ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.126/ 2003.4
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々N



最初の留学 - 希望と失意と収穫 - グリーンスタイン博士
                   
杉村 隆

今日(こんにち)、 Gesse P. Greenstein と言っても、誰も知らない。1950−1960年代に名著と言われた"Biochemistry of Cancer"を著した人である。私が癌研究所にいた頃(1955年前後)、日本の学界でも世界の学界でも、がんを研究している人で知らない人はいない、神様みたいな人であった。1956年に日本生化学会が九州で行われて、特別講演のために来日された折に、大塚にある癌研究所にも訪ねて来られた。私の先生で、当時の癌研の所長の中原和郎先生が、胆がん動物の肝カタラーゼ低下の研究をしておられたが、Greenstein先生もその現象を早くに見つけていた。肝がんにはカタラーゼが欠けているので、がんを持つと体全体に影響が及び、正常部分もがん細胞に似てくるという、Greensteinの法則等を述べられた。

島薗順雄先生(当時 東大医学部生化学教室の教授)御夫妻のお供をして、日帰りで日光等を御案内したことと、私がカタラーゼ低下の機構を研究していたことから、翌1957年より米国の国立がん研究所の生化学部に留学することになった。当時、酵素学とその組み合わせの中間代謝の学問が、現在のゲノム研究と細胞内情報伝達ネットワークのように流行の先端を行く分野であった。カタラーゼを中心として肝細胞と肝がん細胞についての一番新しい研究をするつもりであったから、胸躍る思いでワシントン空港に降りた。

日本を出発する前からわかっていたが、Greenstein先生はもう一つ、アミノ酸とペプチドの有機合成の学者としても有名であり、アミノ酸組成を様々に変化させた食餌の研究に情熱を燃やしていて、研究室で主流の研究になっていた。いつの間にか、そちらの研究の中心に私も巻き込まれることになった。現在、振り返って考えてみても、最も化学的な栄養学であり、すべて構造が既知の明らかな分子を何分子摂取させるという栄養学で、粗蛋白質とか、糖質とかいう言葉は全くない。特定のアミノ酸何分子、グルコース何分子を与えるという概念である。各種のL-型アミノ酸を含めて全てを水溶液の状態として与えるものである。合成されたD-L アミノ酸をアセチル化して、豚の腎臓のデアセチラーゼで処理すると、L-型は遊離のアミノ酸となり、D-型だけはアセチル体として残る。アセチル-Dアミノ酸を塩酸水解すると、純粋D-型アミノ酸となる。L-型、D-型アミノ酸の組成を自由に変えることが出来る。液体飼料であるので、摂取量も正確に測定して研究できる。実験のスケールは1種のアミノ酸の光学分割だけでも数キログラム単位である。私が考えていたデリケートな酵素代謝学とは、かけ離れたものであった。一種の失望が私を訪れた。 1つの実験をすれば、後は工場のような繰り返しであり、興味が続かず、一時、失意の状態になった。

そのうちに、それぞれ必須アミノ酸のD-型からL-型へ生体の中で変換する −これはD-アミノ酸酸化酵素でケト酸になり、それがトランスアミナーゼでL型になる− 効率がそれぞれ違うとか、安息香酸を飼料と共に与えると、体内のD-アミノ酸酸化酵素が阻害され、D-アミノ酸が利用され難くなること等がわかった。Greenstein先生はin vivo enzymologyというのだと得意になっていたが、小生はあまり感激しなかった。しかし、他の研究室ではできない経験をしたと思うようになった。

1959年の冬であったと思うが、夜8時頃に実験をしていると、Greenstein先生が部屋に入って来られ、「遅くまでやっているな。火元に気をつけて」というような言葉を残し、帰宅された。その頃先生は、朝4時頃に研究室に来て、執筆中の大著Amino Acidsの本に取り組むのが常であった。そして7時頃に自宅に帰り、10時頃また研究室に現れる。すごいヘビースモーカーで、肥満体であった。そのGreenstein先生は、私が夜に別れの挨拶を交わした日の夜中、自宅で脳橋部の出血を起こし、2、3日後にはかなくも世を去られた。

Greenstein先生はニューヨークのブルックリン生まれで、米国のNIHで最初に部長になったユダヤ人であった。先生の御遺体はFuneral Houseに安置され、お別れに行った。葬儀の日、葬列の自動車が全部ヘッドライトをつけて、バージニアの墓地に向かった。土葬であるので、掘られた穴の中に御遺体が埋められ、参会者が少しずつ土をかけると、視界から消えた。ずっと時が経って、映画「アマデウス」で、モーツァルトの遺体が埋葬されるのを見た時、その時の光景を想い出した。墓地には無数のイスラエルの小旗があった。

Greenstein先生の名著の序文の中に、次の言葉がある。「The first edition of this book was written under the shadow of a great war. Since the close of that conflict, it is gratifying to note the resurgence of scientific life among many peoples and a return to the great tradition and heritage of learning which knows no national boundaries. Only the dead who have fallen with their promise do not return, and so much greater is the responsibility of the living.」

Greenstein先生の死後数ヶ月経て、私はクリーブランドのWestern Reserve Universityに移ったが、Greenstein先生に学んだ栄養学の知識や研究経験は、世界の他のどの研究室にもない正確なものであったと、だんだん実感するようになった。そして、一生、一見流行からはずれた研究に身を置くことに平然としていられるようになった。またその後、私と一緒に仕事をしている私より若い人々が、本当は心の中で、毎日実験していることをどう思っているのか、本当に幸福なのか、少しでも気を配るようになった。

ところで、Greenstein先生の書物の序から引用した所の最後の文章は、第二次世界大戦で亡くなった人々のことについてだと、私は長い間思っていた。極々最近、映画「戦場のピアニスト」のストーリーを読んだ時、それは、ホロコーストで失われたユダヤ人のことだったのではないかと急に思ってみた。今やユダヤ人部長や教授は、米国では当たり前すぎるほどになった。思えばGreenstein先生が来日した時、しきりに日本の再軍備の必要性について質問をされた。それは、日本の国家としての将来の発展に関わると思われたのだと、今、思う。私は、この原稿を、平成15年3月中旬に書いている。今から59年前の3月10日、東京下町の空襲で10万人近い市民が亡くなった。また間もなく、バグダットの市民の生命が失われるのではないかと憂うる。人間はどうして同じようなことを繰り返すのであろうか?何のために? (東邦大学 名誉学長)