という言葉は何故か言えなかった。ただならぬ娘の様子に父も「とにかく何としても逃げろ!」と電話の向こうで叫んでいる声が聞こえたが、その声を聞きながら熱さのあまり電話を切っていた。

父の言葉で我に返った私は「消防署に電話しなくちゃ」と妙に冷静さを取り戻していたが、背後に迫る炎の熱さと部屋に充満した煙の苦しさで電話がつながる前に放り出してしまった。今までに出したこともないような大声で助けを呼んだが、想像を絶する轟音にかき消されていた。私の部屋の前にわずかな屋根らしきものが続いていた。必死で窓枠に捕まり、そのでっぱりに爪先立ちをしながら炎から逃げようと思った。今よりはるかに軽かった当時の体重でも、今にもポロリと取れてしまいそうな頼りない屋根?であった。炎の熱とはいかに凄いものか、自分がしがみついている窓が思い切り自分に向かってはじけ、同時にすごい勢いの炎が一気に舐めるように建物を飲み込んでいた。炎にあおられながら、あとはもう必死だった。

あまりにも火の回りが速く、「着の身着のまま」とはまさにこの時の私のことだろう。何も持っていなかった。靴さえ履いておらず、ストッキングはボロボロでスパッツのようになっていた。通報で駆けつけた消防士に保護された時、恥ずかしいことに私は腰を抜かした。二人の消防士に両脇を抱えられ、消防本部の車両に引きずられるように乗せられた。「住所は?」「名前は?」次々と色々なことを聞かれたが、ショックで声を失っていた。ただ保護された車の中で、止め処なく湧きあがる涙をぬぐいながら、ガタガタと震えていた。

火事の第一発見者である私は、新宿警察署の取調室に入れられ、延々と「何時何分に何があったのか」「部屋の間取りを書きなさい」「柱はどこにあったんだ」「水はどこにあったんだ」「どこから何色の火を見たのか」等とひどい扱いを受けた。住んで2日目の借家で、正確にこんな質問に答えられる人がいたら代わって欲しかった。
その後は火災現場での現場検証。現場から見つかった一つ一つのものを「あなたのものですか?」と聞かれても、色も形も変わり果てた洋服の5cm角にも満たない切れ端を見て、「私のものです」とはっきり言えなかった。多くの野次馬やテレビカメラが見ている中で「自分の物も分からないのか」と警察官に怒鳴られた。例え職務上必要なこととはいえ、被害者である私の気持ちに土足で入り込むようなことの連続だった。しかし一番憎らしかったのは現場から出てきた火元男性の焼死体である。酷い臭いと醜い姿だった。「全てを返せ」と怒鳴りたかった。

私が住んでいたアパートを含め、隣近所の住宅4棟が全焼、2棟が半焼、死者1人。消防車24台が出動し、青梅街道が通行止めとなる大火事だった。意気揚々と1人暮らしを始めたはずの私の生活が全て跡形もなく燃え尽きてしまった。 しかし幸いにも私は生きていた。前髪と睫毛は炎にあおられ全て焼けてしまったが、大きな怪我や熱傷もなく助かったのだ。その日の夜は炎の中にいる恐ろしい夢ばかりを見ていた。翌朝、父が起こしに来てくれたが、目を開けた瞬間「お父さん、私・・・生きているよね」と言った。父は「そう、生きているよ」と答えてくれた。普通の親子の間で普段ならありえない会話だが、本当に「生きている」と実感した嬉しい瞬間だった。前日に消火作業に使えるのでは…という程沢山の涙を流したが、どこにそんな水分が残っていたのか、また涙があふれて止まらなかった。

あれから十?年…私は今も生きている。しばらくはガスコンロの火も付けられず、焚き火を見ても恐怖で涙が止まらなかったが、今は克服した。火災に逢った3月3日、実家では「散々の日」と名づけられている。あの時の様々な経験が私を強くした。今では少々のことではめげない自分がいる。「あの時死んだ気になれば何でもできる」そう言い聞かせてここまでやってきた。現在、産婦人科の某先生をはじめ、2階病棟のスタッフからも「組長」や「番長」と呼ばれる強い私はこの日を境に生まれたと思っている。今ある毎日が私にとっては「生きてこそ」の実感なのである。 (佐倉病院看護部)