ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.122/ 2002.11
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々J



「生老病死」を考える

鏡味 勝


千葉大学医学部を卒業して、医師免許を取得してから四半世紀がすぎました。今また、新たな四半世紀目を迎えていますが、臨床医としてはまだまだ未熟であります。鹿島労災病院と東邦大学佐倉病院で、毎週月曜日から金曜日まで毎日のように外来をして、多くの患者さんと接していますと、否応なく生と死の間の問題を考えてしまいます。今まで多くの患者さんの死の瞬間に接してきましたが、いつも自分の無力を感じていました。そして、そこには信じられないようなさまざまな人間ドラマが存在しています。それが、私の医師人生を形成してきました。そんないくつかを紹介してみたいと思います。

私の研修医時代、私が受け持った患者さんで、初めて死を見取った患者さんは、30歳女性でした。高血圧の検査入院で入院しており、そろそろ退院という時期に、大学ならではの『臨床講義』の症例に選ばれたため、退院延期して退院待ちの状態でありました。そんなある日、突然の頭痛が発症。教科書どおりのくも膜下出血で、意識レベルは急速に悪化。頭部CTでは、緊急手術の適応ではなく(当時、早期手術は難しかったようです)、待機となりました。脳死の状態でありましたが、当時脳死移植法案はない時でありましたが、第2外科の移植チームから腎臓移植のドナーとしての依頼がありまして、ご家族に申し入れましたところ、苦渋の選択であったと思いますが、快く承諾が得られました。

物言わぬ体を前にして悩んでおりました。しかし、脳死などまだまだ人の死として受け入れられるわけもなく、それからの1ヶ月の泊り込み生活は、肉体的にも苦痛でありましたが、まだまだ体力十分の時代。精神的な苦痛に比べれば何ほどではありませんでした。また、ご主人の苦痛に比べれば何ほどでしょうか。1ヶ月後、心臓死を迎えたときも、悲しみに浸っている間もなく、直ぐに移植の準備です。結局、発症から移植までの期間に感染症があったため、移植は断念されました。残念無念―言葉になりません。疲れと悔しさから毎晩のように飲み歩いて吐血してしまったものです。実に情けないことです。それだけ今と違って、一人一人の患者さんにのめりこめた時代でした。今は多くの患者さんが待っているわけで、なかなか病気にもなれませんよね。一生忘れることのない経験でした。

一番最近の死亡診断書は、死体検案書でした。4月から引き継いで診ていた糖尿病、慢性腎不全の一人暮らしの足腰の悪いおばあちゃんで、透析寸前でありました。透析病院への紹介状はすでに用意していましたが、その来院予約日には受診せず、ある日曜日、心肺停止で発見されました。警察が到着したときには、死後30時間ほどたっていました。警察からの依頼で検死にでかけました(4月から2件目)。庭は雑草が伸び放題になっており、家の中に入れば、飼い犬のにおいと犬のえさがそこら中に散らばっていました。高齢者時を迎えて独居老人の孤独感を見た思いでした。しかし、そのように考えるのも傲慢のようにも感じます。子供を育て上げ、自由気ままな生活を謳歌し、満足して黄泉に旅だったのかもしれません。ご遺体から苦痛の表情は見つけられませんでした。これ以外にも、いつも臨終の場では心穏やかではいられませんでした。数多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌  (鹿島労災病院内科)