ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.138/ 2004.4
寄稿エッセイ:ターニング・ポイントC



今ある外科医への道

加藤 良二

それまで送っていた人生と全く違う方向に進み始める、まさに踵を返す瞬間をターニング・ポイントと定義するのなら、それほど極端に違う道へ進んだという憶えはありません。小さくその刹那における決断で少々の軌道修正というか方向の変化はあるものです。その中でも自分を導いてくれる大事な師匠との出会いがあります。私が外科医へ進むきっかけとなった人との出会い、また手術を指導してくれた人、更にブラックジャックへと進化するきっかけを与えてくれた人など様々な人とのすてきな出会いを綴ってみたいと思います。

小さいときに読んでもらった「野口英世」の伝記で一生の仕事を決めました。ばぁちゃん子で育った頃、叔父さんに読んでもらい、感動を得ました。決して「野口英世」になりたいと思ったわけではありません。研究に勤しむようなタマでなく、その頃から体を使うことが大好きな子供でした。何に感動を受けたかというと、話は長くなりますが、「野口英世」について語ることになります。「英世」がまだハイハイをしている頃、母親がちょっと目を離した隙に囲炉裏に手を突っ込み、これがもとで手がドラえもんになってしまったのです。指がくっつき何も持てなくなった手をみて母親がどんな思いでいたかと可哀想に思うと同時に、悔やんでも悔やみきれない母親の苦しみを救った人がいました。それが今で言う整形外科、或いは形成外科の医師でした。手術で瘢痕を除き、末の研究につながる「英世」の人生を左右することになったわけです。こんないい仕事(その時は役柄と理解していた)が他にあるかと思い外科医になることをその時に決めていました。小学校2年生でした。

それから一直線かというとそうではありません。ちょっと浮気しました。中学校を卒業する前に「医師」と「板前」で悩みました。共通点はというと人に喜んでもらう仕事で、うまくいった仕事に対して幸せな顔を見ることができ、しかも生活ができそうだということです。外科医との共通点は「メスと包丁」同じく刃物を扱うことです。この時は得られる感動の大きさで「医師」を選びました。紆余曲折を経て医学部へ入り、卒業する直前に何科に所属するかで選択を迫られました。学生の間ラグビー馬鹿で勉強をしたことがなかったことから当時天皇と呼ばれた群馬大学第三(血液)内科前川教授の下へ研究生活に憧れて、入局の挨拶に行きました。無謀ともいえる挑戦かと思われましたが、卒業試験終了日にラグビーの先輩方に拉致されて、原町赤十字病院(群馬の吾妻にある田舎の病院)へ連行されました。その人は院長で、外科医で、ほとんどアル中でした。飲んだ勢いで外科入局を決め、2年目にその人のもとを訪れました。とてつもなく手術が速く、しかも気持ちの繊細な人でした。膵頭十二指腸切除(PD)を3時間半で終え、乳癌など開始から15分で切除してしまう人でした。ただ出血量は多かった(残念ながら)。たった一度、「This is Appe!というものを見せてやる」と助手で何もさせてもらえなかった時から1年間で157例、ただひたすら切りまくり一日に5例を続けて手術することもざらでした。一人で看護婦さんを相手に最短で5分間で虫垂切除を終えたこともあります。院長とはよく飲みました。最後の「Appe」は院長が手伝ってくれましたが、その時に「よ?し合格!」といわれ、胸が熱くなったのを思い出します。既に故人です。未だにそのスピードに達していませんが、あの指の動きは今でも焼き付いており、目指しているところです。外科医の自分にとって「技の追求」が必要だと教えてくれた初めての師匠でした。

二人目は群馬大学第一外科入局後のことです。何となく診療・研究生活に明け暮れている頃、教室改革の話が沸き上がり下克上さながらに「出る杭は打つ」式の先輩達と戦ったことがあります。この時私の前任の医局長を務めていた竹之下誠一先生(現福島県立医科大第二外科教授)と教室の在り方や未来について連日酒を飲んで熱く語り、行動を共にしていました。「免疫」の研究に出会ったのもこの頃でした。当初、田舎の診療所での外科医を目指していたはずなのに、教室の在り方を考えているうちに、いつの間にか学生や後輩の教育に一生懸命な自分になっていました。専門臓器を教授や先輩から求められるままに胃癌→大腸癌→肝癌(国立がんセンターで研修)→肺癌と手を染めていったにもかかわらず、一貫していたのは「臓器はどこであってもいいが、癌はすべて取り除いてやる」という思いでした。しかし手術による侵襲を何とか軽くすることができないかと内視鏡下手術を始めました。竹之下先生(当時は助教授)と1992年に群馬大学第一外科の教授を説得して、群馬大学で初めての腹腔鏡下S状結腸切除を成功させた後、群馬県内視鏡外科研究会を立ち上げ、以後群馬県下に内視鏡下手術(腹腔鏡、胸腔鏡を問わず)を普及させるために行脚しました。これと平行して、侵襲性が強い手術や化学療法あるいは放射線治療などを少しでも楽に受けられるようにと群馬免疫セミナーを主催しました。この研究会は決して化学療法や手術に対抗するためのものではなく、患者さんをサポートしつつ、より侵襲性の強い治療が遂行できるようにするための補助として免疫を考えるための会でした。免疫を落とさずに根治性を追求すること、即ち患者さんに優しい外科治療が、自分の一生の研究テーマとなり、今日に至っています。竹之下教授は外科医にとって「研究や勉強が大切」なことを教えてくれた先輩であります。ただの診療だけじゃつまらないじゃないですか。いつまでも夢は持ち続けたいものです。

外科の医局に入って10年目に消化器外科から呼吸器外科へと転身したわけですが、これが外科医としてのターニング・ポイントと言えるかもしれません。それまで群馬大学第一外科では呼吸器外科を専門とするものがおらず、肺癌患者も少しずつ増加している現状で、教室内で専門職をつくる必要が出てきました。誰か行って来ないかと相談があり、私が指名を受けました。文部省(当時)在内留学生として東京医科大学外科第一講座早田義博教授の下へレーザーの研究に10ヶ月間通いました。レーザー照射は高出力のYAGレーザーと低出力のPDT(Photo-dynamic Therapy:光線力学的治療)の2種類があり、早期の肺門部肺癌を適応としていましたが、年間を通してそんなに症例があるものではなく実質的には肺癌の診断(主に気管支鏡)と手術を習得することが主でした。早田教授は日本の肺移植の1例目と3例目を手がけた先生で、無口ではありますが、とても豪快な方でした。私の肺外科の師匠です。横一列で同時に3例の肺切除が並んだりすることがあり、「えいやっ!」と摘出して隣の手術室に移る。とそんなこともあり、結構無茶をしても大丈夫なんだなぁと感じた当時でした。それまで消化器の学会にしか入っていなかったのですが、呼吸器関連の学会にも入り30個ほどの年間の学会費で出費も大変でした。消化器から呼吸器へ移ると一言で言っても割と大変なことなのです。留学して1ヶ月間は見慣れぬ術野で頭は混乱し、解剖書と首引きの生活で一年生をもう一度やっているようでした。呼吸器外科に移ることに、何の気なしに「Yes」と言ったものの、始めてみてかなりきついことが解りました。実際のところ学会に行っても知り合いは皆無で、こんな私でもちょっと心細い思いでいましたが、早田教授、於保健吉教授、現教授の加藤治文講師以下東京医大の面々に家族・兄弟のように支えられて、漸く呼吸器外科の仲間入りができました。

留学から戻ると消化器から呼吸器まで全ての手術の指導を担当するようになりましたが、呼吸器外科に慣れてみて何がよかったかというと、消化器の手術が簡単に見えてきたことです。消化器しかやっていなかった頃に大変だと感じた食道癌の手術がとても簡単にでき、またおそるおそる取り扱っていた肝静脈や門脈も平気で弄れるようになっていました。更に胸腔鏡下手術を積極的に導入したことで狭い視野、深い術野での操作が比較的簡単にできるようになっていたことです。若い外科医に言いたい。「こだわりを持たず、彼方此方行って、いろんなことを見て、やってきなさい。なにがしかの栄養になるはずである。」良い師匠に恵まれて習練しているときは、何をやっていても、どんな状況でもとても楽しいものです。 (佐倉病院外科)