ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.159/ 2006.1
寄稿エッセイ:ターニング・ポイント25


わが友 タバコとの決別 

伊藤 元博

確かにこれまでの人生で幾つかのターニングポイントはあった。大学の選定、診療科の選定、開業か勤務医か大学に残るのかの選択、人との出会いなどなど。しかし生来これといった目標を持たず、波の間に間に漂いながら生きてきた私にとって、そのターニングポイントを通り過ぎて、自分自身に、あるいはわが人生に大きな変化がみられたかというと、その実感は全くない。

私は昨年の三月にタバコをやめた。この禁煙が私のターニングポイントになるかどうかは、これからの私に残された人生にどう決定的な影響を与えたかを検証する必要がある。しかし、人生は一度だけだからタバコをやめた人生と吸い続けた人生を比較することはできない。そうすると、禁煙は私の生活の中の単なる一つの出来事に過ぎないことになる。しかし、かなりの愛煙家であった私にとっては、この禁煙は私の人生の中でも最大のeventのひとつである。ハイライト一日30本。禁煙して9ケ月。何らかの変化が出たかというと、春の健診で心電図要精査、体重5s増加。涙がでるほど嬉しい変化だ。

私は山が好きでよく山に行く。山でのタバコはまさに至福のひと時を与えてくれる。そして、山の本にはタバコが名脇役として必ず出てくるし、題名にもよく使われている。タバコをやめて呼吸機能がよくなったかというとそうでもない。心機能が超人的に働き、駆け足で山に登れるようになったかというとそれも否である。相変わらず息はゼイゼイ、心臓はパクパク、前と変らずヨタヨタと登っているのである。9ケ月の禁煙で直ぐに目に見える効果が出るかとか、禁煙の効果はそんなことだけではないだろうと言われればもっともだと医者としては認めないわけにはいかない。

何故禁煙した私が未練がましくこんなひねくれた戯言を言うかというと、タバコを止めたことに対する罪悪感からである。タバコの害を否定するものではない。その上で敢えてこの言葉を使わせてもらう。先ほど山で吸うタバコの素晴らしさを紹介した。私は自分がタバコをやめる時は山をやめるときと決めていた。従ってタバコを裏切ったように感じているのである。私はまだ山に登っているのだから。いつも一緒にいる親友を裏切ったように感じるのである。だからむしろタバコを止めたことにより、体重がガンガン増加し、心機能が落ち、とても山に登れるような状態でなくなった時、はじめて40年来の友に顔向けできるのではないかと真から思っている。そして、決別した友の過去の栄光とその偉大さを称えることでささやかな罪滅ぼしをしたいとも考えていた。

友は過去において地球レベルでの文化であった。文学、音楽、映画、社交にはなくてはならない存在であった。名作には必ず顔を出し、重要な役割を演じていた。そして男の最高のアクセサリー(タバコは動くアクセサリーです、という名広告文があった)であった。その友がなぜか近年悪の根源のように排斥されてきた。友をはるかに越える悪害がわれわれの目の前に存在するにもかかわらずだ。曰く、CO2排出量の増加とそれによる地球の温暖化、気候変動、生活物質、食物の安全性の問題、食の偏在による子どもの生活習慣病など。子どもたちの食事情の貧しさは彼らの平均寿命を一挙に引き下げる可能性があり、公害は現在の地球環境を破壊し、その素晴らしさを未来につなげるのを妨害している。いずれも地球の未来を決定する大きな問題である。禁煙対策以上に急がなければならない重要な問題である。にもかかわらず、禁煙運動は燎原の火のごとく燃え広がり、世界共通の唯一の文化であったタバコを駆逐した。そしてその一助を私自身が担った。まさに千載の痛恨事であった。この一文を葬送曲とし、こらからの友と私の行く末を私自身が皮肉を込めて眺めていきたい。最後に、禁煙が私の人生のターニングポイントであるとすれば、このような偉大な友との惜別そのものであるのかもしれない。(佐倉病院長)